「あ、ら…来てたの」
怒ればいいのか問い詰めればいいのかわからなくて、間の抜けた返事をしてしまった。
「すいませんでしたぁーーっ!!」
いきなりソファの前に土下座をする健二。
「え?ちょっと、待って、ね。綾菜は?」
キッチンを振り返ると、ダイニングの椅子に座って腕組みをしているのが見えた。
こちらは見ていない。
「ほんの出来心で、一度だけの遊びなんです!酔った勢いでつい…」
「酔った勢いでやっちゃったの?寝言で名前言うくらいなんだから、一度だけって嘘じゃないの?」
「いいえ、誓ってそんなことはありません!僕は綾菜と翔太を愛しています、だから!」
土下座したまま、話し続ける健二を観察する。
嘘をついてるか本心か見極めるために。
「もう絶対しません、だから許してください!」
まだ頭を上げない。
「謝る相手が違うでしょ?綾菜が許すかどうか?なんだから」
「とうちゃん、ごめんしたの?」
翔太が私の腕をつかんで聞いてきた。
翔太には、私がお父さんを怒ってるように見えるんだろうな。
「ちょっといい加減に頭を上げて。翔太も見てるんだから、もうそんなことやめて」
「えっ、じゃあ…許してくれるんですか?」
顔を上げてうれしそうに言う。
「あのね、さっきから言ってるでしょ?私じゃないでしょ!夫婦の問題なんだから夫婦で解決しなさい。綾菜はどうなの?これからどうするの?」
健二も綾菜を見る。
「まだ許せない、だからしばらくここにいさせて」
あっちを向いたまま、低い声で綾菜が言う。
「おかぁちゃん、おこってるの?」
翔太が、泣きそうな声を出した。
「大丈夫だよ、翔太、おかぁちゃんは怒ってないよ、少し元気がないだけだからね。今日はばぁばのおうちでねんねしようね」
翔太を抱っこした。
「そういうことだから、健二君、今日は帰ってくれる?綾菜と翔太はうちに泊めるから」
「は…はい、わかりました。じゃあ今夜は帰ります。また明日、迎えに来ますから」
すくっと立ち上がると、そそくさと帰って行った。
玄関のドアがバタンと閉まる音がして、健二が帰って行ったことを確認した綾菜。
「どうだった?お母さん、健二の言ったこと、信じられる?嘘じゃないかな?」
「えーっ、お母さんにそれ聞くの?夫婦なんだから、綾菜のほうがわかるでしょ?」
よっこらしょと翔太をおろす。
「わからないんだよね…、こんなこと初めてだし。で、あんなふうにマジで謝られたのも初めてだし。だから、あれがアイツの本心かなんてわからなくて。だから、お母さんにも
アイツと話して欲しくて待ってたの」
正直言って、わからなかった。
でも…、とさっきの洋子の話を思い出す。
『浮気ならまだ許せる、仕返しだってできる』
そうかもしれない。
それにまだ小さい翔太を抱えて離婚したら、綾菜が苦労するのは目に見えてる。
私がした思いを綾菜にはさせたくない。
「お母さんにもわからなかった。でも、初めてなんでしょ?こんなこと」
「浮気?」
「そう。相手の女にお金を貢いでる様子はないの?」
「家計は私が全部預かってて、アイツの小遣いは昼ごはん込みで月3万しか渡してないから、それはないと思うよ」
お茶でも淹れるね、と綾菜が立ち上がった。
「おかぁちゃん、おなかすいた」
翔太が綾菜の足にしがみついていた。
やっぱり、母親は大事なんだよね。
こんな小さい子を預けて働きに出るとか、そんなことをしたら可哀想だと思った。
「はいはい、ごはんにしようね、翔太の好きなカレーだよ」
「わぁー、ばぁば、たべようよ」
「うん、食べようね。綾菜、この話はこの子が寝てからにしよう」
「ん、そうだね」
翔太も食べられる辛さのカレーは、優しい味で心にも染み込んだ。
私は綾菜に、こんなふうに優しい料理を作ってあげたことあったかな?
我が娘ながら、きちんと母親してるなぁと感心する。
私は母親としては失格だと思う。
きちんと育てたという記憶がない。
愛情を注いだという記憶もない。
どちらかというと綾菜のことを、疎ましく思っていた。
望んでできた子どもじゃなかったからか、それとも私が自分の親に愛された記憶がなかったからか。
それでも、この子は特に悪い道にそれることもなく、普通に結婚して立派に妻と母親をこなしていると思う。
だからこそ、幸せになって欲しいと願っている。
「やっぱりさ、家に帰りなさい。健二君を信じてみたら?離婚なんて簡単にするもんじゃないよ、翔太のためにもさ」
スヤスヤと寝息を立てている翔太の頭を撫でながら話す。
「離婚経験者に言われたか…。でも、もしもね、もしもまたこんなことがあったら?」
「その時はね、あんたも浮気して仕返しすればいいわ、もっといい男見つけてね」
「はぁ?そんなこと言うの?信じらんないんだけど」
「冗談だよ、でもさ、それくらいの気持ちでいれば気が楽になると思うよ。今回は初犯だから執行猶予付きってことだね」
「あはは、執行猶予ね、わかった。そう言っとくわ。そっか、いざとなったら仕返しか。悪くないかもね」
じゃ、寝るねおやすみと、さっさと寝てしまった。
これはこれでいいとして。
私は?
私はこれからどうするべき?
考えていたら寝れなくなる……
と思っていたのによく寝れた。