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kurara
10,190
────八月十四日。
午前十時。課題に専念するため図書館へ足を運んで30分程が経った頃。
館内は静けさに包まれていて、聞こえるのは誰かが本のページを捲る音とシャーペンが紙の上を滑る音くらい。
周りには所々人が居るけど空席も多い。学生らしき人が数人とその他諸々。
肌を蝕むような気温もここには届かないから快適だ。
それに、少しだけ埃っぽいこの空間は意外と嫌いじゃない。
視線で問題文をなぞって解答を書き記す。
部屋に居る時よりも効果はあるようで。
意外とペンの進みが早く、思っていたよりも時間を使わずに終わりそうだった。
とりあえずキリの良い所まで解き終えて一度ペンを置いた。椅子の背にもたれて小さく息を吐く。
我ながら良いペース。少しだけ休憩でもしようか。
顔を上げて辺りを見渡せば、すぐ近くに幾つか興味のありそうな題材の本棚が。
椅子を立って本棚の前に視線を向ける。適当にその内の一冊へ手を伸ばした。
手を伸ばした先の本を取るより前。反対側に居た誰かの指が触れた。
少女漫画か、と言いたくなる程完璧なシチュエーション。自分でも驚いた。そして相手も驚いている。
「…え!…元貴……!?」
周りを気にしたのか、慌てて声のボリュームを落とす若井。
本を取ろうとしていた手を引いて若井は心底驚いたように目を瞬かせた。
「…びっくりした、なんでいんの?」
「いやこっちのセリフだけど」
触れた指の体温を思い出してしまう。反対側の手で無意識にその手を握り込んだ。
たった一瞬の接触、それも偶然の。
こんな偶然がもう一度あればいいのに、なんて考えてしまう自分を馬鹿らしく思う。
にしても。まさかこんな所で、こんなタイミングで出会うとは。
そういえば中学生の時もこんなことがあったっけ。
夏休みが始まったばかりの頃に課題で使うワークを忘れて、取りに行って。そしたら同じ状況の若井に会って。
約束もしていない日に偶然会えた。たったそれだけの事がやけに嬉しかった記憶。
いや、記憶だけじゃないかも。
嬉しいのは今この瞬間も。
その声を聞けただけで、その姿を見れただけで、今日ここに来た意味がひとつ増えたような気さえする。
自然と緩んだ口元を隠すように、先程座っていた机へ視線を落とした。開いたままのノートに置かれたシャーペン。
それに気付いた若井も同じように目を向けた。
「勉強してた?」
「まぁね。こっちのが集中出来そうだったから」
ノートの文字を視線でなぞっていた若井が不意に隣の椅子を引いた。
座って此方を見上げる若井と視線を交わし、一拍。
「……戻らないんだ?」
問い掛けの形で聞いてみたけど、実の所は戻らないでくれるんだ、という確認。
「うん、見てる。」
若井は机に置いてあったシャーペンを手の中で回しながら笑った。
同じように元々座っていたその席に腰を下ろす。
若井とこの場所で時間を過ごせることが少しだけ課題のやる気を出させたり。
シャーペンを取り返してノートに向き直った。
問題を解いていきながら若井と他愛もない会話を続ける。
「若井はなんでここ来たの。勉強じゃないよね。絶対ね。」
こいつがわざわざ勉強しに来るとは思えない。
若井は小さく肩を竦めて笑った。
「ひどっ。俺だってやる時はやるのに」
「じゃあ勉強?」
「いや、部屋のエアコン壊れて業者来てるから。」
「勉強じゃないじゃん」
「まぁね」
いつものテンポの会話。若井はいつも通り楽しそうに笑う。
その柔らかい笑顔を視界の端で捉えてしまって手の動きが一瞬止まった。
慣れない。何回見ても、どれだけ一緒にいても。
この笑顔を見ると胸のずっと奥の方をぎゅっと掴まれたような感覚になる。
それを悟られたくなくて何事も無かったかのようにペンを進めるけど、頬に残る熱がそれを裏切る。
暑いから、なんて言い訳を心の内で呟いた。
それから十数分。相変わらず勉強は続いている。
若井も隣に座ったまま今は本を読んでいた。
横目でその様子を見てからまた課題のテキストに視線を落とす。
が、一向に集中できない。
シャーペンが意味もなくノートの端を叩いて、無意識に指先に力が入って。
伏せられた目、垂れた前髪。静かな横顔はいつもと違った印象を受ける。
騒音のない空間に落ちるのは紙を捲る音だけ。
その音がやけに耳につく。
俺、こんなだったっけ。
無自覚に目で追って気付いたらまた別の表情を知って。その度にまた知りたくなる、なんて。
らしくない事なんてもっと沢山ある。
柄でもないこと感じるくらい、溺れてる。
気付けばペンは止まっていて、視線はノートに落ちていなくて。
若井のことを見ていた。
目を逸らす前に顔を上げた若井と視線がぶつかって一瞬瞬きが遅れる。
数秒互いに視線を交えた後。
何か言うわけでもなく、小さく笑った若井の指先がペンを持つ方の手に触れた。
ちょん、とつつくような軽いもの。
それに深い意味はない。目が合ったから。
だけど、目が合っただけでこんな笑顔を向けて、こんなことしてくる彼のことが。
どうしようもないくらいに、好きだと思った。
益々集中出来無くなってしまったけど、今は少しだけ。
もう少しだけ、こんな時間を過ごしていたい。
コメント
5件
微笑ましくて尊くてニヤニヤしちゃうのに、もどかしくて何だか儚くて、、、文章を読んでいてこんなにも情景が鮮明に浮かぶのは本当に凄いです!

図書館というところからまず好きです。 少女漫画みたいなシチュエーションも、いちさんが書くと、まるで新しいものを見ているようです。 夏の綺麗な恋を、こんな素敵に書けるいちさんを本当に尊敬します❣️
図書館の静けさと埃っぽい空気、ペンが紙を滑る音――その空間描写だけで引き込まれました。あの「少女漫画か、と言いたくなる」メタ視点、好きです。何より、無意識に緩む口元を隠そうとする元貴の心情描写が繊細で、こちらまで胸がぎゅっとなりました。偶然の再会が日常を特別に変えていく、その甘やかさがじんわりと沁みます。素敵なエピソードをありがとうございました。