初めて自殺未遂を起こした時、 私が17歳の頃だった。
その夏、 頭の中でスーパーフレアが 起きたみたいに。 突然理解した。 死のうと思ったのだ。
今食べたい物を 思い浮かべるように ごく自然に。早朝だった。
手首を深く切ると溢れた血は朝日に 反射してキラキラ光っていた。 空では紺が白に。 白が青に変わって行く。 流れる雲の輪郭が 棚を引いては消えてゆく。
学校なんか行きたくなかった。 親にも友人にも何もかもに 不満があった。 ありふれた嫌悪だ。 誰しもが通る反抗期だったと思う。
私は地球上のほとんど全員が そうであるように 当たり前にままならない生活 を営んでいる。
だけどその全部が 目の前に続く長い長い人生に 常にまとわりつく。
私はこれから先の膨大な時間、 それに付随するあらゆる可能性を想う。そしてある恐ろしさにたどり着いてしまった。
言い換えるなら、それは 「ただぼんやりした不安」 に過ぎない。 だけどあれ以来、私にとって自死は 不可逆な時間の中での唯一の希望だ。
その後も数多の自殺を未遂に終わらせた
そして今は私は。
貴方
と言いながら 汗みずくの脳みそを 停止させている。
多分 睡眠薬と頭痛薬と風邪薬を 飲みすぎたせい。
私は今十八世紀初頭の 町並みに立っていた。 傍らに私の執事 そして少し先では他の執事が、 なんと天使の格好をした少年と戦っていた。
人間を消している。街も破壊している。
貴方
ベリアン
ツートンカラーのお兄さん (多分、ベリアンさん) が私を庇ってくれたのだが。 飛んできた瓦礫の破片は 私の頬を掠めた。
それは薄く表皮を撫でただけなのに、 私に大きな衝撃を与えた。
貴方
ベリアン
貴方
ベリアン
貴方の方が大きい瓦礫 にぶつかってましたよね とは言えず、私は
貴方
貴方
と、モゴモゴした。
本当に?本当なのか? 執事たちから、何度も夢じゃないとは言われていたのだ。それにはすべて 曖昧な顔で返していたのだ。
でも、どうやら。 随分と込み入った夢だと思っていたらどうやらここは現実らしい。
残念ながら、私はまだ狂っていない。 天使狩りは実在していて、悪魔執事は私が日常の面倒をすべて他人にやらせたいという願望から出来たせん妄でもない
そして脳みそがパンクする間にも、 天使は残り一体。 そして遠くでは金髪のお兄さんが 天使を倒し終えたところ。
貴方
ベリアン
貴方
ベリアン
貴方
ベリアン
貴方
べリアンはハラハラと思い悩むような、それでいてしっかりと 私の目を見つめて話す。 誠実な男に見える。 この話が嘘だとして、 彼にとってメリットはない。
なら、本当に。 私も死ぬかもしれないってことだ。
数秒の思考の後、私は与えられた幸運に感謝した。 願ってもない。 あちらから迎えに来てくれるなんて。 なんてありがたいんだろう。 私を滑稽なほどの自殺志願者と 知ってのことだろうか。
私の胸は歓喜に高鳴り 思わずべリアンの手を握って ぶんぶん振った。
やっと死ねる! 今度こそちゃんと死ねる! 私はもう死んでもいいんだ!
貴方
ベリアン
貴方
産まれ堕ちれば、死んだも同然。 産声をあげた時から、 生き物はみな 死へと一直線に向かっていくだけ
だからこそ、生きてから死ぬまでに 足掻くことが尊いのだ。 誰の命も等しく尊い。 私以外の命はみんな。
ああ、ついにやってきたのだ。 私のくたばる時が。 それに、天使に殺されることの 簡便さったらなさそうだ。 光の中で消えていくだけ。 私はいなくなるだけ。 期待に胸は踊って、 その夜はなかなか寝付けなかった。
が、悪魔執事たちは本当に 誰もが私を必死で守った。 危険な目には ちらとも遭せてくれなかった。
天使狩りの際は 前線に立たせてももらえず どんな身の回りのことも 世話されてしまう。 そしてもっと悪いことに、 屋敷にいるのは心地よかった。 自分の世界にいるよりずっと。 この世がフェアじゃないのは知っていたけれど、まさかここまでとは。
立腹した私は強硬手段に出た。 風呂場で鏡を割って、 太ももに突き刺したのである。 赤い血が水に触れて重く溶けゆく様子 を見て、私は思う。
これは正しい事なのだ。 と。
でも、また…死に損ねた。
次は首吊りでもしようか?
