テラーノベル
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【クリスマス企画!!】
<注意>
元貴くんが子ども設定です。
それでもOKという方はお進み下さい。
※いつものお話よりちょっと長めです。
是非楽しんでいってください🎶
ここは、あおぞら子ども園。俗に言う児童養護施設だ。
藤澤は、ここに勤務し始めて3回目のクリスマスを迎えていた。日々、子どもたちの世話や書類仕事に明け暮れている。
カレンダーが12月に入り、施設の中は少しずつ騒がしくなっていった。廊下の隅には大きなクリスマスツリーが置かれ、壁には子どもたちが作った赤や緑の輪っかが連なっている。多くの子どもにとって、この時期はサンタクロースからプレゼントが届く、一年で最も待ち遠しい季節だ。
しかし、そんな華やいだ空気の中で、藤澤は一人静かに頭を抱えていた。視線の先にいるのは、5歳の元貴だ。去年の春に施設にやってきた、感情を表に出すことが少なく、いつもどこか遠くを見ているような、大人しい子ども。藤澤はそんな彼をずっと気にかけていたが、どうしても去年のあの光景が脳裏に焼き付いて離れなかった。
というのは、一年前のクリスマス当日、施設では外部の業者に依頼して、サンタを招くイベントが企画されていた。大きな袋を担いだサンタがやってきて、子どもたち一人ひとりに手渡しでプレゼントを配るという、ちょっとしたサプライズだ。
園内には、言葉にせずとも伝わる高揚感が満ちていた。
折り紙でサンタやトナカイを器用に折る子もいれば、鼻歌まじりにジングルベルを口ずさむ子もいる。
そんな賑やかさの渦中で、元貴だけはぽつんと床に座り込み、円形のレールを淡々と走り続ける青い電車をぼーっと見つめていた。
「元貴」
藤澤がそっと声をかけると、彼はワンテンポ遅れてゆっくりと顔を上げた。
「何してるの?」
藤澤は悪い意味で一人だけいつもと同じ様子なのを気にかけ、隣に腰を下ろした。しかし元貴は何も答えず、こちらをチラリと見たあと、視線を電車に戻した。そして、これ、と指先だけで示したその仕草に、藤澤は少し苦笑いしながら、そっか、かっこいいよねと相槌を打つ。
「元貴はさ、サンタさんに何をお願いしたんだっけ?」
数日前、みんなで机を囲んでサンタへの手紙を書く時間があった。元貴も確かにあの場所に座っていたはず。藤澤の問いかけに、元貴はただ俯き、小さく首を振った。
「ん?あぁ、内緒か。そりゃ秘密だよね」
藤澤は明るく笑って誤魔化した。しかし、元貴は何かを言いかけるように小さく唇を動かしたが、結局は何も言わずに目を伏せてしまった。その微かな仕草の裏にある感情を、藤澤はこのときまだ読み取れずにいた。
数時間後、リビングに子どもたちの賑やかな話し声が充満している中、突然ドアが勢いよく開いた。
「メリー!!!クリスマス!!!」
部屋に響きわたった朗々たる声の主は、赤と白の鮮やかな衣装に身を包み、顔の半分を覆うほど立派な白い髭を蓄えていた。
ついにサンタがやってきたのだ。
子どもたちは一斉に甲高い歓声をあげ、我先にとサンタの元へ駆け寄っていく。ある子は嬉しそうにハグをしてもらい、ある子は興味津々といった様子でそのもじゃもじゃの髭を触ろうと手を伸ばし、またある子は甘えるように抱っこを求めた。サンタは群がる子どもたち一人ひとりにニコニコと視線を合わせながら、大きく声を張り上げた。
「いい子にしてたみんなには、プレゼントがあるぞー!!!ふぉっふぉっふぉっ!!」
