テラーノベル
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夜の帳が街を包み始めたころ、君は静かにその店の前に立っていた。
——《Bar Melancholia》
黒地に金文字の看板は、まるで初めからそこにあったかのように、違和感なく馴染んでいる。けれど、今夜もやはり、周囲には店の気配すらない。
まるで、その存在自体が“見える者にしか見えない”かのような、異質な静けさ。
君は深く息を吸い、重たく、けれど確かに扉に手をかける。
カラン、カラン……ッ
扉に付けられた鈴が、ほのかに冷たい音を響かせた瞬間——
『あら、貴女が来たのね』
その声は、まるで時の底から浮かび上がってきたように、柔らかく、けれど胸の奥を叩くような力を持っていた。
カウンターの奥。薄明かりの中に浮かび上がるように、青い瞳の女が立っていた。
長い黒髪を流し、前回と変わらぬエレガントな佇まい。琥珀色のグラスを磨く指は、相変わらず静かで優雅だった。
「……そう仕向けたのは貴方でしょう」
君はそう答えながら、店内に足を踏み入れる。
やはり空気は重く、静かで、まるで水の底のようだった。前回と同じ席には誰もいない。それでも、なぜか誰かが“いた”ような気配が残っている。
女はにこりともせず、ただ君を見つめている。
「この店、貴方は一体誰なの?ここは普通じゃない」
「“普通”の定義が曖昧すぎるわ。ここはただ、必要な人が来る場所」
君が近づくと、女は手慣れた動作で赤いワインをグラスに注いだ。
「……ワイン、飲めるかしら?」
君は少しだけ笑みを浮かべて、頷く。
「ええ。今夜は、話すために来たから」
女は初めて、ほんのわずかに唇を緩めた。
「じゃあ、まずは乾杯しましょう。」
グラスが触れ合う、乾いた音。
その音が、ふたたび夜の底へと沈んでいった。
「太宰治とは、古い縁があるの?」
君の問いに、女はわずかに目を細めた。
「……さあ。彼が覚えているかどうかは、分からないけれど。でも貴方は覚えてるはずよ」
「私が……?」
「ええ。不思議ね。忘れたと思っても、心の奥には残ってる。気づけばまた、似た場所に戻ってくるの。たとえば——」
女はカウンターの奥に目をやる。
「こうして、誰かが扉を開けるみたいにね」
君の胸の奥で、何かがそっと脈打った。
まるで、太宰とこの場所、そしてこの女が、最初から深いところで繋がっていたかのように。
「……じゃあ、これは“始まり”なの? それとも、“続き”?」
「それを決めるのは、貴女自身よ。……でもひとつ、言えることがあるわ」
女はそっとグラスを君の前に差し出し、その瞳をまっすぐに重ねた。
「太宰治は、いつも“終わり”のような顔をしてるけど、本当は……誰よりも“始まり”を欲しがってる人」
その言葉は、夜よりも静かで、ワインよりも深かった。
そして君は、その一滴を、そっと口に含んだ——
コメント
3件
大人っぽい雰囲気で素敵ですっ✨️ (´。✪ω✪。 ` )尊敬しますっ~~!!