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第210話 戻すもの、残すもの
【異世界・転移した学園/体育館・朝】
体育館の床には、白い線が静かに走っていた。
それは結界の線であり、帰還の線でもあった。
さっきまで黒い構文に噛まれていた線は、今はだいぶ澄んでいる。
けれど、完全に安定したわけではない。
床の下。
壁の奥。
体育館という場所のさらに深いところに、小さな針のような違和感がある。
ダミエはそれを見下ろしながら、息を整えていた。
ノノの声がイヤーカフから入る。
『これから最終確認に入る』
『戻すものと、残すものを分ける』
『ここを間違えると、学園帰還そのものが失敗する』
体育館にいる教師たち、生徒たちが息を呑む。
青山先生が不安そうに聞いた。
「分ける、というのは……」
ノノの声が答える。
『現実側から来た人と物は、現実側へ戻す』
『異世界側の人と物は、巻き込まない』
『それだけ聞くと単純だけど、今の学園は二つの世界が混ざってる』
『だから、声に出して確認する必要がある』
ダミエが続けた。
「ここは体育館だ」
「だが、今は王都側の結界も、光具も、術式も入っている」
「戻すべきものと、残すべきものを混同すれば、帰還時に裂ける」
生徒の一人が小さく言った。
「裂けるって……」
ダミエはすぐには答えなかった。
その言葉を詳しく説明すれば、恐怖だけが広がる。
だから、短く言う。
「だから、裂けないようにする」
青山先生が頷いた。
「では、私たちは何をすれば」
『名前確認を続けて』
ノノが言った。
『でも、少し変える』
『自分の名前、いる場所、現実側へ戻る対象であること』
『この三つを確認する』
青山先生は、生徒たちへ向き直った。
「分かりました」
そして、少し震える声を整える。
「私は、青山和子です」
「三年二組の担任です」
「今、体育館中央にいます」
「現実世界の学園へ戻る対象です」
体育館に、小さなざわめきが広がった。
戻る対象。
その言葉が、生徒たちの胸に現実味を持って落ちた。
本当に戻るのだ。
戻ろうとしているのだ。
青山先生は生徒たちを見る。
「順番に続けてください」
一人の生徒が、膝の上で拳を握った。
「私は、森下カナです」
「三年二組です」
「今、体育館中央にいます」
「現実世界の学園へ戻る対象です」
次の生徒が続く。
「私は、藤井タクトです」
「三年二組です」
「今、体育館中央にいます」
「現実世界の学園へ戻る対象です」
少しずつ、声が重なっていく。
泣きそうな声。
震える声。
それでも、確かに自分の名前を言う声。
ダミエは床の白い線を見る。
体育館の線が、わずかに太くなった。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/臨時分析拠点・朝】
ノノは、複数の画面を同時に見ていた。
体育館。
校庭。
校舎棟。
外周。
現実側の旧学園跡地。
そこへ、帰還対象と非対象の一覧を重ねていく。
現実由来。
異世界由来。
混合状態。
不明反応。
残光反応。
re。
ノノは眉を寄せる。
「分類が多すぎる……」
横にいたセラが静かに言った。
「でも、分けなければ、混ざります」
「うん」
ノノは画面を切り替える。
「戻すもの、残すもの、切り離すもの」
「三つに分ける」
セラは画面を見つめる。
「戻すものは、現実世界に根を持つもの」
「生徒、教師、ハレル、サキ、リオ」
ノノが指で印をつける。
「それと、現実側の学園構造」
「校舎、体育館、校庭、昇降口、教室、職員室」
セラが続ける。
「残すものは、異世界側に根を持つもの」
「アデル、ヴェルニ、ダミエ、王都兵、王都術師、イルダ側の光具」
ノノは息を吐いた。
「それと、ユナがいる医療棟」
セラは少し目を伏せる。
「リオさんには、苦しいですね」
「うん」
ノノは画面の端に、ユナの反応を小さく表示する。
王都イルダ医療棟。
学園からは離れた場所。
現実側へ戻すには、別の導線が必要になる。
「でも、今ユナを巻き込んだら危ない」
ノノは言った。
「医療棟ごと学園帰還に引っ張るわけにはいかない」
「ユナ本人も、まだ長時間の移動に耐えられない」
セラは頷いた。
「順番を間違えれば、救えるものも救えなくなります」
ノノは画面の中央に、もう一つの反応を出した。
小さな光点。