貴方
ベリアン
自宅のものよりよっぽど 大きなベッドの中で目を覚ますと、 涙目のベリアンの顔が見えた。 違和感に首を擦ると、 ケホっと咳が出る。 背中を支え撫でられながら、 私はゆっくりと上体を起こした。
途端、額に鈍い痛みが走る 。触ってみると、熱を持った膨らみと細かな線のような傷。
貴方
ベリアン
眠る前。 私はドアノブにシーツをくくりつけて 首吊りを図っていたのだが。 どうやら物音のしない部屋を 不審に思ったラトが蹴り開けたらしい。で、その弾みで私は吹っ飛んで気を失ったと。
貴方
私は素直に感嘆した。 よく気づいたな。 そんなに耳いいことある? それに気づいたとして、 蹴破るまでの躊躇のなさがすごい。
だけど執事たちも きっと私が自殺を繰り返すことに 慣れ始めているのだろう。 浴室で血まみれになったのは もう随分前の記憶だ。 どれだけの時間もどんな出来事も、 結局は過ぎては過去に送り込まれていく
ベリアン
貴方
ベリアン
貴方
ベリアン
貴方
ベリアン
何か答える前に、ベリアンは 「出過ぎたことを申しました」 と謝る。 それからすぐにお茶の準備に 取り掛かってしまった。
ベリアン
柔らかな黄金色のスコーンの横には クロテッドクリームと ラズベリージャム。 口に含むとそれは紛れもない絶品。
貴方
ベリアン
わがままを言うのなら 早く私を見捨てて欲しい。
だけど私が生きているとわかると べリアンは頬を染めて 本当に幸せそうに笑うのだ。 べリアンだけでなく、 皆ほっとしたり泣いたりと 一々騒ぐ。どうして。
ベリアン
貴方
ベリアン
貴方
弱りながらも妙に尖った神経が、 私を苛めている。 当然だ。 このところ、 私は自分の正しさに 自信を持てなくなっていたのだから
何度か自殺をしていくうちに、 私は彼らが真に誠実であること を知ってしまった。 この屋敷が本当の意味で 居心地の良いことに気付いてしまった。
今日この一時を、 幸せな時間として認識できない自分が憎い。
だけど死んでしまえばいい。 死にさえすれば終わりだし、 楽にもなる。
もしくは何の役にも立たず 何も傷つけず、 必要最低限の欲望だけで 生きるものになれたのなら こんなことは思わなくて済むけれど。 それは叶わない。
私は今日も、無力な人間だ。 目と耳を塞ぎ、 口をつぐんで生きてはいけないのだ
だからこそ誤りのないよう 行動しようと思うのだが。 どどのつまり、 正しさを求める私の結論は変わらない。 そうだ。私は死んだ方がいい。
目を閉じて、 またミントティーを一口飲む。 なるべく早くそうなることを 願いながら。
そして、ちょうどアフタヌーンティーが終わる頃。規則正しいノックがして、べリアンが扉を開けに行く。
ベリアン
貴方
すぐに「失礼いたします」と声がして。ベリアンと入れ替わりに、背の高い褐色肌の男と髪の長いお下げの男が入ってくる。ミヤジとラトだ。
別に、頭を蹴られたことくらい 構わないのに。 許す許さない自体ナンセンスな問題だ。私は私のしたいことをしているのだから彼らもそうであるべきだ。
二人はきちんとした 謝罪を述べたけれど、 私はこんな話題から 早く逃れたくてたまらなかった。 ミヤジの控えめな笑顔と 真剣な眼差しは不器用だけど 正しくあろうとする人柄を思わせる。
ラトの取り繕わない表情と無遠慮な視線は、ありのまま他人に対峙する強さを思わせる。
二人とも私の執事には、もったいない。 それでも私には 彼らを解放する力も権限もないから、 甘んじて結果を享受するしかない。
ミヤジ
ラト
貴方
たんこぶなら元通りになるし 生きてれば怪我をするは当然だ それに、 自分の体の健康に興味などない。
私の話なんかやめよう。 どうせするなら もっと大切な話をしよう。
ミヤジ
貴方
早く逃れたくて 食い気味に答えた。
貴方
