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橘靖竜
第十五章 深層C編
第209話「C」
【どこでもない層/深層】
ジャバは、黒い亀裂から放り出されるように戻った。
足元に黒い影が散る。
肩からも、腕からも、煙のような影が漏れている。
それでも、ジャバは倒れなかった。
「ふざけんな!」
怒鳴り声が、暗い層に響いた。
そこは、場所というより、空白に近かった。
床はある。
だが、どこまでも続いているようで、どこにも繋がっていない。
周囲には、壊れた盤面のような薄い光がいくつも浮かんでいる。
ラストの消えた痕跡。
パイソンが崩れた記録。
学園の揺れ。
レアの残光。
それらを見下ろすように、カシウスが立っていた。
「まだやれた!」
ジャバはカシウスへ向かって怒鳴る。
「俺はまだ倒れてねえ!
なのに、なんで戻した!」
カシウスはすぐには答えなかった。
暗い画面の一つに、転移した学園が映っている。
校庭。
白い焼け跡。
そこに立つハレルたち。
カシウスは、その画面を見たまま言った。
「君を失うわけにはいかなかった」
ジャバは舌打ちした。
「俺が負けると思ったのか」
「勝つ前に、消耗しすぎていた」
「はっ。あんたまでパイソンみてえな言い方しやがる」
ジャバは歯を剥き出しにする。
「ラストは消えたぞ」
「パイソンも消えた」
「あの女に道連れにされてな」
カシウスの表情は変わらない。
「見ていた」
「見てただけかよ」
「必要な記録は取った」
ジャバの影が膨れ上がる。
「記録、記録ってよ」
「俺たちはあんたの記録のために戦ってんのか」
カシウスは、ようやくジャバを見る。
「君は壊すために動いている」
「私は、結果を見るために動いている」
「目的が違うだけだ」
「気に食わねえな」
「だろうね」
ジャバは一歩踏み出した。
「それで、戻したのはあんたか」
カシウスは、答えなかった。
その沈黙に、ジャバの眉が動く。
「おい」
次の瞬間だった。
暗い層の奥から、声が入った。
「私です」
ジャバが振り返る。
そこには誰もいない。
影もない。
姿もない。
ただ、声だけがあった。
若い女の声に聞こえた。
だが、次の一音では、長く生きた女の声にも聞こえた。
近くから聞こえたのか、遠くから聞こえたのかも分からない。
ジャバが低く唸る。
「誰だ、お前」
声は、静かに答えた。
「C」
「名前か、それ」
「最初の文字です」
ジャバは顔をしかめた。
「意味わかんねえな」
カシウスが、ほんのわずかに目を細める。
「出てくるのが早いね」
Cの声は、カシウスの言葉に淡く笑ったようだった。
「遅いくらいです」
「ラストは消えました」
「パイソンも消えました」
「ジャバまで失えば、盤面は穴だらけになります」
ジャバが怒鳴る。
「俺は消えてねえ!」
「だから、戻しました」
「勝手に引っ張りやがって」
「勝手ではありません」
Cは静かに言う。
「必要でした」
ジャバの足元で影が膨れる。
「姿を見せろ」
「まだ必要ありません」
「偉そうに」
「偉いのではなく、深いだけです」
その言葉に、カシウスの口元がわずかに動いた。
笑ったのか、警戒したのか、判別できない。
「相変わらずだね」
Cは答える。
「あなたもです。カシウス」
「上で遊びすぎました」
「枝を切り、葉を揺らし、実を落とした」
「でも、根にはまだ触れていません」
ジャバが苛立つ。
「何の話だ」
Cの声が、少しだけ近づいたように響いた。
「学園です」
浮かぶ画面の一つに、転移した学園が映る。
レアの残光。
主鍵。
副鍵。
体育館で続く名前確認。
現実側の旧学園跡地。
Cは続ける。
「戻そうとしています」
「場所を、建物を、人を、名前を」
「戻る瞬間は、最も柔らかい」
ジャバが眉をひそめる。
「柔らかい?」
「参照先が揺れます」
「どこに戻るのか」
「誰が戻るのか」
「どこまでが学園なのか」
「誰がそこにいたのか」
Cの声は、優しく聞こえた。
けれど、その優しさが妙に冷たかった。
「境界が動く時、番地は乱れます」
「その時なら、まとめてずらせます」
カシウスが言う。
「君は、いつも根元を触りたがる」
「根元に触れなければ、枝は何度でも伸びます」
ジャバは鼻で笑った。
「つまり、今度はお前が壊すってことか」
「いいえ」
Cは、ほんの少し間を置いた。
「壊すのは、あなたです。ジャバ」
