それは、斜陽が差すとある薄暮の出来事───
太宰治
一人の男が其の命を絶とうと、川の中へ歩いて行った。
その名も太宰治。世に生きる意味を見出せず、 此の身を絶とうと十数年。
毎日の様に自殺を図る、云わば「自殺愛好家」だ。
ズンズンと川の中心まで歩き進み、 いざ入水と思った、其の時。彼女は現れた。
雛森〇〇
太宰の砂色の外套を華奢な手がしっかりと掴んだ。
誰かが止めに来たのか。 やれやれ、こうならない為に人通りの少ない場所を選んだというのに。
そんな風に思いながら後ろを振り向くと、 そこには一人の女性。
艶やかな黒髪にきめ細やかな白肌は、 斜陽に照らされて朱色に輝いていた。
真っ直ぐと太宰を見つめる瞳は そんな容姿に反して勇敢さそのものだった。
膝上迄ある川の水も気にせず、 自分を止める為だけに濡れて来たのだろうか…。
雛森〇〇
普段なら此の手を振り解いてでも 川に流されていただろう。
でも、何故か今日は其の手を振り解けなかった。
自殺しようとしていたのを知ってか知らずか 女性は素っ頓狂な事を口走る。
太宰には其れが何だか面白可笑しく思えた。
太宰治
雛森〇〇
太宰治
女性から目を離せずにいる太宰に気付かず、 振り向いて川辺に戻る女性。
其の一回り小さな手は、 離すまいとしっかり太宰の手を握っていた。
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雛森〇〇
太宰治
濡れたロングスカートを絞って、 持っていたハンカチーフを太宰に渡す女性。
有難くお借りして水が飛んで濡れた首筋を 控えめに拭った。
雛森〇〇
雛森〇〇
太宰治
女性はそう云うと足早にその場を去って行った。
太宰が声をかけた頃には見えなくなっていた。
せめて名前だけでも聞きたかった。 お礼と謝罪もしたかった。
女性を引き止めようと伸ばした手には 桃色のハンカチーフが握られている。
太宰治
其れを握りしめて、是を返す事を口実に また逢える事を、太宰は願った。