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第4部 綺麗な猛毒
第19章 預ける
非常階段の踊り場で、仁人は壁に背を預けていた。
会議室を出てから、どのくらい経ったのか分からなかった。フロアに戻れば社員がいる。デスクに座れば資料がある。どちらにも戻れなかった。
仁ちゃんかて、何か、隠しとるやろ。
舜太の声が、頭の中で繰り返されていた。怒鳴り声ではなかった。追い詰められた人間の、跳ねた声だった。だからこそ本当に聞こえた。
あの男は気づいていた。何を隠しているのかまでは知らない。けれど、何かを隠していることは感づいている。
もう隠しきれない。
そう思った瞬間、身体の力が抜けた。
震えはなかった。ただ、ひどく疲れていた。二年間、背負ってきた荷物が、初めて重さを持って、肩に乗った気がした。
スマートフォンを取り出した。
連絡先の一覧を開く。「勇斗」という名前があった。初回の面談のとき、名刺に書かれたアドレスを登録した。仕事の連絡でしか、使ったことはない。
指が、画面の上で止まった。
自分から、誰かに連絡する。頼る。それは、仁人が、二年間、一度もしなかったことだった。
話したくなったら、いつでも聞きます。
縁側の声が、蘇る。
仁人は、息を吸って打った。
『少し、お時間いただけますか。仕事の話ではありません』
送信して、画面を伏せた。心臓がうるさかった。
一分も経たずに、返信が来た。
『十五分で行きます。場所は?』
仁人は、しばらくその文字を見ていた。それから打った。
『屋上です』
二月の夜の屋上は冷たかった。
社員がたまに休憩に使う場所だった。ベンチが二つ、自販機が一台。フェンスの向こうに、街の灯りが遠く広がっている。
仁人は、自販機で缶コーヒーを二本買った。ブラック。取り出し口から出てきた缶は、熱かった。両手で持つと、手のひらが痛いほどだった。
冷めるまで、持っていようと思った。
ベンチに座って待つ。息が白かった。
十五分より少し早く、扉が開いた。
「お待たせしました」
勇斗が、コートの襟を立てて、立っていた。息が少し上がっている。走ってきたのだろう。
「……早いですね」
「ええ。走りました」
勇斗は笑った。それから、仁人の手の中の缶を見た。
仁人は、片方を差し出した。
「熱いですよ、これ」
「俺は熱いの、平気です」
「知っています。手を温めてください。冷たいので」
勇斗は隣のベンチに座った。缶を両手で包む。二人並んで、熱い缶を抱えて遠くの灯りを見た。
沈黙が落ちた。
冷たい風が吹き抜けた。缶の熱が、手のひらをじんわりと温めていく。
「勇斗さん」
「はい」
「舜太に言われました。何か隠しとるやろ、と」
勇斗は何も言わなかった。静かに聞いていた。
「……俺は」
仁人は、言いかけて口をつぐんだ。喉が詰まった。何から話せばいいのか分からなかった。
「話す前に、一つだけいいですか」
勇斗が言った。
「はい」
「俺は、ヴェルディエの代理人です。最初からそうです。今もそれは変わりません」
「……ええ」
「だから、今夜あなたが話すことを、仕事には持ち込みません。約束します」
勇斗は、缶を見つめたまま言った。
「それから、もう一つ。嘘をつきたくないので先に言います」
「俺は、ヴェルディエ・ベンチャーズの記録を見ました。全部。三千万円のことも、自分の株を先に譲ると言ったことも、買い戻しの名義を二人にしたことも。……第二案のことも」
仁人の指が缶を握りしめた。
震えが始まった。細かい、規則のない震え。手のひらの熱が遠くなる。
「……全部、ですか」
「全部です」
「それを、いつ」
「二日前です」
二日前。あの縁側の夜のあとだ。仁人は目を閉じた。
「では、昨日の夜の私の答えは」
「聞きました」
勇斗は静かに言った。
「草案の話も」
「……」
「嘘だと分かっていました。でも、責めたくなかった。だから、受け取らないまま置きました」
仁人は缶を握った手を見た。震えが止まらなかった。
その手の上に、別の手が重なった。
温かい手だった。缶の熱とは違う、人の温度。
「震えていいです」
勇斗が言った。
仁人は動けなかった。重ねられた手を、振りほどくことも、握り返すことも、できなかった。ただ、その温度を、じっと感じていた。
「……給料日の、前の夜でした」
仁人はゆっくり話し始めた。
「口座の残高を、三回、確認しました。三回見ても、数字は、変わりませんでした。翌日は、二十人分の給料日で」
