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第4部 綺麗な猛毒
第20章 切り札
二月六日、午前十時。勇斗は部長の部屋に呼ばれた。
部屋には、部長のほかに、もう一人いた。ヴェルディエの事業開発担当役員だった。湯呑みを両手で包んでいる。表情は穏やかだった。穏やかすぎて読めなかった。
「座れ」
部長が言った。
勇斗は椅子に座った。
「ベンチャーズの責任者から話が来た」
部長は、机の上で指を組んだ。
「お前が、二年前の記録を見に行ったそうだな」
「はい」
「なぜ、俺に報告しなかった」
「確認中でした。事実関係が整理できてから、と思っていました」
「整理できたのか」
勇斗は、少し間を置いた。
「概ね」
「なら、聞かせろ」
部長は、椅子の背にもたれた。
「二年前、LueurのCOOが、ヴェルディエ・ベンチャーズと秘密保持契約を結んだ。資金調達の協議をした。共同創業者には隠れて。最終案として、ブランドのライセンスを、二年間差し出すと言った。デザイナー本人の了承も取らずに」
その通りだった。一字も間違っていない。
「それを、初回面談で、あのCOOは初めてですと言った。嘘だ」
「……はい」
「これは、切り札になる」
部長は、はっきりと言った。
「表明保証の信頼性の問題だ。売り手のCOOが、重要な過去の接触を隠していた。社長の舜太が、これを知れば動揺する。自分の右腕が、共同創業者に隠れて、ブランドを売ろうとしていたんだからな。価格は二割は下がる。少なく見積もって」
勇斗は、何も言わなかった。
「使え」
部長が言った。
「今日が独占交渉の最終日だ。ただ、ヴェルディエは、明日の最終条件の提示までは待つと言っている。その場で、この件を匂わせろ。直接言う必要はない。ただ、知っている、と伝えるだけでいい。あとは、向こうが勝手に崩れる」
役員は、湯呑みを静かに机に置いた。
「私は、初回の面談で、弊社とは初めてのご縁と言ってしまった」
役員が、口を開いた。穏やかな声だった。
「それは私の認識違いだ。責めるつもりはない。ただ、君の意見を聞きたい。この食い違いを、どう見ているのか」
勇斗は、役員を見た。
この人は、部長とは違う目をしていた。試していると思った。
「事業の話として、申し上げます」
勇斗は、言った。
「使えば、価格は下がるかもしれません。二割かそれ以上。今日の交渉はうまく進むでしょう」
「なら、使えばいいだろう」と、部長が言った。
「ただ、その先を考えてください」
勇斗は、部長を見た。
「この件を、舜太に匂わせれば、舜太は仁人を疑います。仁人は崩れる。柔太朗は二人を疑い、何かを閉ざします。三人の関係が壊れた会社は、買った瞬間に価値が減ります」
「感傷だ」
「リスクの評価です」
勇斗は、即座に返した。
「この会社の価値は、三人にあります。デザインは柔太朗。外との窓口は舜太。中を回すのは仁人。三人のうち一人でも離れれば、会社は機能しません。調査の初日から、私が報告をあげていた通りです。これはリスクでもあり、強みでもあります。」
部長は、黙っていた。
「私たちが買いたいのは、三人が一緒に作るLueurです。壊れた三人ではありません。切り札を使えば、私たちは、安く壊れた会社を買うことになります」
長い沈黙が落ちた。
「……お前」
部長が、低く言った。
「個人的な感情が入っていないか」
勇斗は、部長の目をまっすぐ見た。
「半分はあります」
嘘はつかなかった。
「半分は、リスクの評価です。もう半分は、個人的な感情です。……でも、この事業の見立ては、感情がなくても同じ結論になります」
部長は、目を細めた。
「では、どうする。買わないのか」
「買うというやり方を、変えたいんです」
勇斗は、用意していた資料を机に置いた。まだ一枚だった。昨夜、屋上から戻ったあとに、一晩で書いたものだ。
「完全な買収ではなく、資本提携です。会社の株を二割から三割だけ持つ。経営は、これまで通り、創業者に任せる。過半数を持たず経営を握らない代わりに、リスクも小さく抑えられます」
