その日は薄曇りの夜だった。ハルとクロエは街を歩きながら、どこか浮き足立った気分だった。
「今日は、ちょっと見せたい場所があるんだ」
クロエがつぶやく。
「見せたい場所?」
「うん。昨日あんたが泣いたの覚えてるでしょ?」
「……覚えてる」
「だったら、もっと大きな世界を見せたい」
クロエが向かうのは、古びたライブハウス。
外観は地味で、通り過ぎれば気づかないほど。
でも夜になるとネオンが淡く光り、どこか人を引き寄せる不思議な力を持っていた。
「ここはね、プロもアマも関係ない。音楽が好きなら、誰でもステージに立てるんだ」
「誰でも……?」
「そう。だから、あんたも弾いてみなよ」
ハルは少し戸惑った。
昨日のコードすらろくに弾けなかった自分が、こんな場所で音を出せるのか――。
でもクロエの瞳には、まるで約束のように強い光が宿っていた。
> 「行こう……」
二人は扉を押し開けた。
中はざわめきと熱気で満ち、スピーカーから低音が腹に響く。
煙草の香りとビールの匂いが混ざり合い、照明がステージを照らしている。
ハルの胸は高鳴り、手のひらは汗ばんだ。
ステージでは若いバンドが演奏中。
荒削りな音だったが、楽しそうに歌い、観客も熱狂している。
クロエはステージの端でギターを抱え、じっと見つめた。
「行くよ。観客なんか気にしない。魂で音を出すんだ」
クロエの言葉に、ハルは覚悟を決めた。
握りしめたギターの感触が、震える手に力を与える。
ライブハウスの裏口から、湿った夜風が吹き込んできた。
ステージを降りたばかりのハルとクロエは、汗で濡れたシャツを扇ぎながら、路地の隅に腰を下ろしていた。
「悪くなかったな」
クロエがタバコに火をつける。
「え、俺の演奏?」
「うん。コード間違えたとこも、ビビってるのもバレバレだったけど」
「……やっぱり」
「でもな、それが良かったんだよ」
煙を吐きながらクロエは笑った。
「必死に食らいつく顔。観客はああいうのに燃えるんだ」
ハルは耳まで赤くなった。
彼女と演奏すると、不安も恥も全部さらけ出せる気がした。
「よし。次はもっとでかい場所でやろう」
「もっとでかいって……」
「行くぞ、バーだ」
クロエは立ち上がり、ギターケースを肩に担いだ。
彼女の歩く先は、ネオンがまたたく繁華街だった。
バーの扉を開けた瞬間、ざわめきが止んだ。
照明の落ちたフロア、タバコとアルコールの匂い。
カウンターには筋肉の塊のような男が座っていた。
ハルの心臓が一気に跳ね上がる。
「……マッド」
あのパーティの夜、自分を笑いものにした男。
アメフト部のスター。街ではちょっとした有名人。
「よう、新入り」
マッドが振り返り、口の端を上げた。
「まだこの街にいたのか。負け犬みたいな顔で」
取り巻きの笑い声。
あの日と同じ。いや、それ以上にハルを萎縮させる空気。
身体が固まった。声が出ない。
ただ、あの時の惨めな記憶がよみがえる。
そのとき、クロエが前に出た。
ハルを背にかばうように。
「やめなよ」
声は静かだった。
だが、凍りつくような鋭さを帯びていた。
マッドが眉をひそめる。
「なんだよ、女。口出すな」
「笑えない冗談だね」
クロエはタバコをくわえ直し、灰を落とした。
「他人を笑って強くなった気になるのは、ただの弱虫のやることだよ」
店内が一瞬、しんと静まり返った。
ハルの胸に衝撃が走る。
誰も言えなかった言葉を、クロエは迷いなく突きつけた。
マッドの拳がわずかに震えた。
怒りか、それとも動揺か。
「てめぇ……」
「やる? だったらここじゃなく、ステージでやろうよ」
クロエは挑発するように目を細めた。
「音楽でなら、誰にも負けない」
マッドは言葉を失い、椅子を蹴って立ち上がった。
だが、そのまま無言で扉を押し開けて出て行った。
取り巻きたちも追いかけるように消える。
残された沈黙。
クロエは何事もなかったように煙を吐いた。
「……大丈夫?」
「クロエ……」
ハルの声は震えていた。
彼女は肩をすくめる。
「別に助けたわけじゃないよ。ああいう奴、昔から大嫌いなんだ」
そう言いながらも、クロエの横顔はどこか柔らかかった。
夜の光に照らされたその表情に、ハルは胸が熱くなる。
初めてだった。
誰かが自分を守ってくれたこと。
その守り方が、あまりに強く、美しかった。
帰り道、ハルは思わず口を開いた。
「……俺、もっと強くなりたい」
クロエがちらりと見て、片方の口角を上げた。
「強さは筋肉じゃない。自分を守れること。そして、大事な奴を守れること」
ハルはその言葉を胸に刻んだ。
クロエの背中を追いかけながら。
その背中からは、青い蝶が飛び立つ幻が見えた気がした。