テラーノベル
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教えられた住所のドアを合鍵で開け、穂乃果は慎重に足を踏み入れた。
カチリ、と鍵が閉まる音が、静まり返った廊下に場違いなほど響く。
(……お邪魔します)
一歩入った瞬間、鼻腔をくすぐったのは、店での華やかな香料とは違う、重たいフレグランスに混じった乾いた煙草の匂いだった。
さっきまでの空気とはまるで別物で、思わず眉がわずかに寄る。
けれど、目が暗闇に慣れてくるにつれ、完璧だと思っていたその部屋の「綻び」が、ひとつ、またひとつと浮かび上がってくる。
視線を落とした部屋の隅には、脱ぎ捨てられたタイトなドレスやストッキングが、まるで抜け殻のように無造作に積み上げられていた。
カウンターに置かれたグラスには飲みかけの跡が乾き、高級そうなソファの足元には、ブランド物のバッグと並んでコンビニの袋が投げ出されている。
開けかけの口からは、雑に丸められたレシートが覗いていた。
そこには、『夜の蝶』の影など微塵もない。
自分を飾り立てることに全てを使い果たし、帰り着いた先では、それ以外のすべてを投げ出している。
そんな生活の匂いが、隠しきれずに滲み出ていた。
「……ホームレスになれなんて言っておきながら。……自分だって、これじゃ……」
言葉にならない何かが、胸の奥に引っかかる。
さっきまで見ていた、完璧な笑み。
一分の隙もない立ち振る舞い。
――あれが”表”だとするなら。
今、自分が立っているこの場所は――
「……」
無意識に、指先に力が入る。
知らなかった顔を見てしまったような、
踏み込んではいけない場所に足を踏み入れてしまったような、そんな感覚。
けれど同時に――
ほんの少しだけ、その温度に触れてしまった気がした。
店での完璧な虚構を維持するために、この場所でどれだけの「自分」を削り、脱ぎ捨てているのか。
山積みになった衣類の重なりや、空気中に停滞する煙草の匂い。
それが、ナオミという人間の、剥き出しの鼓動そのものであるように思えて。
穂乃果は、抱き上げたドレスをどう扱っていいか分からず、ただ硬い動きでその場に立ち尽くした。
この乱雑な景色を片付けることは、彼女の「嘘」を暴き、その内臓に触れることと同じなのではないか。
そんな予感に、指先がかすかに震えた、その時だった。
「……それ、勝手に触らないでくれる?」
低く、湿度を帯びた声が、背後から落ちてきた。
「っ……!」
反射的に振り返る。
いつの間に戻ってきていたのか、ナオミがドアにもたれるようにして立っていた。
店で見せていた完璧な微笑みはそこにはなく、メイクもわずかに崩れ、長い睫毛の影が頬に深く落ちている。
それでも――視線だけは、変わらず鋭い。
穂乃果の手元。抱えたままのドレス。そして、 この部屋の有様。
そのすべてを一瞬でスキャンし、把握したのが分かった。
「ご、ごめんなさい……その、散らかってて……つい……」
言い訳が、うまくまとまらない。
視線を逸らそうとした瞬間、「別に」とぴたりと言葉を切られた。
ぺた、ぺた、と。
ストッキング越しに床を叩く、生々しい足音。
ヒールを脱ぎ捨て、素のままで近づいてくるその気配は、店での女王よりもずっと大きく、逃げ場を詰めるような圧迫感があった。
「謝る必要ないわよ。どうせ、見れば分かるでしょ」
すぐ背後に、夜の熱を帯びた気配が迫る。
「これが、本当のアタシ」
吐き捨てるでもなく、開き直るでもなく、ただ淡々とした声音。
ナオミは穂乃果の手からドレスをひょいと奪い取ると、無造作にソファへ放り投げた。
その指先が一瞬だけ触れた場所が、じわりと熱を帯びる。
「……幻滅した?」
横から覗き込むような視線。試すようでいて、どこか――ほんのわずかにだけ、揺れている。
穂乃果は、言葉を失った。
綺麗だと思った。強い人だと思った。あんな風に在れたらと、少しだけ、憧れた。
けれど今、目の前にあるのは――そのすべてを裏返したような、無防備で、泥臭い現実。
虚飾を脱ぎ捨てたナオミの、剥き出しの体温。
そのあまりに人間らしい綻びに触れた時、穂乃果の中にあった憧れは、消えるどころか、さらに深く、生々しい形を持って胸に突き刺さった。
「……違います」
気づけば、口にしていた。
ナオミの視線が、わずかに細まる。
