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ふぃる汰
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夜空
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伯爵家で「行きなさい」という言葉が出てから、屋敷の空気は目に見えて変わった。
それまでの数日は、すべてが揺れていた。
婚約はどうなるのか。
王城はどこまで関与するのか。
隣国の招きは本気なのか。
侯爵家は何を止めようとしているのか。
誰もが半歩ずつ踏み込みながら、しかし最後の一歩は出せずにいた。
けれど今は違う。
まだ日程は最終確定していない。
王城との細かな文言調整も残っている。
隣国側との受け渡し書式、滞在中の名目、護衛の人数、持参資料の目録――決めるべきことは山ほどある。
それでも屋敷の中では、もう「行くかどうか」ではなく、「どう行くか」の話になっていた。
その違いは大きかった。
朝の古書庫で、アリアは机いっぱいに広げられた紙を見下ろしていた。
右側には北方越境路関係の控え帳。
中央には旧協定の写しと、自分が抜き出した注記一覧。
左側には伯爵家で保管されていた関連目録と、王城側から届いた確認項目。
さらにその奥に、ローベルトが用意した新しい革表紙の帳面が一冊置かれている。
「それは?」
アリアが尋ねると、老執事は穏やかに答えた。
「旅先用の記録帳でございます」
「旅先用」
「はい。向こうでご覧になったこと、お感じになったこと、原本と写しの差異、現場の覚え書き、すべてをその場でお書き留めになれるように」
その一言が、思った以上に胸へ沁みた。
旅先用。
つまり本当に、自分は行くのだ。
家の中の机に向かって待つのではなく、外へ出て、自分の目で見て、自分の手で書く。
革表紙の帳面へ指先を置く。
まだ何も書かれていない。
真新しく、少しだけ硬い感触。
「ありがとうございます」
「お嬢様ご自身で埋めていかれるのがよろしいかと」
アリアは小さく笑った。
「責任重大ね」
「左様でございます」
ローベルトは少しも冗談めかさなかった。
その通りなのだろう。
これはもう、誰かの添え物ではない。
自分の名で呼ばれ、自分の意思で行く以上、その先の記録もまた自分の責任で持ち帰ることになる。
その重さが、今のアリアには不思議と心地よかった。
古書庫の扉が控えめに叩かれ、セレナが顔を覗かせた。
「入ってもいい?」
「ええ」
妹は中へ入るなり、机の上の紙の量に目を丸くする。
「すごい……本当に全部持っていくの?」
「全部ではないわ。必要なものだけ選ぶの」
「それでも多い」
セレナは文机の端に並んだ控え帳を覗き込み、少しためらいがちに言った。
「ねえ、お姉様。わたくし、前は“旅の準備”って、服とか靴とか、そういうものを思い浮かべていたの」
「普通はそうでしょうね」
「でもお姉様の場合、紙なのね」
その言い方が可笑しくて、アリアは少し笑った。
「ええ。たぶん一番大事なのは、そこ」
セレナは机の上の帳面を眺めながら、どこか感心したように呟く。
「なんだか、ようやく分かる気がする」
「何が?」
「お姉様が行くのって、どこかへ遊びに行くとか、偉い人に会いに行くとか、そういうのじゃないんだってこと」
アリアは妹を見る。
「うん」
「紙の続きを、見に行くのね」
その一言に、胸の奥がやわらかくなった。
紙の続きを見に行く。
たぶん、それがいちばん正確だ。
隣国へ行くのは、遠い世界へ飛び込むためではない。
今まで読んできた文の続き、途中で切られてしまった意味の先を、自分の目で確かめに行くのだ。
「……そうね」
静かに頷く。
「紙の続きを見に行くの」
セレナは嬉しそうに笑った。
その笑顔には、以前のような無邪気なだけの明るさとは違う、少しだけ理解を得た人間の温度があった。
昼前になると、執務室へ呼ばれた。
今度はベルナールだけでなく、マルグリットも最初から席についている。机の上には王城からの書式案、隣国側の受け入れ確認、そして伯爵家内の準備一覧。
もう完全に、出発準備の机だ。
「座りなさい」
言われるまま座ると、ベルナールが紙を一枚差し出した。
「日程案だ」
アリアは目を通す。
出発は四日後。
王城での最終確認を挟み、翌朝伯爵家を発ち、途中一泊を経て隣国側の迎えと合流。
滞在は五日間を基本とし、必要に応じて一日延長可。
思っていたよりも、ずっと具体的だった。
「そんなに早いのですね」
「王城と隣国側がこれ以上引き延ばしたくないらしい」
ベルナールの声音は実務一色だが、その奥にはわずかな緊張が残っていた。
「侯爵家からは、もう異議は」
「表向きは取り下げた」