まるで絵本に出てくるサンタをそのまま模倣したような口調に、子どもたちの興奮は最高潮に達した。一斉に伸ばされる小さな手。「ちょうだい」「ちょうだい」とせがむ無邪気な声が部屋中に溢れる。
藤澤はその光景を、壁際から微笑ましく見守っていた。しかし、幸せな喧騒の隙間で、ふっと視界の端を人影が動いたような気がした。反射的にドアの方へ目をやると、そこには熱気に包まれた部屋を逃れるように、静かに外へ出ていく元貴の背中があった。
藤澤は思わず二度目をした。目を疑った。プレゼントを貰えるこの瞬間に、自分からその場を離れる子なんて今まで見たことがなかったからだ。サンタに興味がないだけなのか、それともトイレか何かのっぴきならない理由があるのか。理由が分からないからこそ、胸の奥からざらりとした心配と不安が湧き上がってくる。
狂喜乱舞する子どもたちとサンタの様子を一度だけ振り返って確認すると、藤澤は弾かれたように元貴を追いかけて部屋を出た。
どこへ行ったのかと廊下を早足で探し回る。藤澤が真っ先に向かったのは、元貴が普段からよく一人で過ごしている、彼にとって最も落ち着けるであろう予備室だった。
「……元貴?」
静かにドアを開けると、そこには案の定、入り口に背を向けて寝そべる小さな背中があった。先ほどまで遊んでいたおもちゃをそのまま持ってきたのだろうか。元貴の目の前では、プラスチックのレールの上を青い電車がただ黙々と走り続けている。
ザーーッ、ザーーッ。
誰も喋らない静まり返った部屋に、乾いたモーター音だけが規則的に響いていた。華やかなクリスマスの喧騒から切り離されたその異様な光景に、藤澤は思わず息を呑んだ。
もしかしたら、元貴はサンタという存在そのものが嫌いなのかもしれない。あるいは、あの熱狂的な空間の空気感に耐えられなかったのか。しかし下手に騒ぎ立てて傷つけるわけにはいかない。藤澤は動揺を悟られないよう、努めて明るく、けれど彼を驚かせない落ち着いたトーンで口を開いた。
「あれ、元貴?」
今気がつきました、と言ったようなその声に、元貴の肩が一瞬ビクッと跳ねた。そして、ゆっくりと寝返りを打ち、怪訝そうにこちらを見上げた。
元貴の表情は、まるで感情を吸い込まれてしまったかのように空虚だった。光を跳ね返すだけで奥を見せない、無機質なビー玉のような瞳が藤澤を射抜く。藤澤は胸に走った嫌な動揺を悟られないよう、膝をついて視線を合わせ、精一杯の笑顔を作って語りかけた。
「どうしたの、疲れちゃった?」
元貴は藤澤の顔をじっと見つめ、その笑顔の裏にある困惑を見透かすような仕草を見せた。やがて、何かを察したようにふっと目を伏せる。
「…ううん」
消え入りそうな声で静かに呟くと、彼はそのまま力なく天井を見上げた。藤澤は、自分の言葉がすべて空を切るような、何とも言えない扱いづらさを感じていた。拒絶されているわけではないが、心に触れることができない。そんなもどかしさに、心の中で小さく苦笑いを漏らす。
「電車で遊びたくなっちゃったの?」
藤澤が場を繋ぎ止めるようにそう言うと、元貴の顔にふわりと暗い影が差した。それまでの無表情が嘘のように、彼は鋭い視線で藤澤を睨みつけた。
「…もどればいいんでしょ」
吐き捨てるように呟いた元貴は、そのままスクッと立ち上がった。そして、あまりに予想外な言葉に呆気にとられている藤澤の横を、目も合わせずにすり抜けていった。
「……戻ればいいんでしょ、か」
藤澤は床に膝をついたまま、小さく独り言を漏らした。その胸の内には、冷たい水を浴びせられたようなショックがあった。
元貴が放った言葉は、自分の空っぽな気遣いと大人のエゴに対する、冷笑のように感じた。