「私は、壊れる場所を変えるだけです」
ジャバの目が細くなる。
「それ、どう違うんだよ」
「大きく違います」
Cの声が、静かに沈む。
「あなたが校庭を殴る」
「体育館が割れる」
「あなたが外周を押す」
「現実側の北門が歪む」
「彼らが守った場所ではなく、守っていない場所が壊れる」
ジャバは少しだけ黙った。それから、口元を吊り上げる。
「……面白そうじゃねえか」
カシウスは、学園の画面を見たまま言った。
「やりすぎれば、学園そのものが崩れる」
Cは答える。
「崩れても構いません」
「私は構う」
「そうですか」
その声には、怒りも反発もない。
ただ、記録を読み上げるような冷たさだけがあった。
「では、崩れない程度にずらしましょう」
「彼らが、どこまで自分たちの場所を保てるか見ます」
ジャバは黒い影を肩にまとい直す。
「俺はいつ出ればいい」
「まだです」
「また待てってのか」
「本体はまだ温存します」
「まずは獣影だけで十分です」
「今は、彼らに“戻れるかもしれない”と思わせてください」
ジャバが不満げに舌打ちした。
「その希望ごと、あとで潰すのか」
Cの声は、少しだけ笑ったように聞こえた。
「いいえ」
そして、囁くように続ける。
「戻った先を、少しだけ間違えさせるのです」
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/校庭・朝】
校庭の空気は、まだ重かった。
レアが消えた場所には、薄い白い残光が残っている。
サキはスマホを握りしめたまま、その光と画面を何度も見比べていた。
画面の中では、小さな光点がサキのそばで揺れている。
表示名は、re。
動くわけではない。
何かを示すわけでもない。
ただ、そばにいる。
ハレルは肩の傷に布を当てながら、サキの隣に立った。
「まだ、そこにある?」
サキは小さく頷く。
「うん」
「消えてない」
リオは傷ついた副鍵を見ていた。
腕輪の表面には、細い亀裂のような傷がある。
「ノノ、これでいけるのか」
イヤーカフからノノの声が返る。
『完全じゃないけど、使える』
『ただし強く出しすぎないで』
『線を支えるだけ。攻撃とか防御に使ったら、また出力が落ちる』
リオは短く息を吐いた。
「分かった」
アデルは南西外周の方を見ている。
まだ副鍵の光を完全には切っていない。
「ノノ、帰還手順をもう一度確認したい」
『うん』
『現実側と共有する』
少しノイズが入り、日下部の声が混じった。
『こちら日下部です』
『旧学園跡地の外周は維持できています』
『ただ、残光は少しずつ薄くなっています』
『試行を始めるなら、時間を置かない方がいいです』
ハレルは主鍵を握った。
「戻すものと、残すものの整理は?」
ノノが答える。
『戻すのは、現実由来の学園と人』
『生徒、教師、ハレル、サキ、リオ』
『校舎、体育館、校庭、現実側に属する構造物』
アデルが続ける。
「王都側の兵、術師、私たちは対象外だな」
『そう』
『アデル、ヴェルニ、ダミエ、王都兵、王都術師、イルダ側の光具は戻さない』
『巻き込まれると、逆に現実側へ引っ張られる危険がある』
ヴェルニが少し離れた場所で座り込みながら手を上げた。
「俺は巻き込まれたら現実に行けんの?」
アデルが即答する。
「行かせない」
「即答かよ」
「負傷者は黙って休め」
ヴェルニは肩をすくめる。
「はいはい」
リオは、少しだけ顔を伏せた。
ハレルはそれに気づく。
「リオ」
リオは答えない。
ノノの声が、少しだけ柔らかくなった。
『ユナは、今回の帰還対象には入れない』
『イルダ医療棟にいるから、学園帰還に巻き込まないように座標を切り離す』
リオは低く言った。
「分かってる」
アデルが静かに言う。
「置いていくのではない」
「順番を間違えないだけだ」
リオは目を閉じ、少しだけ頷いた。
「分かってる」
だが、その声は苦かった。
サキはスマホの光点を見つめた。
「reは……対象なの?」
一瞬、全員が黙った。
ノノの声が迷う。
『分からない』
『黒影反応じゃない』
『人でもない』
『強制退出の対象でもない』
『ただ、サキの端末と帰還ラインの両方に反応してる』
日下部も言った。
『現実側でも微弱な光点として見えています』
『ただし、座標としては不安定です』
『サキさんの近くに固定されているように見えます』
サキは画面をそっと撫でる。
「連れていけるのかな」
誰も答えられなかった。
