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Side 美緒
「健治、お迎えありがとう」
車に乗り込んだ私は、健治に笑いかけたが、上手く笑えていたか自信がない。
健治は、先週の土曜日の無断外泊の件もあるのに、昨日の金曜日も遅く帰って来たのだ。
それも、お酒の匂いだけじゃなく、甘い香水の匂いも漂わせていた。
今までなら、営業先の先生との付き合いで、女の子の居る店に行ったのだろう。っと、受け流していた事も、最近では疑惑の目でしか見れない。
健治と居る時間は、気が重い。
あんなに好きだったのに、今では一緒に居る事が、憂鬱な時間になるなんて、考えた事も無かった。
運転席に座る健治の様子をチラリと窺った。
前を向いて運転していた健治は、私の視線に気づいたのか、前を向いたまま照れたように笑う。
「なに、見つめてんの⁉」
その顔は私の知っている優しい健治だった。
「ううん、こうやって、健治の運転で出かけるのも久しぶりだなって思って」
「そうだな。最近出かけてないよなぁ。今度の連休の時にドライブがてら、近場の温泉にでも行く?」
急に誘われて、私は内心冷や汗ものだ。
正直な話、健治と旅行に行く気分じゃない。
「あっ、でも、ごめんね。ちょっと無理かも、ほら、おばあちゃんが入院しているから、休みの日ぐらいしかお見舞いに行けないし、落ち着いたらね」
「……そうだな。落ちついたら行こうな」
そう言って、健治は前を向いたまま、押し黙ってしまった。
私も窓の外へ視線を移し、移り行く景色を眺めた。
やがて、車はカーブを曲がり、緑原総合病院の敷地へと入ると、景色が大きく開ける。
丘陵を切り拓いた広大な敷地、その中心にそそり立つ緑原総合病院。
私は、野々宮果歩の綺麗に整った指先を思い出していた。
家政婦の居る家で、手を荒らす事もない暮らし。
自分のために時間とお金を使い、何もかも思い通りにして来た果歩。
私とは、比べ物にならない贅沢な生活を送っているはず。優しそうな旦那様だっている。
果歩の暮らしを羨む気は、さらさらないけど、十分すぎるほど、たくさんの物を手にしているように思う。
「はぁー、欲張りだなぁ」
気が付いたら声に出していて、健治に聞かれてしまったようだ。
「誰が欲張りだって?」
そんな風に聞かれても、野々宮果歩の事なんて、健治と話せる訳もない。
私は、不貞腐れたように言う。
「別に……。なんでもないの、ただのひとり言」
私の不機嫌を悟ったのか、健治は深く聴いては来なかった。
「そう……。お待たせ、到着したよ」
「運転お疲れさま」
車から降り立つと、目の前には大きな建物、そのエントランスに足を踏み入れた。
受付で面会名簿に記入する。入館カードを受け取る際に、祖母は個室から4人部屋に移ったのだと、病室の場所を教えてもらった。
監視体制の個室から4人部屋になったのは、順調に回復している証拠だ。
それを聞いた私は、ホッとして肩の力が抜ける。
「大部屋に移れて、良かったな」
と健治に言われ、大きくうなづいた。
「うん、安心した。今日は起きているといいな」
そう言うと、自然と笑顔になっていたみたいで、健治も嬉しそうに笑い返してきた。
「そうだな。おばあちゃんと話が出来たらいいな」
「うん……」
健治に優しくされて、私は、複雑な気分になる。
そう、基本、健治は優しい。だから、私はその優しさに目隠しされて、健治の浮気に気づかずに過ごしてしまったのだ。
でも、今は違和感を感じている。
長い廊下を歩き、508号室を見つけた。
ネームプレートを確認してから、コンコンとノックをする。
「失礼します。こんにちは」と声をかけ、病室に入ると右手の窓際のベッドに居る祖母を見つけた。
「おばあちゃん、もう、起き上がれるんだね」
「ああ、美緒ちゃん。来てくれたんだね。まあ、健治さんまで」
祖母は嬉しそうに目を細めた。
手術直後の状態に比べたら、お喋りも出来るし、ずいぶん調子がよさそうだ。
「こんにちは、顔色もよさそうで安心しました」
健治がお見舞いのブリザーブドフラワーを祖母へ手渡した。
「まあ、キレイね。ありがとう。心配させたわね」
「そうだよ。倒れたって聞いて、本当にびっくりしたんだから」
私の言葉に祖母は、ふふっと笑った。
「大丈夫よ。ほら、美緒ちゃんの赤ちゃん見るまで、おばあちゃんがんばるから」
思わず、ヒュッと息を吸い込んでしまう。
祖母にしてみれば、挨拶代わりのセリフだ。
でも私には、とても重い一言だった。
「美緒ともそろそろ子供の事を考えようって、相談しているんですよ」
私の気持ちなどお構いなしの健治の言葉。でも、それを本気にした祖母はパァッと顔を輝かせた。
「まあ、楽しみだわ。早く良い知らせを聞かせてちょうだいね」
祖母は、私に向って念を押してくる。
「う、うん。でも、子供って授かりものでしょう。それにおばあちゃんには長生きして欲しいから、ゆっくりでもいいよね」
今は健治との子供なんて考えられない私は、逃げ口上が口をつく。けれど、祖母には通じなかった。
「でもね、美緒ちゃん、子供を育てるのは体力勝負なのよ。産むなら早い方が絶対にいいわよ」
昭和生まれの祖母とは、考えや価値観が違うのはしょうがない。
祖母の時代、女性の幸せのイメージは、結婚して家庭を築き、子供を産み次の世代へ未来を繋げる事だった。
育って来た環境が違うのだから、強く否定など出来るはずも無かった。それに祖母を悲しませるような事は、言いたくない。
私が言葉に詰まっていると、タイミングよくノック音がする。
その音につられ、入口へと視線を移した。
すると、看護師さんと白衣を着た野々宮成明先生が、入ってきた。
午後の回診だ。
隣のベッドの患者さんの診察を終えると、祖母の番になる。
すると、健治の存在に気づいた野々宮先生が、目を丸くした。
健治は、直ぐに営業マンの顔で挨拶をする。
「野々宮先生、お世話になっております」
そのやり取りで、ふたりは面識があるのだと思った。
でも、不倫相手の夫を前の前にして、健治は普通の様子だ。
そして、野々宮先生はちょっと不思議そうな表情をする。
「菅生さん、今日はどうして?」
「今日は、妻の祖母がこちらにお世話になりまして、お見舞いに」
と、ふたりは普通に会話を始めた。私は予想外の出来事に考えが追いつかない。
なんで平気で話が出来るの!?