が、 私じゃなくスコーンの話を しようという提案は 無惨にも打ち砕かれた。 ミヤジの真剣な声音によって。
ミヤジ
失敗したと思った時にはもう遅い。 始まっているし止めるすべもない。 大抵そうだ。 私はミヤジの本気の説教を 受けながら いつも以上にのろのろ動く頭で思う。
もしかしたら少し怒っているのかもしれない。 言われていることに頷きながらチラと前を伺うと、ラトはもうとっくに私の背後、窓の外に意識を移していたようだった。ミヤジは気づいていない。
目の前の男がそんな風だと、私も自分の背が気になってくる。美しい蝶でも飛んでいるのだろうか。妙な形の彩雲とか、どこかの屋根に昼寝中のラムリでも見つけたのか。
ミヤジ
貴方
ミヤジ
貴方
ラト全然話聞いてないの面白い ていうか怒られるの久しぶりだなって、こんな本気で説教されることって あるんだな。 とは言えるはずがない。
私は答えを探すために 視線を彷徨わせ、 ミヤジの隣で行儀よくしていたラトに 再び目を留めた。 今度は壁のシミを見ていたようだった 彼が、ようやく私と視線を交差させる。
ラト
ラトの、 何を考えているのかわからない瞳。 青くて綺麗だ。存在しない、 おまけに永遠に褪せない 瑠璃液のそれも上澄みみたいな色。 均一に染まる瞳孔はきょろりと水晶体の中を泳ぐ。
その動きがどうしようもなく生きていて私は「ああ、生きているな」と思った。 彼らは夢じゃなく現実だ。この世界で地に足をつけて、絶望を身に宿しそれでも逃げずに戦っている。
それに比べて私ときたらまるで
貴方
ミヤジ
貴方
ゾンビは歩く死体だから。 死んだのに生きているから。 私はその逆だなって。 生きているのに死んでいる。 死んだように生きている
ミヤジは面食らっていたが 私は「逆ゾンビ?」と聞かれる前に 謝る。 ゾンビなんてものを説明するのは 面倒だった。 前提としてヨーロッパの怪奇には詳しくない。
貴方
説明するのは嫌いだ。 気遣いも自己開示も他人の話を聞くことも、全部苦手だ。 自我は鬱陶しいし、他人は疎ましい。何も共有したくない。誰にもわかってもらう必要はない。
誰かを言い負かさなきゃ いけないのなら は誰とも話したくない。 本音と建前の乖離に感謝する くらいなら民主主義なんていらない。 争い合うなら金や地位などいらない。 溝を生むなら個性などいらない。 束の間程度の自由も、 伝わらない言葉もだ。 がっかりするなら期待などいらない
私は何も望んじゃいない。 人間の作る社会にはもううんざりだ。私には向いていなかった。 だからやめることにした。 死ぬ理由に、それ以上のものがあるだろうか。
貴方
もう逃げたい許されたい救われたい。
貴方
そう言うと、 ミヤジは言葉に詰まった顔。 もう一人の執事はぱちぱちと その綺麗な目を瞬かせた。 傾いたオレンジ色の西日が、 彼の頬に差している。
この光景を写真に撮ったら、きっと美しいだろう。そう思った私はバカみたいにへらりと笑う。
私は君たちが好きだ。元の世界よりも、きっとずっと。
思うだけで、やっぱりそれも口には出さない。
花弁は透き通るような白だ。 しかし、この薔薇もいつか醜く赤茶ける。だから美しいそれを見つめながら、私は口の中だけで
死にたい
と呟いた。
しかしいくら今すぐ死にたくとも 出来ない理由がある。 隣ではフェネスがぴったり 私を見張っているし、 自分の手も包帯で大げさに ぐるぐる巻きにされている。
数時間前まで 馬車から落ちようとして 失敗したのだ。
乗っている最中、 鍵を外して転がり落ちようとしたが すんでのところでハウレスに捕まった。
ハウレス
ハウレスは声を荒らげた。
それがあまりにも鬼気迫る様子だったから私は謝ろうとして、 でもやっぱりそれも 違うかもしれないとか考えているうちに答えるタイミングを逸してしまった。
