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#溺愛
#ハッピーエンド
眩い光に包まれ、重力も時間も消え去ったかのような浮遊感に身を任せた、次の瞬間。
鼻腔をくすぐったのは、魔王城の埃っぽい匂いでも、異世界の清涼な空気でもなかった。
それは、乾燥した微かな紙の匂いと、稼働し続けるコピー機の熱気。
そして──
異世界にいる間もずっと、私の記憶の拠り所となっていた
一ノ瀬部長が愛用するスパイシーで理知的な香水の香りだった。
「……っ、げほっ、ごほっ…ここ、は……」
「佐藤さん。帰還直後の第一声がそれですか。……バイタルチェック、異常なし。座標、現代日本・営業二課執務室。帰還プロジェクト、完遂です」
重い瞼をこじ開けると、そこには、異世界の甲冑を脱ぎ捨て
完璧に仕立てられた三ピーススーツを隙なく着こなした一ノ瀬部長が立っていた。
乱れた前髪を無造作に掻き上げながら私を見下ろすその姿は
騎士団長としての威厳はそのままに、私の知っている「鬼部長」そのものだった。
周りを見渡せば、時が止まったかのように静まり返った夜のオフィス。
どうやら、あちらで数ヶ月過ごした濃密な時間は
こちらの世界ではほんの一瞬の出来事に過ぎなかったらしい。
「部長…本当に、帰ってきたんですね。私たち、普通の……ただの上司と部下に……」
安堵と、それ以上の寂しさが混じった声を漏らした私の唇に
部長の細く長い人差し指がスッと当てられた。
「それは却下だと言ったはずですよ?ひより、貴女はゲートを潜る直前の私の言葉をもう忘れたのですか?」
「!…そ、そう、でした」
「私は、自分の言葉に二言はありません。一度出した決裁を翻すほど、私は無能ではないつもりですが」
部長は有無を言わせぬ足取りで、自分のデスクへと向かった。
そして、重厚な革の引き出しから
あらかじめ用意されていたかのように取り出したのは、一枚の「緑色の縁取り」がされた書類。
「……準備は万全です。あとは貴女のサインをいただくだけです」
机に叩きつけられたのは、異世界の羊皮紙ではなく、本物の、現代日本の『婚姻届』。
新郎の欄には、迷いのない、力強い筆致で『一ノ瀬 蓮』と署名されている。
「ぶ、部長、これ……本当に出すんですか? 会社の人たちに、なんて説明すれば……」
「周囲の言葉など、私の独占権の前では無価値なデータに過ぎません。いいですか、ひより」
部長がデスクを回り込み、呆然とする私の目の前で歩みを止めた。
彼はゆっくりと、祈りを捧げるかのように膝をつき、私の右手を取った。
その仕草は、異世界で騎士団長として跪いた時よりもずっと
一人の男としての誠実さと、剥き出しの熱情に満ちていた。
眼鏡の奥の瞳が、熱く私を絡め取る。
「異世界での数ヶ月、私は貴女という女性を失うリスクに、毎日心臓の工数を削り取られる思いでした」
「……もう、業務命令という盾は使いません。私は、佐藤ひより。貴女という女性を、生涯愛し抜くことを誓います」
「ですから───…私の隣という、世界で最も安全で、最も騒がしい特等席に、永遠に居座ってください」
「部長……っ」
「これは、私からの……人生最初で最後の、本気のプロポーズです」
銀縁眼鏡の奥、普段の冷静さからは考えられないほど微かに震える瞳を見て
私はもう、我慢できなかった。
溢れ出す涙をそのままに、私は震える手でペンを取り、彼の名前の隣に、自分の名前を書き込んだ。
『一ノ瀬』という姓を共に背負うための、人生で一番大切な、最終署名。
「……はい。…こんな私でもいいなら、喜んで…っ……部長も一生そばに居てくださいよ?」
「ええ……約束しましょう」
部長は立ち上がると、私を壊れ物のように大切に
けれど二度と誰の手にも渡さないという執念を込めて、強く抱きしめた。
重なる唇から伝わってくるのは、もう「偽装」でも「業務代行」でもない、本物の愛の熱。
オフィスの静寂の中で、二人の鼓動だけがリンクしていく。
数分後、余韻に浸る間もなく部長が時計を見た。
「……さて。一分一秒を惜しんで、最寄りの区役所へ向かいます。ひより、タクシーの配車は既に完了しています。ものの数十分で、私たちは法的に『夫婦』という関係になりますよ」
「ええっ、今すぐですか!?明日の仕事は!?」
「本日は既に有給休暇、およびハネムーン準備期間として処理済みです。……さあ、行きましょう。ひより」
異世界で魔王を倒した最強の騎士団長は
現代に戻っても、最高に過保護で独占欲の強い、私だけの旦那様。
私たちの物語は、ここからが本当の「最高に幸せなプロジェクト」の始まりなのだ。
◆◇◆◇
そうして数ヶ月後が過ぎた、ある日の朝───
一ノ瀬部長の、いや「一ノ瀬蓮」のマンションにて。
「……ひより、朝食の摂取効率が悪いです。口を開けなさい。ほら、あーんです」
「蓮さん、こんなことしてたら会社に遅刻しちゃいます……っ!」
二人の「終身契約」は、甘すぎるほどの過保護と共に、今日も絶好調に更新中だ。