表示名は、re。
「問題はこれ」
セラがじっと見つめる。
「黒影ではありませんね」
「うん」
「強制退出対象でもない」
「人でもない」
「でも、サキの端末と帰還ラインに反応してる」
セラは目を閉じる。
「音が、とても小さいです」
「音?」
「はい」
セラは静かに答える。
「場所のノイズとは違います」
「これは、まだ名になりきっていない名のように聞こえます」
ノノは思わずセラを見た。
「名になりきっていない名……」
セラは、慎重に言葉を選ぶ。
「レアさん本人だと断定してはいけません」
「でも、レアさんの最後の光と無関係とも思えません」
「サキさんのそばにいるのは、偶然ではないと思います」
ノノは小さく頷く。
「じゃあ、reはどう分類する?」
セラは答えた。
「戻すものでも、残すものでもなく」
「見失ってはいけないもの」
ノノはしばらく黙った。
それから、画面に新しい分類を作る。
『観測継続対象:re』
「これでいく」
セラは頷いた。
「はい」
その時、画面の下層に、小さな針のようなノイズがまた点滅した。
ノノの表情が変わる。
「また出た」
セラも目を細める。
「場所の下です」
「C……って名前は、こっちはまだ知らないけど」
ノノは唇を噛む。
「明らかに、パイソンとは違う」
セラは静かに言った。
「人を騙す影ではありません」
「場所を迷わせる影です」
ノノは、その言葉をメモした。
場所を迷わせる影。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/校庭・朝】
校庭では、帰還対象の確認が始まっていた。
ハレルは主鍵を握り、校庭中央に立つ。
肩の傷は痛む。
けれど、立てないほどではない。
リオは少し離れた場所で、副鍵の傷を見ている。
サキはスマホを手にしたまま、reの光点を何度も確認していた。
アデルは外周のそばに立ち、王都兵たちに指示を出す。
「帰還対象ではない者は、外周線の内側に入りすぎるな」
「支援位置を保て」
「現実側へ引かれそうになったら、すぐに下がれ」
王都兵たちが頷く。
ヴェルニはまだ座っている。
「俺も下がった方がいいか?」
アデルは即答した。
「お前はそもそも立つな」
「いや、真面目に聞いたんだが」
「真面目に答えている」
ヴェルニは頭をかいた。
「分かったよ」
ハレルはアデルを見る。
「アデルは最後まで残るのか?」
「副鍵で外周を支える必要がある」
アデルは言った。
「だが、帰還の瞬間には切り離す」
「私は現実側へは行かない」
サキが顔を上げる。
「危なくないの?」
「危ない」
アデルは正直に答える。
「だが、誰かが外から支えなければ、学園が戻る時に外周が崩れる」
ハレルは主鍵を握り直した。
「またアデルに無理をさせるのか」
アデルは少しだけ目を細めた。
「お前も無理をする」
「リオも無理をする」
「サキも泣きながら立っている」
「なら、私だけが安全な場所にいる理由はない」
ハレルは何も言えなかった。
リオが静かに言う。
「俺は、校舎側を支える」
ノノの声が入る。
『リオ、強く出しすぎないで』
『副鍵は傷ついてる』
『今回は“引っ張る”んじゃなくて、“線を保つ”だけ』
「分かってる」
リオは答えたが、声は少し硬い。
サキはそれに気づいた。
「リオ」
リオは、少しだけ顔を向ける。
サキは迷ったあと、小さく言った。
「ユナさんのこと?」
リオは黙った。
それだけで答えだった。
ハレルも、アデルも、声を出さなかった。
リオは副鍵を見たまま言った。
「学園が戻る」
「生徒も先生も戻る」
「俺たちも戻る」
少し間を置く。
「でも、姉さんは戻らない」
サキは何も言えなかった。
リオは続ける。
「分かってるんだ」
「今、医療棟から動かすのは危ない」
「学園帰還に巻き込んだら、もっと危ない」
「だから、置いていくんじゃない」
「順番を間違えないだけだって」
アデルが前に言った言葉だった。
リオは苦く笑う。
「でも、頭で分かってることと、胸が納得することは違うな」
ハレルは静かに言った。
「戻ったら、次はユナさんだ」
リオが顔を上げる。
ハレルは続けた。
「学園を戻して終わりじゃない」
「ユナさんを戻す方法も探す」
「父さんのことも、カシウスのことも」
「全部まだ終わってない」
リオはしばらくハレルを見ていた。
それから、短く言う。
「ああ」
サキも頷いた。