「その……上手く言えないんですけど……」
喉が乾く。けれど、目は逸らせなかった。
「少し……安心しました」
「……は?」
空気が、わずかに揺れる。ナオミの眉が、怪訝そうにピクリと動いた。
「だって……あんなに完璧で、隙がなくて……正直、ちょっと怖かったから」
言った瞬間、しまったと思う。けれどもう、引き返せない。穂乃果は逃げ場をなくした子供のように、けれど必死に言葉を繋いだ。
「でも、こういうところもあるんだって思ったら……」
言葉を探すように、熱を帯びた息を吐く。
「ちゃんと……同じ人間なんだって、思えて……」
沈黙。
換気扇の回る音だけが、やけに大きく響く。ほんの数秒のはずなのに、永遠に続くかのような静寂。
やがて――
「……ふふっ」
ナオミが、喉の奥で小さく笑った。
「何それ。ずいぶん失礼なこと言ってるって自覚ある?」
くすり、と零れる笑い。
けれどその声音からは、先ほどまでの刺すような棘が、わずかに抜けている。
ナオミは一歩、吸い寄せられるように距離を詰めた。
ストッキング越しに伝わる、床を捉える確かな足音。
「でもまぁ……」
指先が、顎に触れる。
くい、と持ち上げられ、強制的に視線を合わせられる。
逃げようのない至近距離。
ナオミの瞳に、困惑したような自分の顔が映り込んでいるのが分かった。
混じり合う、重たいフレグランスと、剥き出しの安煙草の匂い。
「そうやって、怖がりながらでも目を逸らさなかったのは、褒めてあげる」
呼吸が、かかる。
「普通はね、見なかったフリして逃げるのよ。……醜いものには、触れたくないでしょう?」
自嘲気味に、けれどどこか確かめるような響き。
指先が、名残惜しそうにゆっくりと離れる。
「……あんた、変わってるわね」
わずかに口角を上げて、ナオミはどこか遠くを見るような目を向けた。
指先が顎から離れ、冷えた空気がそこを通り過ぎる。
「……あの」
穂乃果は、勇気を出して部屋の隅に視線を投げた。
「初めてここに来た時は……凄く、綺麗な部屋だと思ってました。モデルルームみたいだって」
ナオミは一瞬、きょとんとした顔をした後、深い溜息と一緒に肩の力を抜いた。
「……当たり前でしょ。ゲロまみれでもアンタは一応女の子なんだから。女性を泊めるのに、こんな汚いところ見せられるわけないじゃない。昨夜、あんたをベッドに運んだ後、アタシがどれだけ必死に片付けたと思ってるのよ」
「え……っ」
「……でも、元々片付けるのは苦手なのよね。アンタが仕事に出かけた後、色々準備してたらあっという間に元通りってわけ」
ナオミは乱暴にウィッグを脱ぎ捨てると、短い地毛を掻きむしった。
長い睫毛の奥にある、伏せられた鋭い眼差し。ウィッグの下から現れたのは、汗ばんで額に張り付いた、艶のある黒い短髪。
「女」を演じるための重荷を放り出したその姿は、朝の光の中で見たあの「男」の、危ういほどの熱量を再び帯び始める。
空気が、わずかに変わる。
さっきまでの”ナオミ”ではない。
けれど、どちらが本当なのかも、もう分からない。
「……と、言うわけだから」
ナオミは軽く肩を回しながら、何でもないことのように言った。
「当面のアンタのバイトは、アタシの家の掃除。それで、宿代とご飯代はチャラにしてあげる。どう? 悪い話じゃないでしょう?」
そう言って、彼は再び一歩、距離を詰めた。
ウィッグの重みから解放されたせいか、その長身はいっそう高く感じられる。
すぐ目の前に落ちてくる影。逃げ場が、ない。
安煙草と石鹸が混じった男の匂いが、容赦なく穂乃果の鼻腔を満たしていく。
「嫌なら無理にとは言わない」
低く落とされた声。
けれどその実、逃がす気など最初からないと言わんばかりに――
「そのまま出ていけばいいだけだしね」
わずかに口元を歪める。
「……どうする?」
その言葉は問いの形をしていたが、穂乃果には、それが拒めない契約のように聞こえた。
出て行ったところで、行く当てもなければ金銭的な余裕もない。
このまま夜の街に放り出される不安は、足がすくむほど大きい。けれど――裏切りと屈辱に満ちた直樹の元へ戻る精神的苦痛に比べれば、ナオミの提示した不自由な自由の方が、ずっと救いがあるように思えた。
「……お願いします」
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かんな
あかね ♛❤️♛