藤澤は、自分の無力さに奥歯を噛み締めた。彼はただ静かに一人でいたかっただけかもしれない。しかし、自分という大人が「心配」というもっともらしい理由をつけて、彼にみんなと同じ場所に戻ることを強要してしまった。
元貴が見せたあの鋭い視線。藤澤の心には、先ほどのサンタの陽気な笑い声が、ひどく残酷な響きを持って蘇ってきた。
しかし、藤澤には自分の至らなさに打ちひしがれている猶予はなかった。廊下まで探しに来た他のスタッフに「どこに行ってたんですか」と背中を叩かれ、促されるまま元貴の後を追って部屋へ戻る。
そこは先程よりもさらに熱を帯び、子どもたちの興奮が最高潮に達したボルテージの上がった空間だった。部屋に戻ってすぐ、藤澤は「元貴は…」と視線を左右に泳がせた。
彼はやはり、狂乱する子どもたちの輪から少し離れた壁際で、一人ぽつんと立っていた。周囲のキラキラとした笑顔や喧騒から浮き上がったその姿はあまりに異質で、楽しそうな他の子たちとの対比が、見ている藤澤の胸を刺すほど痛々しい。全身からは「無理やりこの場に立たされています」という拒絶のオーラが漂い、周囲との間に見えない壁を作っているかのようだった。
その異様な姿は、中央でピエロの如く振る舞うサンタの目にも止まったのだろう。他の子どもたちの要望に応えていたサンタが、顔を上げ、元貴に向かって大きく腕を振った。
「おーい!!そこの君!!プレゼントもうもらったかーい!?」
部屋中に響き渡る大声に、元貴の肩がビクッと跳ねた。床に落としていた視線を上げた瞬間、サンタと真っ正面から目が合ってしまう。不意を突かれた元貴は、逃げ場を失ったように泳ぐ視線を彷徨わせた。それを合図に、他の子どもたちの好奇の視線も一斉に元貴へと集中する。耐えきれなくなった元貴の足が、一歩、後ろへと遠のいた。
「もっくん、プレゼントまだもらってないの?」
側にいたスタッフが元貴の異変に気づき、優しく、けれど断りづらい空気で彼に近寄った。そのまま躊躇う元貴の背中に手を当て、サンタの待つ前方へと少しずつ押し出していく。
藤澤は反射的に「待って」と声をかけようとした。けれど、せっかくのクリスマスにプレゼントすら受け取らないのは不憫ではないか、それくらいは良い思い出になるのではないかという迷いが頭をよぎり、結局何も言えずに黙って見守ることしかできなかった。
しかし、視線の先にいる元貴は、今にも泣き出しそうなほど歪んだ顔をしていた。スタッフに背中を押され、抗えない力に流されながら、彼は何度も何度も、自分を押しているスタッフの顔を縋るように見上げた。けれどそのスタッフは楽しげにサンタの方だけを見つめていて、元貴の必死のサインには全く気づいていない。
「いい、いらない、ゃだ、」
俯き、震える唇から漏れる元貴の訴えは、あまりに細く、掠れていた。
必死に足を止めて抗おうとするが、背中に添えられた大人たちの「善意」の手に抗う術はない。周囲の話し声とジングルベルのBGMが荒波のように押し寄せ、彼の小さな声は誰の耳にも届かぬまま、虚空に消えていった。
「ほらほら、プレゼントあげるよぉ〜ほぉっほぉっ」
あくまでサンタクロースという役を全うしようとする男は、目の前の少年が抱える切迫した恐怖に気づいていなかった。元貴を「プレゼントを欲しがって照れている内気な子」だと決めつけ、大仰な動作で真っ赤な袋から包みを取り出す。
元貴の顔からは血の気が引き、陶器のように真っ白になっていた。大きく見開かれた瞳は、もはやビー玉どころではなく、恐怖に凍りついた獲物のように激しく揺れている。喉の奥が引き攣り、呼吸は浅く、速くなっていく。
