任務終わりにポツポツと降り出した雨は、今では降る勢いを増し、恵の制服を一段濃い色に染め上げている。 ──今日の任務は散々だった。集中力を欠いていたつもりはなかったが、自分の判断ミスで関係無い人間を危険な目に合わせてしまった。幸い命に関わるような怪我では無かったが、傷痕も残らずに治る保証はないし、あの程度では反転術式の使用者を呼び出してまで治療はされないだろう。 先程伊地知にあとを頼んだ際、泣いていた女性の顔を思い出す。
伏黒恵
任務で関わった人間に毎回感情移入して憂鬱になるほどお人好しでは無いつもりだったが、寝たきりとなって久しい姉と近しい年齢の女性一人すら、無傷で助けることが出来なかったことにもどかしさを感じてしまう。 伊地知は被害者の女性を連れて病院へ向かう前、代わりの迎えを呼ぶと言ってくれたがそれは固辞した。自分自身に苛立ちを感じていたから頭を冷やすつもりだったが、こうして雨に打たれているとますます気が滅入り、やはり代わりの迎えを待つべきだったかと少し後悔する。 沈んだ気持ちのままゆっくりと川沿いの土手を歩いていると、フッと雨足が弱まった気がして上を見上げる。
伏黒恵
ぼんやりと見上げた恵の頭上に、雨を遮るように空中からこちらを見下ろしている人が居た。担任の五条悟だ。
五条悟
五条悟
伏黒恵
伏黒恵
五条悟
五条悟
言い方に少し棘があるのに気が付く。 目隠しがあっても五条の表情がやや険しいことに、長い付き合い故にわかってしまった。
伏黒恵
こうして怒られるのは久しぶりで、少しだけ気後れしつつ答えた。
伏黒恵
五条悟
五条悟
伏黒恵
五条悟
五条悟
恵はまだ高専の生徒とはいえ、呪術師は体が資本ってことくらい、恵も知ってるよね
君が体調を崩してたせいで、もし救えない命があったとしても、あとから責任なんか取れないんだからね?
伏黒恵
見下されている状態だと、圧迫感があるしいつもより五条を遠く感じる。そもそも悪いのは恵なのだし、何も言い訳もする気も起きなかった。 任務でミスをしたからといって、自分に罰を与えるつもりで雨に濡れたって被害者の女性の怪我が無かったことになるわけでもないのに……。 確かに愚かな行為でしかなかった。
伏黒恵
悄然と項垂れて謝ると、五条ははぁ、と溜め息を吐き出しつつ、下りてきて恵の肩に触れた。すると、五条に遮られつつも恵の肩に滴り続けていた雨粒が無下限に弾かれ、一雫も恵に触れることはなくなる。 何度体感しても不思議な感覚だ。
五条悟
伏黒恵
五条悟
五条悟
五条悟
──そうか……。 五条は被害者の女性の話を伊地知から聞くなりして、津美紀のことを思い出した俺が落ち込んでるんじゃないかと気遣って来てくれたのか。 五条本人も言うとおり、先程までは“恵を呪術師として教育する師”として厳しい態度を取っていたが、今はその表情に気遣わしげな色が浮かんでいる。
伏黒恵
五条悟
五条悟
五条悟
五条はそう言いながら自分の服の袖で、雨に濡れた恵の頬をごしごしと拭こうとする。口調はいつもの戯けた調子に戻っていたけれど、本当に心配してくれていたのがわかった。
伏黒恵
五条悟
五条悟
伏黒恵
五条の術式で空間を転移する瞬間の感覚に、恵は未だに慣れない。 浮遊感のようなものを感じるとともに、雨で冷えた体温には、触れている五条の体温がやけに熱くてなんだか変な感じだった──。
五条の所有する都内近郊の高級マンションに着くと、五条は恵に先に体を温めてくるようにと言った。 勝手知ったる五条の部屋なので、迷うことなく浴室へと向かうと、濡れた学ランを脱いでいるタイミングで五条が着替えを持ってきてくれた。いつも恵がここに泊まるとき用に置いてあるスウェットの上下だ。
五条悟
伏黒恵
五条がまるで親みたいにな口調で言うのがなんだか面白くなくて、つんとそっぽを向きながら答えると、五条は小さく笑みを漏らしながら恵の髪をかき混ぜた。
五条悟
コックを捻るとすぐに温かな湯が降り注ぐ。毎度のことながら、流石高級マンション、と思う。シャワーの水の出に苛つかせられることもなく快適で良い。古くて色んなところにガタが来ている高専の寮とは大違いだ。 温かい湯に打たれていると、冷えていた指先ががじんわりと溶けてほぐれていくような感じがした。
さっきまで自己嫌悪でどこまでもどんよりと落ちていくような気分だったのに、今はだいぶ気分が落ち着いた。 温かい湯に体が温まったことも一因だろうが、五条に会えたこと、言葉を掛けてもらったことが正直一番大きい。──悔しいから、絶対に本人には言ってやらないが。
伏黒恵
五条は恵にとって特別な存在だった。あらゆる意味合いで。 家族よりも長い時間を五条と過ごしているけれど、関係性には何も、名前はついていない。 しいていうならば、“保護者”と“被保護者”だろうか──? けれどそれさえも、利害関係で結ばれた関係性だ。 姉の幸せな人生のために、恵は自分自身の将来を五条に──呪術界に売ったのだ。
言葉にすると随分と事務的な響きだが、少なくとも恵は五条を信頼していたし、恵がもし自分の人生を語るとしたら、五条は絶対に欠かすことのできないほど大きな存在だ。
出会ったときはまだ五条も学生だった。 日本人離れした体型と顔立ちに、人を食ったような言動の妙な男。初めはもちろん恵も警戒した。 今思い返しても、五条は結局第一印象のとおりに滅茶苦茶な人だったし、良家のボンボンだから驚くほど常識は無いし、学生だったから仕方がないとはいえちょっとしたことですぐにキレるしで苦労したことも多かったが──それでも、子どもの恵相手でさえ変に誠実なところがあり、キレながらもなんとか恵達のことを理解しようと歩み寄ってくれているのはわかった。 その方法が滅茶苦茶でも、たまに癇癪を起こすことがあっても、関わろうと──理解しようとし続けてくれる五条のことが、恵は次第に好きになった。
五条悟
浴室の磨りガラス越しに、脱衣場の方から五条の声が掛かる。 恵はハッと我に返った。 ついぼんやりと昔のことを思い出していたようだ。
伏黒恵
五条悟
五条悟
伏黒恵
伏黒恵
五条悟
五条悟
五条悟
伏黒恵
五条悟
──この、生温かい距離感と関係性でいい。 五条は恵と違って特別な人間なのだ。特別な人間は自分のような凡人を唯一の存在として選ぶことはないだろうと恵は思う。好きでも、これ以上近付くのは無理なのだから、近付こうとして壊すよりも、今で充分だ。 今でも充分五条は恵に優しい。 だから多くを望もうとも思わない。 (続く)
この下にシーンを追加して続きを書いていこうと思います。