ハレルは、サキのスマホを見て言う。
「分からないなら、今は無理に決めない」
「消さない」
「使えるなら使う」
「でも、それをレア本人だと決めつけない」
サキは少しだけ唇を噛んだ。
「うん」
リオも静かに言った。
「でも、忘れない」
サキは頷いた。
「うん」
◆ ◆ ◆
【現実世界・旧学園跡地周辺/仮設指揮所・朝】
旧学園跡地の森は、以前より薄く見えた。
木々はまだある。
だが、その奥に校舎の輪郭が見える。
校門。
昇降口。
体育館の屋根。
校庭の端。
それらが、朝の光の中で何度も浮かんでは消えていた。
木崎はカメラを構えながら言う。
「見え方が、駅の時より不安定だな」
日下部は端末を見ている。
「学園は中に人が多いです」
「建物だけではなく、人と記憶と名前を同時に戻す必要があります」
「それに、今は残光を使っています。線は澄んでいますが、長くは持ちません」
城ヶ峰は地図を見下ろした。
「外周各班は」
「維持しています」
「南西はまだ弱いですが、支援を増やしました」
「北側、東側は安定」
木崎が言う。
「黒影は」
「パイソンの構文は消えています」
「ジャバ本体の反応もありません」
「ただ……」
日下部の指が止まる。
城ヶ峰が見る。
「ただ?」
「今までと違うノイズがあります」
画面の下層に、細い点が表示されている。
黒い影のような反応ではない。
構文でもない。
小さな針のような印。
日下部は眉を寄せた。
「帰還ラインの上ではなく、その下にあります」
「線そのものではなく、線が置かれている場所のさらに下側……」
木崎が顔をしかめる。
「どういう意味だ」
「分かりません」
日下部は正直に答えた。
「パイソンの干渉は、意味や役割を書き換えるものでした」
「これは違う」
「もっと位置に近い」
城ヶ峰の目が鋭くなる。
「危険か」
「現時点では反応が弱いです」
「でも、無視はできません」
木崎は森の奥を見た。
校舎の影が、少しだけずれたように見えた。
右に揺れたのではない。
見えている場所と、実際にあるべき場所が、ほんのわずかに違ったような感覚。
木崎は低く言う。
「嫌な感じだな」
城ヶ峰は即座に命じた。
「記録しろ」
「異世界側へ共有」
「帰還試行中に変化したら、即時報告」
日下部は頷く。
「はい」
画面の下で、針のような印が一度だけ点滅した。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館・朝】
体育館では、名前確認が続いていた。
青山先生だけではない。
他の教師たちも前に出ている。
「私は、香川直人です」
「二年一組の担任です」
「今、体育館北側にいます」
生徒が続く。
「水野アヤ、ここにいます」
「長谷川ケイ、ここにいます」
「大原ミツキ、ここにいます」
青山先生が別の列を見る。
「私は、青山和子です」
「三年二組の担任です」
「今、体育館中央にいます」
体育館の床に走る白い線は、さっきより落ち着いていた。
黒い構文は、もうほとんどない。
ダミエは、結界の線を確認しながら言う。
「体育館は保っている」
ノノの声がイヤーカフから入る。
『うん、体育館側は安定』
『ただ、現実側から変なノイズ報告』
『帰還ラインの下に、針みたいな反応があるって』
ノノの声が、少しだけ低くなる。
『ただ……このノイズ、普通の黒影反応じゃない』
近くで解析画面を覗き込んでいたセラが、静かに言った。
『場所が、鳴っています』
ダミエは眉をひそめる。
「場所が?」
セラは画面の一点を指すように、声を続けた。
『はい』
『人に取り憑く影でも、役割を書き換える構文でもありません』
『もっと小さい。もっと深い』
『校庭、体育館、校舎、外周……その名前の下に、細い針のようなものが刺さっている感じです』
ノノが小さく息を呑む。
『やっぱり、セラにもそう見える?』
『見える、というより……聞こえます』
セラの声は慎重だった。
『場所そのものが、ほんの少しだけ違う名で呼ばれかけているような違和感です』
ダミエは体育館の床を見る。
「場所の名を変えられるということか」
『まだ変えられてはいません』
セラは答えた。
『ですが、揺らされています』
『もしこのまま帰還を始めれば、校庭を校庭として戻すつもりが、
別の場所へ繋がる可能性があります』
ノノの声が早くなる。
『だから、人の名前だけじゃ足りない』
『場所にも名前が必要なんだ』