死ぬ理由も死にたい理由も、何度聞かれてもそれを説明しない理由も。一つの語弊もなく伝えられる気がしない。
借り物の言葉で納得させることは可能でも、言葉は自分のものでなければ意味がない。おまけに反論されたくもない。だから理由を教えるのは嫌だった。
さっきから黙り込んでる私に フェネスが声をかける。
フェネス
貴方
フェネス
元の世界にもないのに、 あるわけがない。だから断ろうとした。
フェネス
もちろん、フェネスは役に立ってる。 彼の言葉を否定するのは簡単だけど、 本当に自分がそう思ってるだけなら何を言っても仕方がない。かと言って下手に慰めるのも違うし、無下にするのも悪い気がする。
貴方
フェネス
質問、質問、何か気になること……。 この世界には何種類のどんぐりがあるのか、とか? いやだめだな論外。植物大好きなわけでもないし。
でも私の話題の引き出しには 「地球ドラマチック」 「今日のおやつ」「天気」 しか入っていないのだ。 あまり考えるべき重要なことはない。 だから薔薇が枯れそうなのが嫌だなんて理由でいつでも死ねるのだ。
今度から、何かちょうどいい話題を用意した方がいいのだろうか。でも取り繕うのも馬鹿みたいだし。
貴方
考えながら、私は窓枠に手をかける。 木枠の眼下には、広くてよく整備された庭。イングリッシュガーデンにしてはナチュラルだけど、私はとても気に入っている。それは緑の手を持つ庭師が、丁寧に花木の世話を焼いていると知っているから。
貴方
めくるめく緑の中に ぽつんとピンクの色 濃いライナックに似てたけど 足取り軽く歩き回っていた。 とても楽しそうに
ラトは花に顔を寄せたり、 そのまま手折ったり、手折った それを持ちながら またゆるゆる辺りを見渡す。
気持ちの良さそうな散歩。装わず、自分のために自然に振る舞う姿
貴方
フェネスは不思議そうに、首をほんの少しかしげた。
フェネス
貴方
フェネス
私の指差した先を見て、フェネスは目を丸くする。それからすぐに 「ラト!」と呼びかけた。
フェネス
ラトはそれに頷くでも首を振るでもなくなんとなく機嫌良さそうな顔を向ける。聞いているのかいないのかわからない 無頓着というか、すごく自由だ。 こんなのに自由なのに、屋敷にちゃんと所属してるのが不思議なくらい。
部屋の中ではベルが鳴る。
フェネス
この間に自殺しようと いうのはお見通しだった。
貴方
私は慌てたフェネスの後ろ姿を見送りながら、なんだか笑い出したいくらい愉快な気持ちになっていた。同時に確信めいた予感も湧いてくる。 入れ違いにボスキが入って来て、私に話しかける。簡単な挨拶の後、彼は私の包帯を見て片眉を上げた。
ボスキ
貴方
ボスキ
私はちらと花瓶の中身を一瞥する。 ラトはきっと、枯れる薔薇を想って 憂鬱にはならないだろう。 この花の美しさを 何のフィルターも通さずに、 ありのまま一身に感じる。 一瞬一瞬の光の粒を視認できるくらい、今あるものに対して ひたむきでいられる。 それって、すごく素敵なことじゃないかな。
私は再び窓に体重をかける。 見つめていると、マゼンダの髪は揺れてどこかへ行ってしまう。日差しが眩しかったのか、何か別のものに気を取られたのかもしれない。 フェネスのことは待たないようだった。確かに、頼まれただけで約束したわけじゃない。不真面目というより、いっそ清々しいくらい自分に忠実だ。
ラトを見ていると、心と体の動きがぎくしゃくする。予想外だし、何より楽しい
体の中心には細々と、だけど確かに高鳴る鼓動を感じる。これが私を生かしている。今は不思議と、それがちっとも嫌じゃない。 これは好奇心? それとも愛着? はたまたほだされ生まれた帰巣本能による、過度な思い入れ。
自分の気持ちもわからぬまま、私はいつまでも窓から顔をのぞかせている。
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