健治と野々村果歩との関係が現在進行形なのかは、今のところはっきりしていないけど、過去に二人が不倫関係にあったのは、紛れもない事実だ。
だって、私はこの目で二人がホテルから出て来るのを見たのだから。
野々宮先生は、健治と果歩が不倫をしていたのを知らないのだろうか?
もしも、知っているのなら、健治に怒ってもいいはずだし、慰謝料を請求する事だって出来る。それをしないという事は、やっぱり知らないと思った方が良いのかも知れない。
今だって、野々宮先生は、健治と談笑している。
「ああ、菅生さんの奥様が浅木さんのお孫さんなんですね」
そう言って、野々宮先生は祖母の方へ顔を向け、優しく話掛けた。
「浅木さん、今日は賑やかでいいですね」
「ええ、みんなが来てくれて、元気をもらいましたよ」
よほど嬉しかったのか、祖母はニコニコと終始笑顔だ。
そして、野々宮先生もニコニコと優しい笑顔を浮かべ、柔らかなトーンで祖母に話を続ける。
「浅木さん、良かったですね。術後の経過も順調ですよ」
私は、野々宮先生とふたりで話すチャンスを作りたいと考えていた。
祖母の診察を終えた野々宮先生は、他の患者さんの診察を始めた。
私は、ベッドの横にあるチェストを開け、祖母の荷物をチェックする。
「おばあちゃん、ティッシュが少なくなっているから、売店まで行ってくるね」
「あら、美緒ちゃんが買って来てくれるの?」
すると、健治が気をきかせて声を掛けてくれる。
「俺、行ってこようか?」
「他にも買いたい物があるから、私が行くよ。ごめんね、直ぐに戻るから」
私は健治の返事を待たずに病室から出て、廊下の少し離れた所で待機する。
そして、野々宮先生が回診を終えて病室から出てくると、あくまでも入院患者の家族の|体《てい》で声を掛けた。
「野々宮先生、すみません。質問をさせて頂きたい事がございまして、ご都合の良い時に少しお時間頂けますか?」
私にしては、ずいぶん思い切った行動だった。平気な顔をしているけれど、すごくドキドキしている。
三崎君から聞いた通り、野々宮先生が優しくて良い人だという事に賭けているのだ。
「浅木久恵さんの件ですね。来週の水曜日の午後で良ければ、お話できますよ」
「お忙しいのにすみません。ありがとうございます」
「いえ、経過も順調なので、退院後の事もお話するタイミングでした。では水曜日の午後に」
水曜日なら、半休も取りやすい曜日だ。
「はい、よろしくお願いします」
と返事をして私は野々宮先生との約束を取り付けた。
この後は、アリバイ作りのために売店まで、ティッシュを買いに行けなければならない。
エレベーターホールに行くと、1階にランプが付いたままで、エレベーターは動いていない様子だった。
病院のエレベーターは患者さん優先だ。特に、重篤な患者さんを移動させる時など慎重になるから、長くかかかる事がある。それなら、階段で下ってしまおうと、廊下奥の階段を下り始めた。
階段は|人気《ひとけ》がなく、少し薄暗い。その中をトン、トンと降り始めた。
すると、背中にドンッと強い衝撃を感じた瞬間、身体が宙に浮く。
「あっ!」と思った瞬間、反射的に振り返った。
ネイルが施された綺麗な指先を、視界の隅に捉える。
「私、押されたんだ」
そんなことを考えてしまった。
人間驚き過ぎると、悲鳴もでない。何故かまわりの景色がスローモーションのように、ゆっくりと見える。
頭を保護しなければと本能が働き、頭に腕を回してガードした。
バタバタと足音が遠ざかって行く。
私は、覚悟を決めてギュッと目を瞑る。
途端、背中から階段にぶつかった。ドンッという衝撃と共に、鈍い痛み感じ、息が詰まる。
「うっ!」
続いて、ドドドッと階段の上を転がり落ちて行く。打ち付ける痛みが続き、目の奥がチカチカした。
「もう、だ……め……」
踊り場まで落ちた私は、床の上に芋虫のように転がっていた。肺に空気を送り込もうと、必死で短い呼吸をしても、上手く息が吸えない。
脈動がドクドクと耳の奥で聴こえ、体中が痛かった。
「うっ、うぅ」
助けを呼ぼうとしても、声がでない。
だんだんと目の前が白く濁って、私は意識を手放した。
腐女子の栗