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鯨
カチリ。
軽快な音と共に今日の業務が終了する。
ゴキゴキと鳴る肩を揉みながら 明日の予定を考える。
明日も、仕事。
明後日も、ずっと。
「疲れた」なんて言えない。
苦しんでいるのは、りうらだから。
あいつには、 好きな事を思う存分させてやりたい。
笑顔でいて欲しい。
昨日の、りうらの寂しそうな顔を 思い出す。
「やせた?」
そう聞いてきたりうらの顔。
病人に心配されてどうする。
俺は、 りうらの為に存在しているのだから。
りうらの隣に立つために
りうらが倒れてきても、 俺が支えれるように。
これは、俺のエゴ。
りうらが罪悪感を抱いていることなんて、ずっと昔に気付いていた。
それでも良いとすら思った。
こんな俺を救ってくれたりうらに、 なんとしてでも返したかった。
だから、 日に日に重くなっていく身体も、
段々細くなっていく腕も、
知らないふりをして、 今日まで出勤してきた。
空のエナドリが入った仕事鞄を持つ。
さっさと帰ろうと、立ち上がる。
その瞬間だった。
視界がぐにゃりと歪む。
思わずデスクに手を付くが、 視界は揺れ、重心が定まらない。
自分の身体が傾いているのかすら 分からず、思わず固く目を瞑った。
それが引き金だった。
資料が床に散らばっていく光景と、 浮遊感を残して、 それからの記憶は無い。
自分のプライドとか、理性とか、 そんなもの全部捨てて看護師さんに しがみつく。
焦燥感と、罪悪感。 それから恐怖。
あにきが、 過労と栄養失調で倒れ運ばれて来た
そう看護師さんから聞いたのは ほんの数分前の事。
俺のせいだ。
俺が、もっと強く言えれば。
彼の善意を、強く断っていれば。
彼に 「無理しないで。」 「お金なら心配ないから。」 「自分を大事にして。」
そう言えていれば、
痩せたのを誤魔化す彼をもっと強く 問い詰めていれば、
こんな事にはならなかったはずだった。
どこから間違ったのだろう。
どこから俺はあにきに寄りかかるように なったのか。
さあ、とでも言うように毛布を持ち上げた看護師さん。
咄嗟に出た嘘。
それを彼女がどう受け取ったかは 分からない。
あまりにも分かりやすいそれに、 彼女は一つ、ため息を吐いた。
カーテンが閉められ、 足音が遠ざかって行く。
パタン、 と部屋のドアが閉まった音を確認し、 そっとベッドから足を下ろした。
ゆっくりカーテンを引く。
誰も居ない事を確認し、 久しぶりに立ち上がる。
膝に力が入らず、 ぶるぶる震えていることも、 今はどうでも良かった。
ゆっくりドアに向かって歩き出す。
重い身体。 管に繋がれた腕。
自分の身体が、こうでなければ、 あにきもこんな事にはならなかった。
どこから間違ったのか。
きっと、最初から全て間違っていたんだ。
俺は、それを詫びなければいけない。
あにきに、償わなければいけない。
気付けば、腕の管は抜けていて。
点滴スタンドが倒れる音と同時に、 俺は部屋を飛び出していた。
数年間ベッドから出ず、 点滴の生活をしていれば体力は落ちる。
整わない呼吸と、 荒ぶる心臓を抑えて物陰に隠れる。
あにきの居る部屋番号さえ知らないのに 勢いで飛び出してきたことを後悔しながら必死に頭を巡らせる。
落ち着け。考えろ。
看護師さんに話を聞いたのは ほんの数分前。
看護師さんが来たタイミングは 点滴の替えでも、食事でも無かった。
つまり “あにきが運ばれてきた” と俺に伝えに来たのだ。
何かのついでじゃない。 それを伝えに来た。
と言うことは、その情報は早いはずだ。
なら、あにきは…
思い立った途端、 重い身体を引き摺るように走り出した。
人の間をすり抜け、 エレベーターを待つこともなく 階段を駆け下りる。
喉が痛い。
張り裂けるように、熱く、 息が詰まる。
肺が、足が、頭が痛い。
喉が締まるような感覚の中、 揺れる視界で処置室の文字を見つける。
あにきが、中に居る確証なんて無い。
ここに居なければ、 今日はもう会えないだろう。
一刻も早く、あにきに会いたい。
会って、謝らなくてはいけない。
震える手で、そのドアを掴む。
ここに居ますように。
そう祈りながらゆっくりとドアを開けた。
結果から言うと、あにきはそこに居た。
真っ白な顔で、横たわっている。
点滴につながれた腕は細く、 以前の筋肉質なものとは程遠い 見た目をしている。
恐る恐る彼に近づく。
小さく胸が上下して居るのを確認し、 思わず点滴の付いていない方の 手を握った。
強く握った事で 点滴を無理に抜いた腕がじくじくと痛む。
あにきの手を握ったまま、 膝から崩れ落ち、床に座り込む。
ベッドから力なく垂れるその手に 俺は縋るしかなかった。
これまでも。
心の何処かで、 あにきがまだ面倒を見てくれていることに安心していた。
俺はもう一人ぼっちじゃない。
あにきが居てくれている。
その事実と、希望と、救いに 縋っていた。
俺が、 さっさと死んでしまえば良かったものを。
両親と一緒に、死んでしまえば あにきは俺に縛られることも 無かったのではないか。
あにきの数年を無駄にし、
癌で“可哀想な俺”に縛り付けた。
そうしたのは、間違いなく俺だ。
俺が、あの時、死んでしまえば、
全て、良かったのに。
回らない頭と、朦朧とする意識の中で あにきの手の感覚だけが鮮明に感じる。
骨ばった、男らしい手。温もり。
暗転しゆく世界の中で、 そっとあにきの手にキスをした。