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月の雫

46 - 第46話 笑い声を上げることとずっと一緒にいることと完全に一つになったこと

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2024年07月22日

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 終わった後も、二人はまだ、裸のまま抱き合っていた。伸は、胸に顔をうずめた有希の髪の香りに包まれている。


 腕の中で、有希がつぶやいた。


「伸くん」


 返事の代わりに、伸は、有希の髪を撫でる。


「どういうことか、やっとわかったよ」


「うん?」


「あの疼きは、伸くんにしか鎮めることが出来ないんだって。それに……」


「それに?」


「すごく……」


「すごく?」



 すごく、どうだったのか答えてほしかったのに、有希は、伸の背中に回した腕にぎゅっと力を入れながら、全然関係のないことを言った。


「伸くんのお母さんの料理、すごくおいしいね」


 こんなときに、そんな話を……。伸は、がっかりしながら、それでも一応、話を合わせる。


「あのとき、店で何を食べたの?」


「オムカレーセットだよ」


「ふぅん」


 確か、人気のメニューだったはずだ。




 有希は、顔を上げて、無邪気に言った。


「伸くんは、お母さんの料理で何が好きなの?」


 伸は、即答する。


「俺は、ビーフシチュー」


「へぇ。それもおいしそうだね。食べてみたいな」


「今度、食べに行けばいい」


「うん。伸くんも一緒に行こう」



 そこで突然、伸は、あることを思い出した。


「そう言えば、今日はビーフシチューを作ろうと思っていたんだ」


 だが、それどころではなくなってしまった。


「えっ、そうなの? 伸くんのビーフシチューも食べたいな」


「いいけど、今日はもう無理だよ。時間をかけて煮込みたいし」


「そうか。明日、作る?」


「そうだな」


「じゃあ、明日また食べに来る。いい?」



 伸は、こらえきれなくなって笑い声を上げた。有希が、不思議そうに見ている。伸は、なおも笑いながら言った。


「別に頭がおかしくなったわけじゃない。ただ、あまりにも幸せ過ぎて、笑いが止まらなくて……」


 まさか、こういう展開になるとは思っていなかった。ほんの数時間前までは、自分は、もう二度と有希と会うこともなく、誰かと愛し合うこともなく、ずっと孤独なまま、テーマパークの片隅にある、お世辞にも流行っているとは言えないレストランで働き、何年かしたら、母のカフェを継ぎ、そのまま、地味に静かに年老いて行くだけの人生を送るのだとばかり思っていたのだ。



 伸につられたように、有希も、ふふっと笑った。


「僕も、すごく幸せ。伸くんと、ずっとずっと一緒にいたい」


「こんな、おじさんでいいのか?」


「だからぁ。伸くんは、おじさんじゃないったら。伸くんは、とってもチャーミングな、おにいさんだよ」


 大人げないと思いながら、伸は続ける。


「本当に、ずっと一緒にいてくれるのか? 君が大人になる頃には、俺は本当に、しょぼくれたおじさんになっていると思うけど」



 有希が、にやにやしながら言った。


「伸くんこそ、一生、僕と一緒にいたいと思っているの?」


「あ……」


 それは、さすがにずうずうしいだろうか。伸はともかく、有希には、これから先、もっと好きな相手が出来るかもしれない。だが。


「俺は、そう思っている。有希のことを愛しているから。その気持ちは、きっとこの先も変わらない。


 でも、俺がそう思っているだけだから、君は気にせず、好きにしていいんだ。もしもほかに……」



「もう!」


 有希が、再び、伸をぎゅっと抱きしめた。


「そういうときは、『四の五の言わず、一生、俺のそばにいろ』って言うんだよ。そしたら僕が、『はい』って答えるから。


 ねぇ、言ってみて」


 やっぱりまた、有希のペースになっている。そう思いながらも、伸は、言われた通りにする。


「四の五の言わず、一生、俺のそばにいろ」


「……はい。一生、僕をそばに置いてください」



 体中が、かっと熱くなる。何か気の利いた言葉を返したいと思うが、何も出て来ない。こんなに幸せなことが、ほかにあるだろうか。


 もちろん、人の心が移ろいやすいものだということは承知している。有希も、今はこんなふうに言っていても、いつか、伸に対する気持ちが冷めるときが来るかもしれない。


 だが、それでかまわない。たとえ有希が自分のもとから去るときが来たとしても、今、この瞬間の幸せな記憶があれば、それだけで生きて行ける。


 今までだって、自分は、そんなふうにして生きて来たのだから。



 感慨にふけっていると、腕の中で有希がつぶやいた。


「伸くん」


「……うん?」


「これからもまた、体の奥が疼いてどうしようもなくなったら、伸くんに鎮めてほしい」


「あぁ」


「そうなったときは、何度でも」


「あぁ」


 有希がそうなっているときは、きっと自分の体も同じようになっていることだろう。伸の痛いほどの疼きも、有希と一つになることでしか、鎮めることが出来ない。



「あのね」


 有希が、顔を上げて、伸を見つめた。頬が上気している。


「さっき鎮めてもらったばっかりなのに、また……」


 伸の体も、先ほどから疼き始めている。


「わかった」


 今度こそは、大人の男らしく、自分のペースで。そう思いながら、有希をあお向けにさせて組み敷く。



 されるままになって、潤んだ瞳で伸を見上げる有希の、なんと美しく、なまめかしいことか。伸は、遠い記憶をたどる。初めて行彦と、こんなふうに見つめ合った日のことを。


 有希は、墓地で倒れたとき、自分の中から行彦が抜け出たのだろうと言った。だが、伸は思うのだ。


 あのとき、行彦は、有希の体から出て行ったのではなく、完全に同化したのではないかと。行彦と有希は、完全に一つになった。伸と愛し合うために。


 伸は、愛しい恋人の名を呼ぶ。


「ユウ」(終)

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