結衣
のろい
恥の多い生涯
いつから、そうなったのか。
気がついたときには、僕の身体は石のように重く、ぼんやりとしか動かなくなっていた。 原因はわかっている。あの「青い光」だ。
板切れのような薄い電子画面が放つ、あの冷酷な燐光(りんこう)以外に、もう目を向けることができなくなってしまったのだ。部屋の隅の埃、窓の外のありふれた街路樹、あるいは、鏡に映る僕自身のひどく無様な顔。そういう、手触りのある現実を見るのが、たまらなく億劫だった。
それもこれも、僕がこれまで、耳触りのいい言葉ばかりを貪り食って育ってきたせいだ。
「君はそのままで素晴らしい」
「急がなくていい、明日はきっと良くなる」
世間の大人たちが僕の耳元で囁いたそれらの言葉は、僕を安心させるための薬などではなく、僕の五感を麻痺させるための、おそろしく巧妙な毒薬に過ぎなかった。気づくのが、あまりにも遅すぎた。僕の人生の帳簿に今、加速度的に増え続けているのは、ただただ、不毛な空白と、底なしの不安と、そして、冷え切った諦念ばかりである。
知識という名の外套
僕は、何一つ知らないのだ。
世間の仕組みも、人間の心の機微も、本当の飢えの苦しみも、何一つとして理解していない。それなのに、 僕のこの小賢しい頭の回路は、本を数冊読んだだけの、あるいはインターネットの海から拾い集めてきただけの上っ面の言葉をこねくり回し、あたかも全てを悟ったかのような「高尚なフリ」ばかりを、どんどん器用にこなすようになっていく。
ああ、おぞましい。自意識の肥大化というやつだ。
いっそのこと、僕の両手両足に、一歩も身動きの取れぬような、重い重い鉄の鎖でも繋がれていたならば、どれほど救われたことだろう。重罪人として、社会から物理的に圧殺されていた方が、どれほど気楽だったろう。
「僕をもっと満たしてくれ」「ああ、どうしても満ち足りない」
そんな言葉を吐き出すこと自体が、そもそも、烏滸(おこ)がましいの極みだ。そうだ、全くその通りだ。
僕には、衣食住のどれ一つとして、目に見える不自由など存在しない。世間のいわゆる「恵まれない人々」 に比べれば、僕はなんだって出来たはずなのだ。大金持ちにはなれずとも、学問を修めることも、恋をすることも、真面目に働くことも、その気にさえなれば何だって選択できた。 何不自由ないのだ。本当に、何一つ不自由がないのだ。
なのになんで、なのになんで、僕はこんな、どうしようもないほど、胸の奥がキリキリと、いらい
らするのだろう。
唾液の粘性
消えたいとか、そういう、世間で流行りの大袈裟な自殺願望を抱いているわけではない。
ただ、僕のような無能な男が、何も持たず、何もできず、それでいて誰からも責められず、不安も心配も、 一切合切が不要な、あの温かい母親の子宮のような世界がどこかにあればいいのにな、と、そんな子供じみた妄想を、うつうつと食っているだけなのだ。
なんてね。全く、呆れた御都合主義だ。
ふと、口の中の唾液の粘性が、やたらと不快に、うざったく感じられて、ペッと吐き出したくなる。寝転
がったまま、自分の両手を目の前にかざしてみる。寒さのせいで悴(かじか)んだその指先は、まるで吸血鬼のように血の気が失せていて、どういうわけか、二十代の若者のそれとは思えぬほど、やたらと老けて、 枯れ果てているように見えるのだった。
しかし、病院へ行って診察を受ければ、きっと医者はこう言うに決まっている。
どこも悪くありませんね、健常そのものです」と。
「 ああ、その言葉が、何よりも僕を絶望させる。病気という免罪符すら、僕には与えられていないのだ。
胃の腑からせり上がってくる胃酸のせいで、喉の奥がなんだか酸っぱい。
僕が走れなくなったのは、僕の足が肉体的に衰えたからではない。僕に、前へ進むなという呪いをか
けたのは、他の誰でもない、僕自身なのだ。そんなこと、とっくに百も承知だ。すべては、僕の犯し
た罪の結果なのだ。
だから、僕のこの醜い頬を、涙で濡らす資格など、僕には一滴(ひとしずく)だって残されていない。どうも、自業自得なの――そして、それは、僕を冷ややかに見下している、あなたも同じことだよ。
