テラーノベル
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市ヶ谷の堀に映る夜景を横目に、坂を上る。
水面に揺れる光が、わずかな風に乱れる。現実と虚構の境界が、そこだけ溶けているみたいだった。
石畳の路地が入り組むこの界隈は、都心の真ん中にありながら、どこか時が止まったような品性を湛えている。足裏に伝わる硬質な感触と、遠くに滲む車の音。そのどちらもが、この場所だけを静かに切り離しているようで、足取りまで軽くなる気がした。
あの日から、二週間。
最近、驚くほど調子がいい。
ナオミに叩き込まれたメイク術は、職場でも思いがけないほど評判がよかった。
「最近、凄く可愛くなった。しっかりしてるのにナチュラルで、安住さんに合ってるよ」
そう言ってもらえることが増えた。鏡を見るのが嫌で、ただ無難な自分を演じていた頃には、想像もできなかった変化だ。
背筋が、自然と伸びていた。自分に触れる視線が、ほんの少しだけ、怖くなくなっていた。
ナオミに「その角度、ちゃんと見せなさい」と顎を持ち上げられたとき、
正直、恥ずかしかった。けれど今は、そのときの熱さが、まだどこかに残っている気がする。
『おい、穂乃果。いつまで実家に甘えてるんだよ。晩飯、適当な惣菜ばっかで飽きたんだ。今日くらい帰ってきて作れよ』
スマホのスピーカーから漏れてくる声は、耳の奥を泥で撫でるように不快だった。
(……実家?)
『あとさ、洗濯物も溜まってるんだよ。シャツも下着も全然足りないし。……いつまで拗ねてるつもりだ?』
呆れたような、溜息混じりの声。
けれど今の穂乃果には、それが「困っている飼い主の泣き言」にしか聞こえない。
「……ふふ」
気づけば、乾いた笑いが零れていた。
電話越しに、直樹が「何だよ」と苛立ちを露わにする。その荒げた声すら、ガラス一枚向こう側の、遠い世界の出来事のようだった。
(ああ……そっか。私、本当に自由なんだ)
「……ねぇ、別れるって私、言ったよね?」
短く、それだけを告げる。
「は? 俺は納得してねぇからっ――」
喚き散らす声を、指先一つで遮断する。
耳に残っていた不快な残響が、ぷつりと途切れた。
しん、とした静寂。
それは以前のように私を追い詰める孤独ではなく、汚れのない、透明な夜の空気だった。
スマートフォンをバッグにしまい込み、深く息を吐く。
夜風が、ナオミに整えてもらった髪を揺らした。
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かんな
あかね ♛❤️♛