「ユナさんも、ちゃんと戻そう」
リオは少しだけ目を伏せた。
「頼む」
その声は、小さかった。
けれど、素直だった。
◆ ◆ ◆
【現実世界・旧学園跡地周辺/南西外周・朝】
南西外周の班は、さらに人員を増やしていた。
樹脂杭。
布紐。
手持ち式の光具。
地面に固定しすぎず、けれど線を途切れさせないように配置していく。
相馬班長は、隊員たちに声をかける。
「名前、現在位置、担当を確認しろ」
「佐久間、南西外周、光具担当」
「宮野、南西外周、布紐維持」
「相馬、南西一班、外周線監視」
声を重ねるたび、光具の揺れが少しだけ減る。
木崎が近づき、森の奥を見る。
「まだ嫌な感じはあるな」
相馬が答える。
「声は聞こえません」
「パイソンの時のような命令もありません」
「なら何が嫌なんだ」
相馬は少し言葉に迷った。
「自分の立っている場所が、ほんの少し違うような気がします」
木崎の表情が変わる。
「違う?」
「はい」
「南西外周にいると分かっているのに、一瞬、北側にいるような……」
「地図を見ればここなんですが、体の感覚だけがずれるような」
木崎は森を見た。
日下部が言っていた下層ノイズ。
場所に近い干渉。
それが、もう現場の人間にも影響し始めている。
木崎は無線を開いた。
『日下部、南西で位置感覚のずれが出ている』
日下部の声が返る。
『記録します』
『全員に、現在位置を声に出す確認を続けさせてください』
『場所の名前も一緒に』
木崎は頷いた。
「相馬」
「はい」
「南西外周にいることを、定期的に声に出せ」
「自分だけじゃなく、周りにも言わせろ」
相馬はすぐに部下たちへ向き直った。
「全員、確認!」
「ここは旧学園跡地、南西外周!」
「自分の名前と担当を言え!」
隊員たちが一斉に声を出す。
「佐久間、南西外周、光具担当!」
「宮野、南西外周、布紐維持!」
「相馬、南西一班、外周線監視!」
木崎も低く言った。
「木崎透」
「旧学園跡地、南西外周にいる」
その瞬間、足元の違和感が少しだけ薄れた。
木崎は息を吐く。
「効くのかよ」
無線越しに日下部が言った。
『効いています』
『位置感覚の揺れが少し下がりました』
木崎は森の奥を睨む。
「名前だけじゃなく、場所の名前も武器ってわけか」
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/医療棟・朝】
ユナは、ベッドの上で目を開けていた。
窓の外には、王都イルダの空が見える。
現実世界の空ではない。
それでも、昨日よりは少しだけ落ち着いて見えた。
イデールが椅子に座り、ユナの脈を見ている。
「気分は?」
ユナは少し考えてから答えた。
「少し、ぼんやりする」
「痛みは?」
「ない」
ユナは目を細める。
「でも……胸のあたりが、ざわざわする」
イデールは顔を上げる。
「胸?」
「うん」
ユナは天井を見る。
「誰かが、遠くへ行こうとしてる感じ」
イデールは黙った。
学園帰還が近い。
リオが現実へ戻ろうとしている。
ユナの体が、それをどこかで感じ取っているのかもしれない。
「涼は……?」
ユナが小さく聞いた。
イデールは正直に答える。
「今、学園を戻す準備をしてる」
ユナは、ゆっくり頷いた。
「帰るの?」
「うん」
「でも、あなたは今は動かさない」
ユナは少しだけ目を伏せる。
「置いていかれるの?」
イデールはすぐに首を振った。
「違う」
「今は動かさない方が安全だから」
「リオも、それを分かってる」
ユナは小さく笑った。
「無理してない?」
「してると思う」
ユナの目が少しだけ悲しそうになる。
「やっぱり」
イデールは、ユナの手元の布を直した。
「でも、一人じゃない」
「ハレルも、サキも、アデルもいる」
「みんなで戻す」
ユナは目を閉じた。
「じゃあ、伝えて」
「何を?」
「私は、待ってる」
ユナは静かに言った。
「だから、ちゃんと帰って」
「それから、迎えに来て」
イデールは、その言葉をゆっくり受け止めた。
「分かった」
ユナは安心したように息を吐いた。
また眠りに落ちる直前、彼女は小さく言った。
「涼は……昔から、待たせるのが苦手だから」
イデールは少しだけ笑った。
「そうみたいだね」
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/校庭・朝】
リオのイヤーカフに、イデールの声が届いた。
