『トロンにありしもの、すべて徴兵する』
唐突に発布されたこのお触れは当初、冗談だと思われた。
第一城壁を守るアルト門の前で人々はこう口にする。
あのお優しいアベル王子がそんな滅茶苦茶なことをするわけがない。
きっと誤報か、誰かのいたずらだろう。
ランバルドとの和平は結ばれ停戦条件も満たされた。今更兵を集めたところでどこを攻めるのか。
ざわつく人々の前に兵士たちが厳かに門をくぐると、不在城の使用人が書状を読み上げる。
「フリージアの第三王子、冷たき氷の君たるアベル・フリギア王太子殿下のお言葉を告げる!」
老境に差し掛かった執事がいかめしい顔をしてこれまで聞いたこともないことを言った。
普段は穏やかで優しい、たまに市で花を買って帰ることもある、あの執事がである。
「ランバルドとの和平は、未だ結ばれていない! よって、これよりランバルドの防人たるガヌロン・ヴィドール公に宣戦を布告する!!」
それもよりにもよって、ヴィドール家。
先日アベルと結婚したはずの令嬢の実家である。
これは一体、どういうことなのか。
「アンナ様は、アンナ様はどうなるのですか!」
そうだ、令嬢ちゃんはどうなる。あんなに仲良くしていたじゃないか。見損なったぞアベル! ガヌロンは令嬢ちゃんのお父さんなのよ! 俺達を騙していたのか!
混乱する民の前で執事が毅然として言い返した。
「王太子殿下と婚約された令嬢はフェーデ・ヴィドール! 十歳の少女である! 停戦条件を満たせぬ子供を送りつける、これはフリージアへの侮辱であり停戦の拒絶に他ならない!」
元軍人らしい檄を飛ばしながら、執事が続ける。
「そればかりかトロンが隆盛となると、ガヌロン公は姉のアンナ・ヴィドールを連れ立ってこう言われた『娘を間違えて送った。この姉妹を交換して、事を収めようではないか』と。そのような、そのようなことがあるか!! 自身の娘を、間違えるなど!!」
「約束を違え、フリージアの信頼を踏みにじった罪は重い! よって、ここに罰を下す!! トロンに住むすべての民よ、武器を手にし兵役に就くがいい!!」
民はようやく本当の意味で、ここが辺境城塞都市トロンであるということに気づいた。
どれだけ交易が盛んになっても、ここは首都ではない。国境に近く、いざ戦争が始まれば真っ先に前線になる土地。外敵を拒絶する二重の城壁は飾りではないのだ。
王子は影で多くの屈辱に耐えながら、それと気づかれぬように笑っていた。
停戦条約を拒絶されても、まだ結婚できない娘を差し向けられても怒らなかった。
それどころか、あの幼い令嬢の境遇に共感し心を重ねていたのだろう。アベルの溺愛ぶりを見ればわかる。
あの令嬢が書いた劇が事実ならば、ヴィドール家を滅ぼすことにも躊躇はないだろう。むしろ、あの劇はそのための伏線だったのかもしれない。
「で、ですが。そのようなことをすれば戦争が再開されます」
「アベル様は停戦のために尽力されたお方、なぜ今になって」
民の言葉に執事は「もう決まったことだ」と返した。
アベルの心情は理解できる。
だが、これは暴走だ。
一度、開戦すればその影響はトロンとヴィドール領ではおさまらない、ランバルドとフリージアの戦いになるだろう。
愛のために俺達に殺し合いをしろというのか。
「アベル様はご寛大だ! 三日の猶予を与える! 戦いを拒む者、弱き者はトロンより去れ!!」
後の歴史家にアベル王子最大の失政と呼ばれるこの政策は、トロン全域に甚大な影響をもたらした。
徴兵対象がすべてである以上、女子供も兵役に就くことになる。高額な人頭税を支払って兵役を免除していた金持ちだけが優遇される形だ。
トロンの大多数の人々はここでようやく金持ちが特別扱いされていることに気づいた。
さらにこの徴兵には原則として拒否権がない。嫌なら出て行く他ないのだ。
金持ちたちは胸をなで下ろしたが、内心で冷や汗をかくことになる。ランバルドの反撃を受けてトロンが戦場となれば、呑気にしている場合ではない。命あっての物種なのだ死んでは元も子もない。
人口の増加によってゴミが増え、犯罪が増え、衛生は悪化したが、人々はそれもまた繁栄の証だと受け入れていた。大きな不満はなかったのである。ただそのまま、何もしないでいてくれればよかったのに、なんということをしてくれたのか。
最近爆発的に増加したトロンの人口のほとんどは、戦争が終わり、平和な世界がやってくると信じてトロンに流入した者たちである。
その中にはランバルド出身の者も数多くいた。
安全だと思っていた場所が一瞬にして敵地になったのだから、逃げ出すのは必然である。
トロンに集結し経済を支えた者たちが、まるで蜘蛛の子を散らすようにトロンから脱出していく。
人口の激減、経済への打撃、信用の悪化、ランバルドとの敵対。
平和を望む母国フリージアからすれば裏切りである。
ここまで大きな被害を出して強権を振るったというのに、実際に徴兵できた人数は目標の半分にも達しなかったのではないかと言われている。
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