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「ねえねえ、おにーちゃん、これ、読んで」
もう帰ろうとする青葉の膝に、絵本を手にした日向がよじ登っていた。
「あ、こら。
おにーちゃんは帰るのよ」
とあかりは言ったが、青葉は、いや、いい、と言って、日向を膝に抱いていた。
「……子どもの髪、いい匂いがするな」
ちょうど鼻先に日向の頭が来るからだろう。
よく日にあたった子どもの髪の匂いを嗅ぎながら、青葉は、しみじみとそんなことを言う。
日向は、これ読んで、と言っていたが。
図鑑のような絵本だったので、あまり文章はなかった。
じっと広げたページを見ていた日向があかりに訊いてきた。
「おねーちゃん、これ、なんの鳥?」
日向は威風堂々とした鷹の絵を指差す。
「鷹ね」
「たかね?」
「違うよ。
たか、ね」
「たかね」
……幼児との会話、噛み合わない、と思っていると、青葉が、
「俺に貸してみろ」
と言って、さっきの絵を指差した。
「日向、これは鷹だ」
「タカダ」
「鷹、だっ」
「タカダッ」
日向は鼻がつまりぎみなのか、タカタに聞こえる……。
「……なんか微妙にテレショップの人みたいになっちゃってますよ」
とあかりは呟いた。
「おっと、もう時間だな」
壁の時計に気づいて立ち上がった青葉が、
「600円か」
とカウンターにアイスコーヒー代を置く。
いや、だから、何故、600円っ、と思ったとき、持ってきていてた電車のおもちゃで遊んでいた日向の前に青葉がしゃがんだ。
「日向、その……
俺のこと、おにーちゃんじゃなくて、お父さんとか呼んでみてくれないか」
一大決心をして言ったらしい青葉に、日向は光に透ける茶色い瞳を向けて言う。
「おとーさんはダメだよ。
おとーさんはもういるから」
誰のことだっ!?
と青葉は振り返ったが、
いや……、大吾さんのことではないですかね?
父親と呼ばせてたから、
とあかりは思う。
案の定、日向は、
「おとーさんって、父親のことなんだって」
と言う。
「父親はもういるから、おとーさんはダメだよ」
日向はそんな残酷なことを実の父に向かい、笑顔で言う。
「いや、おかしいだろっ。
おとーさん、早い者勝ちとかっ」
こちらを振り返り叫ぶ青葉に、まあまあ、と言ったとき、日向が言った。
「でも、パパならいいよ」
「えっ?」
「おねーちゃんは、ほんとうはママなんだって。
あいちゃんが言ってた。
だったら、おにーちゃんは、おとーさんじゃなくて、パパじゃない?」
あいちゃんというのは、日向が幼稚園で作ってきた友だちだ。
日向は、おかーさんの対の人は、おとーさん。
ママの対の人は、パパだと思っているようだった。
「日向」
と青葉は感激して抱き上げる。
そして、ハッとしたように言った。
「『父親』と『おとーさん』は、いつの間にか、大吾に抑えられてしまったが。
『パパ』は俺だし、『親父』も俺だからなっ」
そう日向に念押ししたあとで、青葉は、こちらを見て訊く。
「あかりっ、他に父親を呼ぶ呼び方はないかっ」
「えっ?
あ、えーと……、『父上』、とか?」
なんか商標登録はお早めに、みたいになってる……、
と思いながらそう教えた。
「父上ーっ。
また来てねー」
そう日向に手を振られながら、青葉は満足そうに帰っていった。
夜、今度は来斗がカンナを連れてやってきた。
来斗はカウンターに座りながら、
「アイスコーヒーね」
と言う。
もう、ここカフェになるよう、手続きと改装しよう、と思いながら、あかりは、誰もいない奥に向かい、
「マスター、アイスコーヒー、ワン」
とか言ってみる。
……返事があったら怖いが。
カンナは座ったあと、少し迷って、
「みっくすじゅーす……」
と言った。
「えっ?
ミックスジュースはないかもですよ」
とあかりが言うと、カンナは斜め下を見ながら、
「おねえさん、みっくすじゅーす 1200円は高いかと」
と言う。
ん? と身を乗り出して見ると、カウンターの斜め下にある、売り物の丸い木の椅子の上に、白い紙があった。
これ、よく読めたな……と言いたくなるような字で書かれた、メニューだ。
どうも、真希絵が下書きした字を日向がなんとかなぞろうとしたものらしい。
ということは、ミックスジュースを1200円に設定したのは、お母さん……。
「いや、高いよっ」
と今、ここにはいない真希絵に向かって叫びながら、カンナにとってもらったその紙を見る。
アイスコーヒーは600円になっていた。
――600円の理由、これか~っ。
まさか、木南さんも大吾さんも、このメニューの字、私の字だと思ったんじゃないだろうな……、
と思いながら、あかりが、それを見ていると、カンナが言う。
「今度、おじいさまのところに来斗さんと遊びに行くことになりました。
おじいさまなら、私たちの味方になってくれるかもしれないので。
おねえさんにも、いろいろご迷惑おかけしまして、すみません」
カンナに神妙な顔で、深々と頭を下げられ……
いや、神妙な顔をしているというのは、自分で思っただけで、相変わらず、カンナの表情は読めなかったのだが……。
「ううん、大丈夫」
とあかりは笑ったあとで、カウンター下の引き出しを開けながら言った。
「カンナさん、ところで、このお茶いらな……」
「いりません」
あかりが例の香りの強いお茶をカウンターに置く前に、カンナは言う。
ん?
まだちゃんと見せてもないし、言い終わってもないぞ。
聞き違いかな? と思って、あかりはもう一度、言いかけた。
「このお……」
「いりません」
さっきまでの感謝の気持ちは何処へ……、と思いながら、そっとあかりはそのお茶を引き出しに戻した。