セラは頷くように言った。
『はい』
『人が自分の名前を言うように、学園の場所にも名前を与えてください』
『ここは体育館』
『ここは校庭』
『ここは校舎』
『そう確認することで、小さな針を抜けるかもしれません』
ダミエは短く息を吐いた。
「分かった」
そして、体育館の中央へ声を向ける。
「名前確認に追加する」
「人の名前だけではない」
「場所の名前も言え」
「ここは体育館だ」
「体育館に、誰がいるのかを結び直す」
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/校庭・朝】
ノノからの通信を受け、ハレルたちは顔を上げた。
『新しい確認を追加する』
『人の名前だけじゃなくて、場所の名前も声に出して』
『ここが校庭であること』
『体育館が体育館であること』
『校舎が校舎であること』
『人と場所を結ぶ』
ハレルは校庭を見回した。
戦いでえぐれた地面。
黒い焦げ跡。
白い残光。
それでも、ここは校庭だ。
ハレルは主鍵を握る。
「雲賀ハレル」
「この校庭にいる」
リオが続く。
「一ノ瀬涼」
「校庭にいる」
サキはスマホを握りしめたまま、小さく言った。
「雲賀サキ」
「校庭にいる」
その瞬間、スマホの画面でreの光が、ほんの少しだけ揺れた。
サキは息を止める。
でも、光は動かなかった。
ただ、校庭という言葉に反応したように、小さく震えただけだった。
アデルは外周へ視線を向ける。
「アデル」
「学園外周を支えている」
ヴェルニが座ったまま手を上げる。
「ヴェルニ」
「校庭で休んでる」
アデルが冷たく見る。
「休めと言ったが、ふざけろとは言っていない」
「真面目だって」
サキが、少しだけ笑いそうになって、でも笑えなかった。
その様子を見て、ハレルは少しだけ胸が痛くなった。
レアのことは消えない。
でも、止まってはいられない。
ハレルは校庭中央の残光を見た。
「ここは、学園の校庭」
「俺たちは、ここから戻る」
ノノの声が入る。
『現実側と同期準備』
『まだ試行開始じゃない』
『でも、最終確認に入る』
日下部の声も混じる。
『旧学園跡地側、外周維持』
『校庭対応地点、捕捉しています』
『ただし、下層ノイズは継続』
ハレルは眉をひそめる。
「下層ノイズ?」
ノノが答える。
『まだ分からない』
『でも、パイソンとは違う』
『今は警戒だけして』
アデルが低く言った。
「新しい敵か」
誰も答えなかった。
サキのスマホの画面で、reがゆらゆらと揺れる。
その光は、何も語らない。
けれど、サキにはなぜか、それが少しだけ不安そうに見えた。
◆ ◆ ◆
【どこでもない層/さらに深い場所】
Cの声が、静かに響いた。
「気づき始めました」
目の前に、学園の輪郭が浮かんでいる。
いや、目の前という表現は正しくない。
そこには目も、手も、顔もない。
ただ、声があり、学園の番地があった。
校庭。
体育館。
校舎。
外周。
現実側の旧学園跡地。
異世界側の転移した学園。
それぞれに、細い印がついている。
Cは、その印の一つに触れるように声を落とした。
「場所にも名前を与える」
「悪くありません」
少し離れた場所で、カシウスの声がする。
「手を出すのかい」
Cは答える。
「まだです」
「君にしては慎重だ」
「触るなら、動き出した瞬間です」
「止まっているものをずらすより、戻ろうとしているものをずらす方が簡単です」
カシウスは静かに言う。
「学園を戻させるつもりか」
「はい」
ジャバの声が遠くから割り込む。
「だったら、いつ壊すんだよ」
Cは、少しだけ笑ったようだった。
「戻る途中です」
そして、優しい声で続ける。
「帰る場所を、ほんの少し間違えさせればいい」
深層に、静かな沈黙が落ちた。
Cの声だけが、最後に残る。
「始めましょう」
「学園帰還を」
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第十五章深層C編、めちゃくちゃ重くて怖いけど、引き込まれました……。「C」の存在、まだ姿も見えないのに、場所の“名前”をずらそうとしてるって発想が怖すぎる。サキのスマホに残ったレアの光点、消えてないのが胸にくる。名前確認で人の名前だけじゃなく場所の名前を言う展開、ここで来たかって感じで好きです。戻る途中が一番柔らかいとか、Cのセリフが全体的に冷たくて美しい。続きが気になって仕方ないです……。