あの事故から二ヶ月が経った。
事故当時の自分は酷く血濡れだったらしいが、特に後遺症の残りそうな怪我には繋がってはいなかった。
そのおかげか、痛かった足腰も歩ける程度には回復している。
まあつまるところ、寝たきりは詰まらないということだ。
とは言ったものの、退院は一週間後である。
後一週間の辛抱だし、晴翔さんも定期的に見舞いに来てくれるのだから、文句は言えないか、と心で呟き、手元にあった本をもう一度開いた。
暫くすると、コンコンというノック音が聞こえてきた。
出雲 治
扉を開けて入ってきたのは、ここ碧峰病院に入院してからお世話になっている看護師だった。
その表情はどこか曇っていて、何か言い難いことがある様だった。
出雲 治
できるだけ優しい声で声を掛けると、看護師はおずおずと口を開く。
看護師
看護師
ああなんだそんなことか__と思ったが、何故なんだろうか、と疑問にも思った。
しかしこれ以上詮索しても口を割ってはくれなそうなので、その疑問はぐっと心に仕舞っておいた。
出雲 治
看護師
心底ほっとしたらしく、その表情は安堵の表情だ。
受けた話だ、仕方がない_と思いながら、置いていた本やらを仕舞った。
通された部屋はどこか薄暗く、じめじめしていて気味の悪い病室だった。
ただ、個室で窓も大きくよく景色が見える、気味が悪いところを除けばそれなりに良い部屋だとは思う。
看護師も荷物を運び終えた後、それじゃあと言ってそそくさと部屋を出ていってしまった。
これでまた、一人。
出雲 治
そう独りごちた後、先まで読んでいた本をまた開いた。
____。
___ょ_。
気味の悪い声が頭に響く。
一体ここが何処なのか、そもそもベッドから降りた記憶もない。
存在しないあの駅に辿り着いた時のような不安に襲われる。
ぼそぼそと聞こえてくるその声を理解しようと、耳を澄ます。
『__ょに、い__よ。』
『_しょに、いこうよ。』
『いっしょに、いこうよ。』
その言葉を理解した途端、背中に嫌な汗が伝い動けなくなる。
通路の向こうの方へ吸われるように目線だけが動く。
通路の向こうには、足取りの覚束無い白装束の女がいた。
ゾッとして目を逸らしたいし背を向けて走り出したかったが、どうも体が言うことをきかない。
どうにかならないかと焦っていると、不意に女の真っ黒い空洞みたいな目と目が合って、そこでぶつりと意識が途切れた。
がばり、と布団を押しのけて体を起こした。
出雲 治
出雲 治
服は汗で湿っていて気持ち悪く、時計を見てみるとまだ夜中の2時。
外は満月だけが浮かぶ真っ暗な空で、なんの音もしない。
暫く月に釘付けになったかのように、ぼうっと外を眺めていた__その時。
すごい勢いで何か黒い影が落ちてきた。
それは人のような何かで、でもなんの落ちた音もしない。
あんな夢を見た後で酷く恐怖に支配されていて、窓の外を見に行くという勇気も出なかった。
だから結局、その後は必死に眠ろうと目を瞑り、いつの間にか眠っていた。
次の日、また次の日もあの同じ夢を見た。
看護師に話しても、ストレスではないか、申し訳ない、そんな言葉で片付けられてしまう。
今日は晴翔さんが見舞いに来てくれる日だから、彼にも話してみようと思い、彼の訪問を待った。
暫く本を読んだり音楽を聴いたりしていると、不意に扉がノックされた。
ノック音が看護師のそれとは違うので、すぐに晴翔さんが来たのだと分かった。
出雲 治
月見 晴翔
月見 晴翔
月見 晴翔
出雲 治
出雲 治
月見 晴翔
出雲 治
月見 晴翔
月見 晴翔
出雲 治
出雲 治
月見 晴翔
出雲 治
月見 晴翔
月見 晴翔
月見 晴翔
出雲 治
月見 晴翔
そう言って持ってきたりんごやオレンジの皮を剥き始める。
ぼんやりと皮を剥く彼の姿を見ていると、どこか違和感を覚えた。
いつもとどこかが違う__と、一人で考えていた。
するとふと、彼の耳にいつもの耳飾りが着いていない気が付いた。
あの赤色の耳飾りは、確か彼にとって大切なものだったような気がするのだが。
悶々と一人考えていると、作業が終わったか果物を盛り付けた皿を持って彼がベッドの方へ向かってきた。
月見 晴翔
月見 晴翔
子供扱いされているような気がして、少し悔しい。
それでも5歳差とはそれだけ違うのだろう、とひとりで納得しようとする。
それからはずっと他愛もない話をしていて、夢見の悪い日々のストレスもある程度和らいだような気がする。
気が付けば日が傾いていて、彼は帰ることにしたようだった。
正直なことを言うと、帰って欲しくはなかった。
