コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
午後四時半。取材が終わってから、風香は星夜に勧められた食堂に足を運んでいた。不本意ながら、だが。 ここは郊外の山の麓。近くに飲食店の類はなく、あるのはせいぜい異様に値段が高い給油所や聞いたことがない名前のローカルなスーパーくらいなものだ。 風香が求めていたような蕎麦屋などもってのほかで、ここに住む人々はいったいどうやって生活しているのか気になるくらいだ。 同時に、わざわざこんな場所に研究所を建てた理由も気になった。 あえて人目を避けている。そんな意図を感じた。
北原 風香
その疑問の答えを知ることができるチャンスはすでに過ぎ去った。 いま風香の頭のなかにあるのは、目の前の盛り蕎麦の味だけだ。 つゆに浸して、ずずっ、と小気味よく麺を啜る風香。 実家のほうが美味いわね、と心の中で鼻を高くした。 許せないほどではなかったため十分ほどで完食。蕎麦湯まで堪能して一息ついた。
北原 風香
腹が満たされたことで思考は自然と他の満たされないことへ向けられた。 星夜の取材で得た情報は、彼が人並みに苦労したことと、人並み以上の幸運に恵まれたことくらいだ。 若き努力家で実力もあった彼に、編集長が資金を貸し付けた。 その後は順調に農薬の開発や植物の品種改良などで事業の規模を拡大。経営状況は実にまっとうで投資家にとっても魅力的だろう。
だがそんな表向きの顔に、風香は興味をそそられなかった。 秘匿性の高い住所、所長である星夜が発した新生物という言葉、なにより編集長がお金を貸したという事実。 あまりにも引っかかる点が多すぎる。 特に三番目だ。編集長は金貸しのヤクザではない。見た目もやり口もヤクザそのものだが、心の底から超常科学を求める求道者《シーカー》だ。 その彼が星夜の研究のために資金を調達し、研究を進めるように促したということは、この研究所でなんらかの超常科学が発生すると予想したからに違いない。 とはいえ風香はいまだかつて超常科学などというものをみたことがない。 本当にそんなものが実在するのか、それさえもわからない。 わからないし、実はあってもなくてもどっちでもいいと思った。 自分はただ取材をして記事を書くだけ。それが仕事でそれで給料をもらっている。 その内容が編集長の求める情報とは違っていたとしても、風香の目を通したこの研究所のありのままの姿を書くしかない。 編集長は売れる記事を書くなとはいわない。嘘は書くなとしかいわないのだ。 ならばその指令《オーダー》を犬のように忠実に遂行するまでである。 考えるだけ無駄。はやく帰って草稿を書こう。早めの夕食を終えて風香が立ち上がると、突如窓のシャッターが降りてきた。
北原 風香
動揺したのは風香だけではなかった。食堂を利用していた数人の研究員たちもざわついていた。
研究員1
研究員2
明らかに異常な様子に、風香は彼らに歩み寄って尋ねた。
北原 風香
研究員1
北原 風香
研究員たちは風香など蚊帳の外でああでもないこうでもないと話し始めてしまった。 風香は食べ終わった皿の乗ったトレイを返却窓口に返すと、頭を付き合わせている研究員たちを尻目に食堂を後にした。 廊下も全ての窓が塞がれていた。 これは不味い状況かもしれない。 風香は早足で正面受付を目指した。 廊下を抜けて、額縁に入れられた太陽や風車の絵が飾られた中央ホールにでる。 中央ホールから南側に進むと受付がある。受付の向こうで事務員が電話対応に追われているのが見えた。
北原 風香
窓口に入場許可証を置いて出入り口に向かう。 出入り口にはシャッターが下ろされていなかったが、取っ手を押しても引いても開かない。 ガラス張りの観音扉の向こうには夕日に照らされた森が見える。ほんの数十メートル先の駐車場には、風香の赤いクーパーも見える。 だが、そこまでたどり着くことができない。
北原 風香
一瞬、照明が切れた。 次に非常電源が作動したのか足下灯がついた。 いましがた歩いてきた廊下を振り返ると、真っ暗闇を橙色の光りがぼんやりと照らしている状態になっていた。
北原 風香
窓口のカウンターを叩いて事務員の中年女性に大声を張り上げる。 中年の事務員は受話器を片手で押さえて「いま取り込み中だから―。ごめんねぇ」といって再び電話対応にもどった。 なんなのよもう、そんな気持ちを表すかのように、風香は口を尖らせた。
北原 風香
妙な音が聞こえた。 空調の音ではない。もっと本能的に恐怖を感じるような音。いや、これは声だ。 悲鳴や呻き声が織り交ざった無数の声が廊下の奥、食堂方面から聞こえていた。
北原 風香
風香が額に汗を浮かべていると、ぴたり、と声が止んだ。 次に天井からなにかがものすごい勢いで移動する音が聞こえ、風香はとっさに頭を抱えて屈んだ。
北原 風香
天井を見上げて目を瞬かせる風香。 彼女の背後で、窓口の奥にいる事務員がふわりと宙に浮いて音もなく天井に吸い込まれていく。
北原 風香
風香が振り返るも、窓口の向こう側にいたはずの事務員の姿がなかった。
北原 風香
窓口の中に身を乗り出して中を伺うが、やはり事務員の姿はない。
研究員2
北原 風香
さらに体を押し込もうとしたとき、食堂とは反対側の廊下から叫び声が聞こえた。 びくりと身を震わせて体をひっこめる風香。廊下の奥を覗き込むが、人の姿はなく、足下灯がぼんやりと輪郭を浮かび上がらせる廊下が伸びているだけだ。
北原 風香
風香は廊下の奥へと進むことにした。 受付の下に赤い靴が片方だけ転がっていたが、彼女がそれを見つけることはなかった。 廊下を進んでいくと、ティー字路にさしかかった。 その角の中央に、膝を抱えてうずくまっている研究員を見かけて風香は駆け寄った。
北原 風香
風香が駆け寄るも、研究員は親指の爪を咥えたまま動かない。 なにかに怯えているようで、がたがたと震えている。
研究員2
しきりに独り言を呟いている。 風香は研究員の白衣がなにかで汚れていることに気が付いた。 乏しい灯でははっきりとわからないが、直感的に、これは血ではないかと感じた。
北原 風香
風香が研究員の肩に手を触れようとしたその時。 研究員は「うぷっ」と呻いて頬と喉を膨張させた。