役員が、資料を手に取った。
「さらに、三つ組み合わせます。一つ、ヴェルディエの国内工房の共同利用。Lueurの作品の一部を、型で量産する。手で作るものと分ける。二つ、ブランドのライセンス。ヴェルディエの海外店舗で、Lueurの名前で製品を売る。三つ、柔太朗さんとパリのメゾンのディレクターの共同ライン」
「共同ライン」
「はい。あの二人のコレクションです」
部長は、鼻で笑った。
「夢物語だ」
「理由は、三つあります」
勇斗は、指を折った。
「一つ、柔太朗さんを縛らずに済む。才能は契約書では繋ぎ止められません。本人が残りたいと思う形にしなければ、買収後に離れます。二つ、量産のシナジー。ヴェルディエの工房とLueurのデザインは、組むと大きくなります。先日、工房を視察した際、仁人さんは、手で作るものと型で作るものを分ける案を、その場で出しました。彼らは、量産の答えをすでに持っています。三つ、初期投資は買収の三分の一で済み、五年で回収できる見込みです」
部長の表情が、変わった。数字の話には耳を貸す男だった。
「三分の一、か」
「はい。ただし、試算はまだ粗いです。一週間いただければ、精密なものを出します」
「勇斗」
部長は、静かに言った。
「成功報酬はどうなる」
勇斗は、答えた。
「買収の、三分の一以下になります」
「お前の昇進は」
「……飛びます」
「分かっているのか」
「分かっています」
部長は、勇斗を、長い間見ていた。それから、目を閉じた。
役員が、口を開いた。
「面白い」
穏やかな声だった。
「数字を見せてくれ。一週間で」
「承知しました」
「ただし」
部長が、目を開けた。
「一週間で数字が出せなければ、買収案で進める。そのときは」
部長は、勇斗を、まっすぐ見た。
「切り札も使う。いいな」
勇斗は、頷いた。
「はい」
夜のフロアは、人が少なかった。
勇斗は、自分のデスクで表計算ソフトを開いていた。少数出資の収益の試算。三年後、五年後。工房の稼働率。ライセンスの売上見込み。
数字が、画面の上でつながっていく。
「勇斗さん」
後輩のアナリストが、隣の席から声をかけてきた。
「それやるんすか。本当に」
「やる」
「昇進、飛びますよ」
「知ってる」
勇斗は、画面から目を離さなかった。
後輩は、しばらく黙っていた。それから、ため息をついた。
「……徹夜、付き合います」
「いいのか」
「いいっす。勇斗さん、こういうとき、いい顔してるので」
勇斗は、少し笑った。
笑えることに、少し驚いた。あの、ヴェルディエ・ベンチャーズの帰り道には笑えなかった。けれど、今は、笑えた。
スマートフォンが震えた。
『昨夜は、ありがとうございました。今日は、少し眠れました』
仁人からだった。
『よかった。俺は、今夜は徹夜です』
『無理をしないでください。』
勇斗は、画面を見てまた笑った。今度は、声が出た。後輩が、隣で怪訝な顔をした。
数字を打ち込む。市場予測、原価などデータをあたる。関数を組む。画面の中の数字の一つ一つが、あの三人の輪郭のように思えた。
仁人の顔を思い出す。屋上で、缶コーヒーを冷めるまで持っていた人。
震える手を重ねたとき、動かなかった人。
俺は、欲しいものは何でも手に入れてきた。
それが、勇斗のやり方だった。
今度は、手に入れ方を変える。奪うのではなく。暴くのでもなく。預かる。
窓の外で、夜が深くなっていった。
コメント
1件
いや、めちゃくちゃ良かった。 勇斗が「切り札」を切らずに自分のやり方で勝負に出たところ、ガチで刺さったわ。リスク評価って言いつつ、仁人のこと思ってるのバレバレなのがいいんだよな…あの屋上のシーンがあったからこそ、この選択に重みが出てる。仁人からの「少し眠れました」の連絡で勇斗が笑うところ、最高だった。「奪うのではなく、預かる」って言葉、めっちゃ好き。 ただ、この選択がどう転ぶか。昇進も報酬も捨ててまで守ろうとした三人の輪郭が、ちゃんと報われてほしいなって思った🔥
のんの
410
こりん
602
レタス
5,005
#ご本人様には関係ありません
狐十@アイコン変えた!!
14,368