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辿り着いた二十階層。
放棄された騎士団の拠点には貯水槽が残されていた。
レジーナは浄化した水を皆に配り始めた。
クロードは部屋の隅の椅子に腰を下ろし、彼女の一挙手一投足を見守る。
不意に、近づく気配があった。
クロードが顔を向けると同時、隣の椅子にエリカが腰を下ろす。
「レジーナ様を見てらっしゃるんですか?」
クロードは無言で頷き、彼女に視線を戻す。
隣で、エリカが声を上げる。先程もよりも僅かに大きく、僅かに固い声――
「レジーナ様とリオネルは婚約していたんですよ!」
まさにその瞬間、レジーナがリオネルに飲み物を手渡した。
クロードの胸に一瞬、何かしらの感情が湧く。
怒りか悲しみか。
とうの昔に失くしたはずの冷たい何かがクロードの心臓に触れた。
エリカが嬉々として告げる。
「ほら、見てください。今もああやって、よくお話もされてて。あの二人の間には、他の人には入り込めない空気があるんです」
リオネルがレジーナに何かを言った。
レジーナは表情を変えぬまま答える。それから、右手を開いてヒラヒラと振ってみせた。
「リオネルは優しいですから、ずっとレジーナ様の怪我を心配していたんです」
レジーナがリオネルの側を離れる。
男の視線が離れていく彼女を追った。
「……ひょっとしたら、レジーナ様はまだリオネルをお好きなのかもしれません」
クロードの耳に、エリカの言葉がぼんやり流れていく。
やがて、水を配り終えたレジーナがこちらを振り向いた。途端、彼女は怯んだ様子を見せる。エリカを見て視線を泳がせ、部屋の反対へ行ってしまった。
クロードは立ち上がり、レジーナの後を追う。
「あ! クロード様、待ってください。お話がまだ……!」
エリカに呼び止められた。
クロードは気にせず部屋を横切り、レジーナの側へ向かう。
部屋の隅。他の皆から離れた場所に積まれた木箱に腰を下ろすレジーナ。
クロードは彼女の前に立ち、見下ろした。
レジーナが冷めた顔で見上げてくる。
それから、背後を見て嫌そうに顔を顰めた。
「クロード様! もう、待ってください。お話がまだ!」
エリカの声に、レジーナがフイと顔を逸らす。
「……静かにして。話をするなら、あっちでしてきて」
「ない」
クロードは即答する。
エリカが、レジーナを見下ろした。
「レジーナ様の好きな人の話をしていたんですよ?」
「……何ですって?」
不機嫌な声。
レジーナがエリカを睨む。
エリカは楽し気に続けた。
「レジーナ様はまだリオネルのことがお好きなのではないかと――」
「馬鹿なこと言わないで。そんなはずないでしょう」
きつく言い放ったレジーナ。
赤い瞳が僅かに揺れている。
クロードと目が合うと、レジーナはそっと瞳を伏せた。
「……くだらないことを言っていないで。あなたもさっさと休憩したらどう?」
エリカは「すみません」と答える。しかし、その場を動こうとはしない。代わりに、「ああ、それとも」と声を潜めた。
「レジーナ様のお好きなのは、シリルくんでしょうか?」
「……くだらない」
レジーナは切って捨て、身体の向きを返る。エリカを視界から追い出し、目を閉じた。
エリカが、クロードの名を呼ぶが、振り返らない。
クロードはレジーナの瞳が見たくて、その横顔をじっと見つめていた。
「……私、ずっと考えていたんですけど」
焦れたように、エリカが言う。
レジーナの拒絶を気にする様子はない。
クロードは振り返り、部屋の中央に視線を向ける。
ずっとこちらを伺っている瞳。
リオネルと目があったクロードは、目線で彼を呼んだ。
――エリカを連れて行け。
伝わったわけではないだろう。
しかし、彼は立ち上がり、こちらへ向かってくる。
近づいた彼は、クロードを不快げに一瞥した後、エリカの肩に手をおく。
「エリカ。必要以上に、彼らと馴れ合う必要はない。向こうへ――」