「いい子にしてたからねぇ〜ちゃんと見てたよ〜」
サンタは場を盛り上げようと、さらに声を弾ませて袋の中に手を伸ばした。だが、どの言葉が元貴の柔いところに触れてしまったのか。
みるみるうちに元貴の顔が絶望に染まり、大きく見開かれた瞳に溜まった涙が、堰を切ったように溢れ出した。
「ぅう”ーっ、ぅわ”あ”あ”あっっ……!!」
喉を掻き切るような、悲痛な叫びだった。差し出そうとしたプレゼントを手に、サンタの顔が動揺で引き攣る。元貴は背中に添えられていたスタッフの手を、拒絶の力で激しく振り払った。そして、目の前のサンタを両手でドンッ!と、ありったけの力で突き飛ばした。
「うわ”あ”ぁっ、ぁあ”あ”ぁあ!!」
理性を失い、獣のような声を上げて泣き叫ぶ。さっきまでの賑わいが嘘のように消え去り、スタッフも子どもたちも、あまりの豹変ぶりに息を呑んで棒立ちになった。元貴はそのまま、泣き叫びながら走って部屋を飛び出していった。
静まり返った部屋で、誰もがどう動くべきか分からず固まっていたが、藤澤だけは違った。弾かれたように足を動かし、元貴の背中を追って廊下へ急ぐ。
「元貴! 待って、元貴!」
叫びながら廊下を駆ける藤澤の胸中には、心臓を直接掴まれるような鋭い痛みが走っていた。普段からどこか危うさがある子だとは思っていた。おそらく、不安定な均衡の上で生きていたのだろう。その糸が、何かしらの理由で、ぷつりと切れてしまった。
どうしてあそこで止められなかったのか。嫌だと言っていたのに、プレゼントくらいは大丈夫だろうと高を括り、大人の理屈を押し付けたのは自分だ。
泣き声が、脳裏でリフレインする。あんなに酷く、剥き出しの感情を爆発させた元貴は初めて見た。 追いかけながら、藤澤の目元も熱くなってくる。
怖かったよな。苦しかったよな。
誰にも助けてもらえない絶望の中で、あの子はどれだけ孤独だったのか。
藤澤は、自分の甘さを呪いながら、ただひたすらに元貴の足音を追った。今、あの子にどんな言葉をかければいいのかさえ分からない。それでも、このまま一人にしてはいけないことだけは、痛いほど分かっていた。
「元貴、元貴!どこ行くの、」
藤澤の声が冷たい玄関ホールに響く。元貴は裸足のまま、必死に玄関のドアを開けようとしていた。だが、重い扉の鍵は5歳の彼の身長よりもずっと高い位置にあり、いくら手を伸ばしても届かない。小さく背伸びをして、爪先立ちで必死に鍵を弄ろうとしているところに、藤澤はどうにか追いついた。
スリッパのまま玄関まで駆け寄った藤澤の気配を感じた途端、元貴の体は目に見えて強張った。追いかけてきたのが藤澤だと分かると、彼はさらに激しく、怯えながら泣き出した。そして、縋るどころか、そこから必死に逃げようと足掻く。
「待って元貴、大丈夫、大丈夫!」
「ゃだ、ごめんなさい、ごめんなさいッ!ひぐっ、げほっ」
転びそうになりながら、元貴は廊下へと逃げ戻る。過呼吸気味の呼吸が激しく漏れ、咳き込みながらも止まろうとはしない。
「元貴、怒んない!怒んないから!」
「う”ぅ、ぅえ”ッ、ひぐっ……ごめんなさい、もときがッ、わるいこだったから、やめてっ」
5歳の全力の足取りであっても、大人の歩幅ならすぐに追いついてしまう。パニック状態で走り回っていたとしても、後ろから力ずくで捕まえることは容易だった。けれど、藤澤はその手を伸ばしかけて、思いとどまった。
ここで無理に動きを封じれば、彼をさらに追い詰め、パニックを加速させてしまう。何より、元貴が口にしている「ごめんなさい」という言葉。それは今の藤澤の声を聞いているのではなく、過去の何か、あるいは彼の中に巣食う得体の知れない恐怖に向けて放たれているようだった。
