それから十日ほど過ぎた。カナとヒロトの生活は、意外なほど穏やかだった。
朝になるとヒロトはいつも早起きし、カナが買い置いていた牛乳を飲んで待っている。最初の数日は緊張していたが、今では彼が小声で歌う鼻歌がカナの目覚まし代わりになっていた。
カナ
カナが冷蔵庫の前で伸びをすると、
ヒロト
ヒロトが鋭く指摘した。
カナは苦笑いしながらコンビニ弁当を取り出す。
カナ
そんな会話を交わしているだけで、彼女の心は少しずつ解けていった。警察から逃れる日々の中で久しく感じていなかった安らぎ。
ヒロトの無邪気な笑顔を見るたびに、自分が本当に追われる価値のある人間なのか分からなくなる。
転機が訪れたのは金曜日の夕暮れ時だった。
いつものようにカナが近くのスーパーへ買い物に出かけ、ヒロトが留守番をしている時のこと。
チャイムが鳴った。
ヒロトは玄関モニター越しに見た。
ヒロト
画面には四十代くらいの男性が映っている。
スーツを着崩し、どこか疲れた様子だった。
差し出された段ボール箱は中華料理店のものだった。
ヒロト
ヒロトがインターホン越しに答えると、男性は笑った。
その時、ヒロトの視界の端で何かが光った。男の胸ポケットから覗く、青いバッジのようなものが——
次の瞬間、ドアノブが回される音。鍵はかけてあったはずなのに。
ヒロトの背筋が凍る。カナから何度も言い聞かされていたことが頭を駆け巡った。
次の瞬間、ドアノブが回される音。鍵はかけてあったはずなのに。
ヒロト
叫ぶよりも早く、ドアが開いた。
男の顔が強張った。視線がヒロトの赤い瞳に釘付けになる。
その刹那、ヒロトの身体が弾かれたように動き——
鈍い音。
傘の柄が男の喉元を貫いていた。
ヒロト自身、何が起こったのか分からないまま、生暖かい液体が床に広がるのをぼんやりと見つめていた。
男の口から泡が溢れ、手が宙を掻く。バッジが落ちて銀色に光った
━━━警察手帳だ。
カナ
カナが息を切らせて帰宅すると、そこには想像を絶する光景が広がっていた。
玄関に広がる血溜まり。
倒れている男。
そしてその前に立ち尽くすヒロト。
彼の制服に飛び散った赤は、彼本来の髪の赤色と混ざって恐ろしいコントラストを成していた。
カナ
カナの膝が震えた。頭の中で警報が鳴り響く。
しかし彼女の目に飛び込んできたのは、殺人者の顔ではなく——
涙を流す小さな顔だった。唇は震え、頬は濡れている。
ヒロト
その言葉に、カナの中で何かが崩れた。この子は祖父を殺したのではなく、家族を守ろうとして必死だったのだ。そして今も同じように……
カナ
カナは無意識にヒロトを抱きしめていた。
カナ
しかし腕の中の温もりとは裏腹に、彼女の全身は恐怖で硬直していた。警察手帳を持つ男を殺害した痕跡。これが発覚すれば彼女だけでなくヒロトも——
カナ
カナの声が震える
カナ
ヒロト
カナ
カナはヒロトの頭を撫でながら言った。
カナ
その夜、二人は再び闇の中に消えていった。ヒロトの手には、カナから渡された一枚のメモがある。
私は指名手配犯で、ヒロトくんは証拠品。あなた方には何も譲らない
カナはそう書くと、玄関に残したメッセージに火をつけた。赤い炎が二人の新しい逃避行を照らし出すように燃え上がった。
灰となったメモが夜風に舞い上がるのを見届けて、カナはヒロトの手を強く握りしめた。
カナ
彼女の声は低く、しかし確固たるものだった。
逃亡者の誓い
駅前のビジネスホテルをいくつか回ったが、すべて満室か監視カメラ付きの施設だった。結局彼らが腰を落ち着けたのは、市街地から離れた廃墟同然の一軒家。持ち主不明の物件だが、電気と水道が奇跡的に通じていた。
ヒロト
ヒロトが埃っぽいソファに座り込む。
カナ
カナは窓の隙間から外を伺いながら答えた。
カナ
言葉の途中で遠くからサイレンの音が聞こえた。二人は息を潜めた。
ヒロト
ヒロトがテレビを指差す。
画面には緊迫したアナウンサーの声。
アナウンサー
プツリ、カナがリモコンで画面を消した。
ヒロト
カナ
嘘だった。
犯行現場には少年の足跡だけでなく、指名手配犯「神代カナ」と一致する靴跡も残されていた。警察は既に両者を同一線上で捜査し始めている。
深夜、カナは押し入れの隅でノートパソコンを開いた。匿名VPNを通じて作った新しい銀行口座に、今日稼いだ額を記録する。窃盗、詐欺、どれもかつての生活では選ばなかった道だ。
カナ
乾いた笑みが漏れた瞬間、背後から声がした。
ヒロト
カナ
ヒロト
見ると少年はカバーだけ被った毛布を引きずっている。その赤い瞳には普段ない不安の色が滲んでいた。
カナ
ヒロト
カナ
カナは即答した。
カナ
ヒロトの顔に安堵が広がる。だがすぐに別の質問が。
ヒロト
唐突な問いにカナの心臓が跳ねた。
カナ