「待って! 一つだけ、どうしてもレジーナ様に確かめたいことがあるの」
「お願い」と両手を合わせたエリカ。
リオネルが躊躇う隙に、レジーナに問いかけた。
「あの時、どうして、レジーナ様は私の指輪を盗ろうとしたんですか?」
「……言ったはずよ。そんなつもりはなかった」
「でも、私、思い出したんです。以前にも同じようなことがあったなぁって……」
エリカはクロードを見上げた。
「実は、シリルくんにもらったブレスレットをレジーナ様に捨てられたことがあって」
「違う! あれは……っ」
咄嗟に、レジーナが反論する。しかし、続く言葉は呑み込んだ。
言葉に迷う彼女に、エリカが「ですから」と告げる。
「今回の指輪も。シリルくんの贈り物と知って、嫉妬から奪おうと――」
それ以上を聞いていられず、クロードはレジーナに歩み寄る。
彼女の身体を横抱きに抱き上げた。
「ク、クロード!?」
(部屋で休んだ方が良い)
先程からひどい顔色。抵抗する力も弱い。
その抵抗を「本気でない」と判断し、クロードは歩き出す。
彼女を個室に運ぶつもりだった。
その歩みを、エリカが止める。彼女の指先がクロードの腕に触れた。
「クロード様、お部屋に行かれるのでしたら、先に治療をさせてください」
「必要ない」
「怪我をしたまでは危険です。レジーナ様を落とされでもしたら……」
何度目か分からぬエリカの申し出。
既に不要と断った。サンドワームの牙はクロードの皮膚一枚、傷つけていない。
立ち去ろうとしたクロードを、フリッツが呼び止める。
彼は苛立たし気に自身の髪をかき上げた。
「俺を庇った傷だ。そのままにされては寝覚めが悪い。……万一ということもある、一度エリカにきちんと診てもらえ」
どうやら、彼は庇われたことが気に掛かるらしい。
クロードは、例え怪我を負おうと気にはしないのだが――
「……クロード様、私も以前、大怪我を負ったことがあります」
腕に乗せられたエリカの手が、クロードの腕をキュッと握る。
腕の中で、レジーナが身体を強張らせるのが伝わった。
エリカが俯きがちに続ける。
「大きな怪我でも、身体が興奮して気づかないことがあります。後から、その怪我に苦しめられることも……」
黒の瞳が潤む。
理由は分からぬが、何かを恐れ、懇願せんばかりの姿。
エリカの手が、クロードの腕をヒシと掴む。
「クロード様が心配なのです! ですから、どうか……」
必死な彼女に、しかし、クロードは首を横に振った。
「不要だ。必要であれば、レジーナに頼む」
「え……」
エリカが瞳を見開く。「どうして」と声を震わせた。
フリッツが「いい加減にしろ」と立ち上がる。
「その女に命じられてるのか知らんが、さっさとエリカに治してもらえ。治癒の腕はエリカの方が遥かに上だ」
クロードはもう一度、首を横に振った。エリカの手を振り落とし、歩き出した。
背後から、フリッツの怒声が聞こえる。
「クロード! お前はその女の本性を知らんのだ!」
瞬間、腕の中のレジーナがビクリと震えた。
背後では、アロイスがフリッツを諫めている。
「フリッツ、君が熱くなってどうする。落ち着け」
「お前は黙っていろ。おい、クロード!」
クロードは振り返る。
フリッツの怒りに満ちた瞳。
彼の指先がレジーナを差す。
「さっき、エリカが言った大怪我ってのはな、その女のせいなんだよ! そいつは、エリカを階段から突き落としやがった!」
クロードは腕の中を見下ろす。
青ざめた顔のレジーナが、震える口を開いた。
「……違います。私はエリカを傷つけるようなことはしていません」
か細い声。それでも、はっきりと否定した。
フリッツが益々いきり立つ。
「違わんだろうが!? 証人は大勢いる!」
レジーナは目を閉じ、フルフルと首を横に振った。
怯えきった姿。
クロードは後悔した。
さっさとこの場を去るべきだった――
レジーナを抱く腕に力を込める。
――心配ない。
音にならない言葉で伝え、クロードはその場を後にした。