今の俺の声は、この子には届いていない。
そう思った藤澤は、元貴を追うのをやめた。まずは元貴の一人の時間を作った方がいい。少なくとも5分。話を聞くのは、その後だ。
一度足を止め、遠ざかっていく元貴の背中を静かに見送る。きっといつものあの予備室に行くだろう。あそこなら、少しは息ができるはずだ。
そう確信した藤澤は、まずは周囲に状況を伝えるために、元いたリビングへと引き返した。
部屋に戻ると、そこにはまだ戸惑いの色が濃く残っていた。突然の出来事に子どもたちは不安げに顔を見合わせ、サンタ役の男もどう振る舞えばいいのか分からず、手持ち無沙汰に立ち尽くしている。藤澤は近くにいたスタッフの元へ歩み寄り、落ち着いた、けれど断固とした口調で伝えた。
「元貴は俺が見てます。少し時間がかかると思うから、今は誰もあの子がいる予備室へ行かせないでください。子どもたちも、職員もです。絶対に一人にしてあげてほしい。」
その言葉に、職員たちは一瞬顔を見合わせたが、藤澤の切迫した表情に押されるように小さく頷いた。
「わかりました。…元貴くんのこと、お願いします」
五分という時間は、藤澤にとって気が遠くなるほど長く感じられた。廊下で時計の針をじっと見つめ、元貴の呼吸が少しでも整うのを待つ。高ぶったパニック状態の彼にとって、不意の接触は何よりも恐ろしい凶器になりかねない。少しでも予測可能な、安心できる状況を整えてやりたかった。
藤澤は予備室のドアの前に立ち、軽く二回だけノックをした。
「元貴?入るね、」
静かに声をかけ、抵抗を感じない程度のゆっくりとした動作でドアを開ける。
部屋の隅、そこにはお気に入りの使い古された毛布に頭からすっぽりとくるまり、限界まで体を小さく丸め、横になって蹲っている元貴がいた。静まり返った部屋に、ぐずっ、ひぐっ、という痛々しい嗚咽だけが断続的に響いている。
藤澤は元貴に近寄りすぎない位置で、床に腰を下ろした。
「涼先生だよ。元貴の気持ちが落ち着いたら、ちょっとお話したいな」
元貴のペースに、すべてを委ねる。ここで無理に毛布を剥がしたり、質問を浴びせたりするのは、彼をさらに追い詰めるだけだ。藤澤は、ただそこに自分がいること、そして今は何も強制しないことを伝えるように、じっと静かに待つことにした。
待っている間に、ふと辺りを見渡した。
部屋の窓から差し込む冬の午後の光は、白く冷え切っている。暖房の風が届きにくいこの予備室は、廊下よりも一段と空気が冷たく、藤澤の吐き出す息も薄く白んでいる。だが、その肌寒さが、かえって過熱した元貴のパニックを冷ますにはちょうどいいようにさえ感じられた。
部屋には、元貴の嗚咽だけが満ちていた。
しゃくり上げるたびに、毛布の下で細い肩が激しく上下するのがわかる。一度溢れ出した感情は、止めたくても止まらないのだろう。元貴は自分自身を抱きしめるように、毛布をきつく掴んでいる。その小さな指先が、寒さのせいか、あるいは恐怖の残滓のせいか、真っ白に強張っているのが藤澤の目にも痛々しく映った。
藤澤は、ただ静かに時計の音を聞いていた。
焦る気持ちがないと言えば嘘になる。
クリスマスというこの特別な日に、一人だけ凍えた部屋で泣き伏せている元貴。彼に暖かいココアでも飲ませて、柔らかい言葉で包み込んでやりたい。けれど、今の元貴に必要なのは、大人の慰めではなく、誰も自分を侵食してこない一人の時間なのだと、藤澤は自分に言い聞かせていた。