父の返答に、アリアは小さく息をついた。
もちろん、内心で納得しているとは限らない。
けれど少なくとも、もう婚約を理由に足を止める動きはしない、ということだ。
マルグリットが別の紙を示した。
「滞在中の肩書きの件だけれど」
そこには、王城側が提案した名目が並んでいた。
北方越境路旧協定整理に伴う臨時協力者。
やはり少し硬い。
けれど今の状況にはよく合っている。
「あなた自身は、この呼び方でいいの?」
母に問われ、アリアは少し考えた。
令嬢、でもなく。
婚約者、でもなく。
“臨時協力者”。
聞こえは事務的だ。
でも今の自分には、それがむしろしっくりくる気がした。
「はい」
頷く。
「今はそれで十分です」
ベルナールもマルグリットも、小さく頷いた。
そして次に渡されたのは、持参品目録だった。
衣類、旅装、常備薬、護衛用の手配、王城提出用の封印ケース。
そして別枠で、資料類と記録帳。
ここまで来ると、さすがに現実感が増してくる。
自分は本当に、屋敷の外へ出て、伯爵家の長女としてではなく、自分の仕事を持つ者として隣国へ向かうのだ。
「……お父様」
「なんだ」
「ここまで具体的になると、少しだけ怖いです」
思わず本音が漏れる。
ベルナールは意外にもすぐには否定しなかった。
「当然だろう」
低い声。
「怖くない方がおかしい」
その返事に、アリアは少しだけ肩の力が抜ける。
強がる必要はないのだ。
怖いままでも、進める。
「でも」
マルグリットが静かに言葉を継ぐ。
「怖いと言いながらも、あなたのお顔は前へ向いているわ」
その指摘に、アリアは少し照れたような気持ちになる。
「そう見えますか」
「ええ」
母は穏やかに答える。
「昔なら、怖い時ほど先に“やめてもいいですか”と聞く顔をしていたもの」
その言い方があまりに正確で、アリアは苦笑した。
たしかにそうだった。
怖い時ほど、自分の望みを引っ込める方へ逃げていた。
でも今は違う。
怖くても、行きたい気持ちの方がちゃんと残る。
「それにしても」
ベルナールが持参資料の目録を見ながら言う。
「これだけの紙を持っていく娘を見送ることになるとはな」
その一言に、三人とも少しだけ笑ってしまった。
重たい話が続いていたからこそ、そのわずかな笑いがやけに温かかった。
「服より紙の方が多いかもしれません」
アリアが言うと、マルグリットが呆れたように、でもどこか誇らしげにため息をつく。
「本当に、昔から変わらないのね」
「変わらない?」
「ええ。あなたは昔から、飾り箱より帳面の方を大事そうに抱えていたわ」
その言葉に、アリアはふと微笑んだ。
変わらないのだ。
急に別人になったわけではない。
昔からそこにあったものが、ようやく表へ出る形になっただけ。
夕方、古書庫へ戻ると、文机の上に新しい封筒が置かれていた。
レオンハルトからだった。
開くと、今回も短い。
――出発日程の案を確認しました。
――あなたが来る日に合わせ、最初に見るべき束から順番に整えておきます。
――道中で不安が生じたなら、そのまま持って来てください。隠さずに。
最後の一文に、アリアの胸が静かに揺れた。
不安を隠さずに。
以前のカイルなら言わなかった言葉だ。
侯爵家も伯爵家も、ずっと「平気なふり」を自然に求めてきた。
でもこの人は、そこまで含めて持って来いと言う。
それが嬉しくて、少しだけ困る。
「……本当に、待っているのね」
小さく呟く。
待っている。
でも迎えに来るわけではない。
最後の一歩は、あくまでこちらが踏み出すべきものだと分かっている。
その距離感が、今のアリアには何よりありがたかった。
帳面を開き、彼女は今日の分の準備を書き留める。
――出発日程案、四日後。
――肩書きは臨時協力者。
――持参資料の整理開始。
――もう未来の話をしてもよい。
最後の一文を書いたところで、アリアはふと手を止めた。
未来の話。
それは少し前まで、自分には縁のないものだった。
けれど今は違う。
婚約の先に用意されていた形ではなく、自分が選んで歩く形として、ようやく話せる。
古書庫の窓の外では、夕暮れの光がゆっくりと薄れていく。
その静けさの中で、アリアははっきり思った。
出発準備がこんなにも落ち着いて進むのは、自分が本当に選ばれたからではない。
自分で選んだ道に、ようやく周りが追いついてきたからなのだと。
コメント
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第42話、読み終わりました。 「紙の続きを見に行く」――その一言が、本当にこのお話のすべてを言い表している気がして、胸がじんわりしました。アリアが自分から選んで進む道を、家族もレオンハルトも、ちゃんと「待つ」距離感で支えているのがとても温かい。最後の「周りが追いついてきた」の一文、美しかったです。