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きっかけは、ほんの些細なことだった。

橙が、いつもより少し遅く帰ってくる。 それだけ。

連絡は来てる。 位置情報も動いてる。 問題なんて、どこにもない。

なのに

胸の奥が、ずっと冷たい

(もし)

思考が、勝手に走り出す。

もし道で声をかけられたら、 もし名前を呼ばれたら、 もし俺がいない瞬間に、

息が浅くなる。

起きてないことなのに、 「起きた後」の感情だけが、先に来る。

失う時の音。 空気。 ジェルの表情。

全部、鮮明すぎる…

スマホが鳴る。

たった一行。

それなのに、 指が震えて、すぐ返せない。

(遅かった理由、聞く?)

(聞いて、何が変わる?)

答えは、わかってる。

何も変わらない。

でも、俺が壊れる。

玄関の鍵が開く音。

ただいま〜

その声を聞いた瞬間、 張り詰めてた何かが崩れ落ちた。

同時に、

…どこ行ってたの?

声が、低すぎて自分でも驚く。

橙は、一瞬だけ目を瞬かせる。

コンビニに、メンバーと行ってただけやで〜!

"だけ”

その言葉が、刺さる。

俺の知らない時間

俺のいない空間

俺が守れない距離

…遅かった

責めてるみたいな、 言い方になったのが分かる。

でも、止められない。

橙が桃に近づく。

さとちゃん?

その距離が、 逆に怖い。

触れたら、失う想像が 現実になる気がして。

…今日は

俺から離れないで

命令でも、お願いでもない。

橙は黙って頷いた。

分かった

それが、救いで。

夜。

眠っている橙の寝息を確認しながら、 桃は天井を見る。

(失ったら、どうなる)

(俺は、どうなる)

想像の中で、 橙がいない部屋は、音がしない。

配も、笑いも、未来も、ない。

考えるだけで、指先が冷たくなる。

無理だ…

小さく、呟く。

想像だけで、壊れるなら。 現実にするわけがない。

布団の中、 橙を強く抱き寄せる。

橙が目を覚まさない程度に。 でも、離れない程度に。

絶対に失わない

それは、誓いというより自分を保つための呪文だった。

翌朝。

橙が、少し眠そうに笑う。

さとちゃん昨日、なにかあった?

桃は、微笑む

ん?なにも

何も起きていない。

でも

橙が起きる前に、全部塞いだだけ。

それでいい。 それがいい。

失う想像だけで壊れるなら、 想像させない世界を作ったらいい。

(ジェルが、外を知らなくなるまで。)

[完]

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