床から伝わる冷気が、藤澤の体温を奪っていく。それでも彼は動かなかった。ここで自分が立ち去れば、元貴は「自分は悪い子だから、先生もいなくなった」と思い込んでしまうかもしれない。
五分、十分。
部屋の温度は刻一刻と下がっていくようだったが、藤澤の心の中には、元貴に対する静かで、揺るぎない覚悟が灯っていた。この子がどれほど深い闇の中にいても、自分だけは、隣に居続けよう。そう誓った。
やがて、あんなに激しかった毛布の震えが、ほんの少しだけ、小さくなったような気がした。
静まり返った部屋に、ずずっと鼻水をすする音が響いた。毛布越しでも、彼が必死に手の甲で涙を拭っているのが分かる。
元貴は、5歳という年齢のわりには自分の見え方を気にする子どもだった。繊細で、どこか誇り高く、周囲の大人の反応を機敏に察知する聡明さを持っている。だからこそ、あんなふうに人前でなりふり構わず泣き叫ぶなんて、今までの彼からは想像もできないことだった。あの場にいたスタッフたちが凍りついたのは、単なるパニックへの驚きだけでなく、彼がそれほどまでに追い詰められていたという事実を突きつけられたからだろう。
やがて、元貴が毛布を被ったままムクっと起き上がった。
藤澤とは直接目を合わせようとはせず、少し斜めを向いて座る。頭からすっぽりと毛布を被っているせいで、その表情はまだ闇に隠れたままだ。けれど、子ども用の短い毛布だったから、アヒル座りをした彼の足先がはみ出していた。
藤澤の視線が、ふとその足元で止まった。
黒いズボンの膝のあたりが、ぐっしょりと濡れてグレーに変色している。床に這いつくばって泣いていたとき、溢れ出た涙がそのまま生地に染み込んだのだろう。どれだけの量の涙を流したのか。その冷たく湿った跡が、彼が独りで耐えていた痛みの深さを物語っているようで、藤澤の胸はまたズキリと痛んだ。
「…お話できそう?」
藤澤は、壊れやすいガラス細工に触れるような静かな声で尋ねた。部屋の冷たい空気に、その問いかけが溶けていく。少しの沈黙が流れたあと、毛布の塊が小さく、けれど確かに上下に揺れた。
顔は見えない。けれど、藤澤はそれでいいと思った。人一倍プライドが高く、聡明な彼のことだ。泣き腫らした顔を晒したくないという、彼なりの精一杯の自尊心なのだろう。
藤澤は息を吸い、背筋を伸ばした。
「まず、涼先生から元貴に謝らないといけないことがある」
決意を込めたその切り出しに、元貴の肩がわずかに強張る。藤澤は落ち着いた口調で続けた。
「元貴が電車を見てる時に、話しかけて部屋に行くように誘ってごめん。…一人で過ごしたかったんだよね」
一言ずつ、噛みしめるように謝罪を紡ぐ。藤澤の脳裏には、先程の楽しげなリビングでの喧騒が苦い後悔とともに蘇っていた。
「あと、元貴の気持ちに気づけなくて、助けてあげられなくてごめん」
元貴の指先が、膝の上の毛布をぎゅっと握りしめた。藤澤は、彼が発していた小さなサインをすべて無視してしまった自分を、心の底から恥じていた。
「…プレゼント、貰いたくなかったかな。それともサンタさんが嫌だったかな。そこは元貴からお話して欲しいけど、とにかく、嫌だなって思ってる元貴の気持ちに気づけなくて、ごめんね」
藤澤の声は、いつしか少しだけ震えていた。彼の瞳は、毛布の奥の、今にも壊れそうになっている少年の心を真っ直ぐに見つめていた。それは大人が子どもを宥めるためのポーズではなく、一人の人間を深く傷つけてしまったという事実に対する、心からの懺悔だった。
元貴は、相変わらず斜めを向いたまま、ただじっと藤澤の言葉を聞いていた。