『リオ、聞こえる?』
リオはすぐに反応した。
「聞こえる」
『ユナの様子を見てきた』
『短い会話はできてる』
『今も意識はある』
『移動はまだ無理だけど、状態は悪化してない』
リオは息を吐いた。
「そうか」
『伝言がある』
リオの手が止まる。
『私は待ってる』
『だから、ちゃんと帰って』
『それから、迎えに来て』
リオは目を閉じた。
しばらく、何も言わなかった。
ハレルも、サキも、黙って待った。
リオは、ゆっくり目を開ける。
「分かった」
声が、少し震えていた。
「ちゃんと帰る」
「それから、迎えに行く」
イデールは短く答えた。
『伝えておく』
通信が切れる。
リオは副鍵に手を置いた。
「俺は、一ノ瀬涼」
「この校庭にいる」
「現実世界へ戻る対象」
「でも、戻ったら、ユナを迎えに行く」
その言葉に、副鍵の光が弱く、しかし確かに灯った。
ノノの声が入る。
『リオの副鍵、安定した』
『出力は低いけど、揺れが減った』
ハレルは小さく頷いた。
「よし」
サキも、スマホを握る。
画面の中のreが、ゆらゆらと揺れている。
サキは小さく言った。
「私も戻る」
「でも、レアの名前は置いていかない」
reの光が、ほんの少し明るくなった。
◆ ◆ ◆
【どこでもない層/さらに深い場所】
Cの声が、静かに響いた。
「分けましたね」
学園の輪郭の上に、いくつもの印が浮かんでいる。
戻すもの。
残すもの。
切り離すもの。
見失ってはいけないもの。
Cは、その最後の印に意識を向けた。
re。
小さな光点。
「分類できないものを、残しましたか」
カシウスの声が聞こえる。
「興味があるのかい」
「少し」
「レアの残滓だと思うかい」
Cはすぐには答えなかった。
深層に、小さな沈黙が落ちる。
「残滓なら、消えます」
「道なら、使われます」
「種なら、後で芽を出します」
ジャバが苛立った声を出す。
「何でもいいだろ」
「潰せばいい」
Cは穏やかに答える。
「潰す場所を、間違えてはいけません」
「また場所かよ」
「はい」
Cの声は優しい。
けれど、底が見えない。
「彼らは、戻るものと残すものを分けた」
「なら、次はその境目を揺らします」
カシウスが言う。
「学園帰還を始めさせる」
「はい」
「そして、途中でずらす」
「はい」
ジャバが笑う。
「ようやく俺の出番か」
「まだ本体ではありません」
Cは言った。
「獣影を使います」
「あなたの力に、私の番地を少しだけ混ぜます」
ジャバは少しだけ口元を上げた。
「面白くなるなら、それでいい」
Cは静かに告げる。
「次に彼らが戻り始めた時」
「校庭を殴りなさい」
ジャバが笑う。
「校庭を壊せばいいんだな」
「いいえ」
Cの声が、深く沈む。
「校庭を殴って、体育館を揺らします」
ジャバは一瞬黙り、それから楽しそうに笑った。
「最高じゃねえか」
Cの声は、どこまでも穏やかだった。
「では、待ちましょう」
「彼らが、帰るために動き出すのを」
◆ ◆ ◆
戻すもの。
残すもの。
切り離すもの。
見失ってはいけないもの。
ハレルたちは、それを一つずつ分けた。
生徒と教師は戻る。
学園は戻る。
ハレル、サキ、リオも戻る。
アデルたちは残る。
王都兵も、術師も、イルダの光具も残る。
ユナは、今は医療棟に残る。
そして、reは分類できないまま、サキのそばで揺れていた。
現実側では、旧学園跡地の外周が保たれている。
異世界側では、人の名前と場所の名前が結び直されている。
準備は進んでいた。
だが、深層ではCが待っている。
戻るものと残すものの境目を。
その境目が最も柔らかくなる瞬間を。
学園は、まだ戻っていない。
けれど、戻り始める時は近い。
3
橘靖竜
コメント
1件
すごく重くて、でも確かに前に進んでる回でしたね。 戻すもの、残すもの、切り離すもの——この「分ける」作業が一つひとつ丁寧に描かれていて、世界の境界線上に立たされている感覚がひしひしと伝わってきました。特にリオが「姉さんは戻らない」と口にしたところと、それでもユナさんから「待ってる」「迎えに来て」と伝言される場面の対比が胸に刺さりました。ちゃんと帰る決意が副鍵の安定に直結する構造も美しい。 そしてCの「校庭を殴って、体育館を揺らす」という不気味な確信。戻り始めるその瞬間を狙っている感じが、次が本当に怖いです。 すごくいい回でした。続き、気になります。