勇斗は頷いた。相槌は打たなかった。ただ聞いていた。
「舜太は、融資の交渉で銀行を回っていました。決まる保証はなかった。柔太朗は、アトリエで新作を削っていた。あの静かな背中に、この数字を見せられなかった」
「はい」
「だから、一人でヴェルディエの門を叩きました。銀行にいた頃の知り合いの紹介で」
風が吹いた。缶の熱が少し薄れた。
「自分の株を先に譲ると言ったのは、二人に何も背負わせたくなかったからです。二人の持ち分が薄まるのは、嫌だった。この会社は二人のものだから」
「仁人さんの、ものでも」
「……私は、二人のオマケです」
仁人は少し笑った。
「三人の真ん中に、いたつもりでした。でも、本当は、二人の外側から支えているだけでいい。それが、自分の居場所だと思っていました」
勇斗は何も言わなかった。
「第二案は」
声が少し掠れた。
「本当は出したくなかった。ブランドの使用許諾。柔太朗の作品の権利を、二年間差し出す。……彼の了承も取らずに」
仁人は、自分の膝を見た。
「あの部屋で、あの案を口にしたとき。あんなに大切にしているものを。あんなに静かに削っているものを」
「……」
「その瞬間に、二人をいちばん裏切った気がしたんです。守りたくて言ったのに」
言葉が途切れた。
長い沈黙のあと、仁人は続けた。
「数週間後に、融資が決まりました。舜太が取ってきた。……安堵しました。膝が崩れるくらい」
「はい」
「そのあとに恥が来ました」
仁人は缶を握りしめた。
「だから、全部、埋めました。契約書も欠番にして。あの日のことを、なかったことにしようと」
「……」
「二人に言えば、なぜ言わなかった、と言われる。舜太の声が聞こえるんです。何度も。二年間ずっと」
仁人は、目を閉じた。
「なんで、俺に相談せんかったんや」
自分の口から、その言葉が出た。舜太の、あの調子で。
「怒った声じゃない。傷ついた声なんです。あの男が、そんな声を出すのを聞きたくなかった。怒られるほうが、まだよかった」
勇斗は、しばらく黙っていた。
風の音だけが聞こえた。
「その声を」
勇斗がゆっくり言った。
「二年間、一人で聞いてきたんですね」
仁人は答えられなかった。喉の奥が熱かった。
「あなたは、二人を守ろうとした。それは本当です。記録に、そう書いてありました。あの一つ一つの条件が、そう言っていました」
「……」
「ただ」
勇斗は、少し言葉を選んだ。
「二人を守るあなたを、守る人がいなかった」
「……俺は守る側なので」
いつもの言葉が、出た。
「今夜は違います」
勇斗はそう言った。それだけだった。
仁人の目から、何かがこぼれそうになった。堪えた。堪えたけれど、視界が少し滲んだ。
「仁人さん」
しばらくして、勇斗が言った。
「この話は、交渉の材料にはしません」
はっきりした声だった。
「舜太さんにも、柔太朗さんにも、俺からは言いません。ヴェルディエにも。話すのは、仁人さんが決めることです。俺が決めることじゃない」
仁人は、勇斗を見た。
「……いいんですか。あなたは、ヴェルディエの代理人です」
「はい。でも、これは別です」
勇斗は、まっすぐ仁人を見ていた。ただ、まっすぐな目だった。
「預かります。あなたが、自分で話す日まで」
預かる。
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。暴かれるのではなく、預けられる。仁人が、初めて知った形の言葉だった。
「……いつか」
仁人は言った。
「いつか、自分で話します。二人に。……怖いですが」
「怖くて、いいと思います」
勇斗は頷いた。
「怖くない人の話し方は、たぶん、軽いので」
仁人は少し笑った。息が、白く、夜に溶けた。
缶を口に運ぶ。とうに、熱は引いていた。一口、飲む。
ぬるくて、ちょうどよかった。
震えが止まっていることに、気づいた。
いつの間にか、勇斗の手は離れていた。けれど、手のひらには、まだ、その温度が残っていた。
誰かに、預けた。
それだけで、二年間、背負ってきた荷物が、半分の重さになった気がした。
夜の街の灯りが、遠くで静かに瞬いていた。
コメント
1件
うわあ……仁人がやっと話せたんだね……。ずっと一人で背負ってたものを、勇斗さんに「預ける」って決めた瞬間がすごく丁寧に描かれてて、胸がいっぱいになった。 「震えていいです」「預かります」って言葉、すごく優しくて……仁人の苦しさが全部想像できたよ。守る側の人間が守られるって初めての形だったんだろうな。泣きそうになった。