言い返してくることも、泣き止むこともない。けれど、先ほどまでの激しい拒絶のオーラは少しずつ薄れ、代わりに静かな、深い悲しみのようなものが漂い始めていた。毛布からはみ出た小さな足が、ほんの少しだけ、内側に縮こまった。
いつの間にか、部屋に響いていた激しい嗚咽は消え、代わりに重苦しい沈黙が二人を包み込んでいた。毛布の奥から漏れる呼吸が、震えを帯びていることさえも分かるほどだった。
「…サンタさんが怖かった?それともプレゼントを貰いたくなかったの?」
藤澤は、切れかけた糸を慎重に手繰り寄せるような、どこまでも優しく、配慮に満ちた声で尋ねた。元貴を急かすつもりは毛頭ない。ただ、彼の酷く重たい感情に、ほんの少しだけ出口を作ってやりたかった。
しかし、元貴はやはり黙ったままだった。 斜めを向いたままの毛布の塊は、彫刻のように微動だにしない。
けれど、何も言わないのは、拒絶しているからではない。藤澤にはそう思えた。あまりに多くの感情が一気に溢れ出してしまったせいで、自分の気持ちをどう言葉にしていいのか、見失っているのではないか。あるいは、心の奥底にある本当の理由を口にすることが、彼にとって何よりも勇気のいることなのかもしれない。
静まり返った予備室で、冬の低い日差しが元貴の足元を白く照らしている。藤澤は、彼が自分から言葉を紡ぎ出すのを、祈るような心地で待ち続けた。
「…だって、サンタさんが…」
ふと毛布の奥から零れ落ちたのは、今にも消えてしまいそうな、蚊の鳴くような細い声だった。元貴はそこからまた、何かを飲み込むように黙り込んでしまう。
「…うん、サンタさんが?」
藤澤は、彼の言葉を遮らないよう、包み込むような柔らかい声で先を促した。
「…サンタさんが、いいこって、いうから」
「…いい子? …確かに、いい子のみんなにプレゼントがあるぞって言ってたね」
藤澤が相槌を打つと、毛布の塊が小さく、うん、と頷くように揺れた。そのまま元貴はまた俯き、沈黙の底へ沈んでいく。毛布の端が床を擦るわずかな動きだけで、彼が今、深く首を垂れているのが分かった。
「…いい子って言われたのが嫌だったの?」
藤澤の問いに、元貴は力なく首を振った。
「じゃあ、何が嫌だった?」
努めて穏やかに、けれど逃さぬように、藤澤はもう一度優しく問いかけた。
再びとても長い、重苦しい沈黙が流れる。やがて、震える唇をようやく動かすように、元貴がゆっくりと、絞り出すような声で口を開いた。
「……だって、もとき、いいこじゃないもん」
藤澤は、思考が真っ白に染まるのを感じた。心臓の鼓動が耳元で大きく跳ねる。
「…え?」
「もとき、わるいこだもん、プレゼントもらったら、だめなんだよ」
その声は、泣き叫んでいた時よりもずっと静かで、それでいて、取り返しのつかない絶望に満ちていた。
藤澤は言葉を失い、そのまま固まった。
5歳の子どもが、自分のことを「悪い子」だと定義し、だからこそ喜ぶべきプレゼントを「受け取ってはいけない罰」のように感じていた。その事実に、胃のあたりを鋭い刃で抉られたような衝撃が走った。
元貴は、毛布の中でさらに体を丸めた。
「…元貴は悪い子なんかじゃないよ、とってもいい子だよ?」
藤澤の声は、自分でも驚くほど細く震えていた。目の前の小さな塊に、どうにかしてその言葉を届けようと、反応を伺うようにして紡ぎ出した。しかし、元貴は拒絶するように、ゆっくりと、けれど強く首を横に振った。
「ううん、わるいこだよ」
その響きには、子どもらしい甘えもなければ、否定してほしいという期待もなかった。まるで動かしようのない確定した事実を淡々と述べるような、諦めに満ちた静かなトーン。それがかえって、藤澤の心に冷たい棘となって刺さった。