また、あの夢を見るのではないか__そう考えただけで悪寒が走る。
それでも彼に我儘は言えないのだから、大人しく彼を見送った。
一人がこんなに怖いものだったかと、他人事のように思った。
只今の時刻は午後11時。
夕食を食べ終え、寝るまでの準備を一通り終わらして、いざ寝ようとしてからはや1時間が過ぎた。
出雲 治
そう独りごちた後、ふと病院内に売店があったことを思い出して、何か買おうかと病室を出た。
出ていく前にちらりと窓の外を見やったが、そこにはただ明るい月が佇んでいるだけだった。
売店で飲み物を買って病室に戻ろうとエレベーターに乗ったところ、階数を押し間違えたか別の階へ降りてしまったようだった。
見覚えのある場所で、はていつ見たかと考えていると、誰かの話し声が聞こえてきた。
その声が誰のものだったのかは定かでは無いが、酷く不気味な、逃げ出したくなるような声だった。
夜の病院というものは恐ろしいもので、何の変哲もないただの建物でしかないはずなのに、ここにいると気がおかしくなりそうな気がしてならない。
恐怖で震えてしまいそうな身体に鞭を打ち、何とか病室へ戻った。
こんなことなら、売店に行かねばよかった__と、過去の自分を恨むしかない。
病室に戻ると少し安心したが、やはり眠れそうにもなかった。
眠ればまたあの夢を見る__そう思うと、どうも寝ることができない。
ひとつため息をついて、外の月を見上げる。
木も建物も月以外には何も見えないが、そのたったひとつ輝く月につい見とれていた。
__するとまた、あの黒い影が落ちていったのを見た。
どくん、心臓が跳ねる。
どんどんと鼓動は早くなっていき、恐怖で身体が動かせなくなる。
窓から目が離せない。
何か特別なものに惹かれているかのように、ただ一点だけを見詰めていると、黒い影が這い上がってきた。
出雲 治
声にならない悲鳴が口からこぼれる。
「い……しょに、……よ」
真っ黒い影は、開いていないはずの窓を容易く開けてこちらへ迫ってくる。
幸い身体は動いたので、どうにか扉を開けて逃げようと思ったが、ガタガタと立て付けが悪くなったかのように開けられない。
ゆっくりと迫り来る黒い影に恐怖を感じながらも、何か他に手はないかとぐるぐる頭を回す。
__ナースコールだ。
夜中に呼ぶのは大変申し訳ない、と心で思いつつも、怖くてそれどころでは無いので連打する。
その間にも、影は近付いてくる。
「いっしょに、いこうよ」
夢の時の感覚と同じだ。
真っ黒い影のはずなのに、ぽっかりと穴のように空いた目があるように見える。
それに見詰められると、意識が吸われそうな感覚に陥る。
意識が落ちる、その寸前に、扉の向こうから人の声が聞こえた。
看護師
看護師
聞き覚えのある、看護師の声に少し安心し、こちらからも言葉を返す。
出雲 治
扉の向こうから困惑の色が伺える。
開かないってなんなんだ、この影は物理的に干渉できるのか、なんて考えていると、その影がもう後1、2mのところにいるのが分かった。
じりじりと躙り寄る影に、ダメだと思って目を瞑る。
__すると突然、何かが光った。
直感的に、何かが護ってくれているのだと思った。
その光に気圧されたか、黒い影もこちらに迫るのを辞める。
黒い影の無いはずの目にじろりと睨まれたような気がしたが、すぐに影は悔しそうに闇に溶けていった。
光ったものはなんだったのか、それを確認しに行くと、そこには晴翔さんの耳飾りがひとつだけ置いてある。
安心と拭いきれない恐怖から、へたりとその場に座り込んだ。
出雲 治
看護師
急に掛けられた声に肩を跳ねさせたが、そこには扉が開いたのか看護師がいた。
看護師
出雲 治
やはり、という言葉から彼は黒い影の存在を知っていたようだった。
出雲 治
そう言うと、彼は目を逸らしながら頷いた。
彼によると、その影とやらはこの病院で亡くなった人の霊だという。
手術で惜しくも亡くなっただとか、病気でだとか、耐えきれなくなって自殺だとか。
そういうのが渦巻く病院だからこそというのか、怪奇現象も多々起こるらしい。
こうも実害があっては怖いので、幸い退院まで後2日だったからなんとか早めてもらった。
最近、こういった怪奇現象に見舞われることが立て続けにあって怖くなる。
特段心当たりがあるわけでもないが、とりあえず退院すればまず除霊に行くべきかな、とぼんやり考えていた。
__to be continued
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