「そんなことない。だって元貴、いつも自分でお着替えしたり、ご飯食べたり、お手伝いだってしてくれるじゃん」
藤澤の声は、次第に焦りを帯びていった。元貴の歪んだ自己認識を、今すぐ力ずくで剥ぎ取ってやりたい。そんな衝動に駆られ、目に見える彼の「善行」を必死にかき集めて並べ立てる。
藤澤の胸の中は、言いようのない恐怖と悲しみでかき乱されていた。
一体、誰がこの子にそんなことを思わせたのか。5歳の子どもが、サンタからのプレゼントを「受け取ってはいけない」と自分を律しなければならないほど、自分を責め続けてきた日々を想像して、血の気が引くような感覚に陥る。
自分が今まで見てきた元貴は、もしかしたら、自分が悪い子だと思い込んでいる彼が、せめてこれ以上嫌われないように、必死に自分を殺して作ってきた虚像だったのではないか。
焦れば焦るほど、自分の言葉が上滑りしていくのを感じる。元貴の深い闇に対して、着替えができるとか、お手伝いができるといった言葉があまりに軽すぎて、自分自身の無力さに吐き気がした。
藤澤は、膝の上で握りしめた拳に力を込めた。
「ううん、ちがうの。わるいこなの」
元貴の声は、どこか感情を切り離したかのように平坦だった。けれど、言葉を紡ぐ直前、喉が微かに動いて唾液を飲み込む音が静かな部屋に響いた。淡々と話しているように見えて、彼はその小さな体で、せり上がってくる何かを必死に抑え込んでいる。それが藤澤には分かってしまった。
「どうしてそう思うの?」
今度は藤澤の方が、こみ上げる熱いものを堪えきれず、泣き出しそうな声で尋ねた。喉の奥が締め付けられ、絞り出すのがやっとだった。
「…ママがね、もときは、わるいこだから、サンタさんはこないっていってたの」
その瞬間、藤澤の思考は凍りついた。
視界が歪み、周りの音が遠のいていく。元貴の母親が、幼い彼に投げつけたであろう言葉が、呪詛のように藤澤の胸をえぐった。
“悪い子だからサンタは来ない”
それは、親が子どもを躾けるための軽い脅し文句などではなかった。この子にとっては、存在そのものを否定され、愛される資格がないと宣告されたに等しかったのだ。今年施設に来てから、いやそれよりも前から、元貴はずっと、サンタが来る時期になるたびに、自分が「悪い子」であることを再確認させられていたのか。
あんなに楽しげだったリビングでの光景が、今はひどく残酷なものに思えた。サンタが登場し、みんなが笑顔でプレゼントを受け取る中、元貴だけは「来てはいけないはずの者」が来た恐怖と、「受け取ってはいけない」という罪悪感に、独りで震えていたのだ。
藤澤は、激しい憤りと、それ以上に深い悲しみに襲われた。
元貴を追い詰め、パニックにさせたのは、サンタでもスタッフでもない。彼が最も信頼し、愛したかったはずの人間から植え付けられた、あまりに深い心の傷だった。
藤澤は、膝の上で握りしめた拳をさらに固くした。自分は何も知らずに、彼をあの光の当たる場所へ連れ戻そうとしていた。良かれと思ってかけた言葉のすべてが、元貴にとっては「お前はプレゼントを貰えない悪い子だ」と言われているような苦痛だったのかもしれない。
目の前の毛布の塊が、あまりに小さく、脆いものに見えて、藤澤はただ、溢れそうになる涙を堪えて唇を噛み締めることしかできなかった。
………………………………
次に続きます!
長いのにここまで読んでくれてありがとうございます…!
コメント
11件
泣きました めっちゃ泣きました
絶対書くの大変だったと思う💦
やっぱり推しが傷付いているのを見るととてつもなく口角が上がってしまう!!!!!