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昨日の雨が嘘のように晴れ渡る朝、昨夜はいつもとは少しだけ違う気分で同じベッドに潜り込んでいた二人だったが、目が覚めると気分の切り替えに成功したのかどうなのか、ウーヴェが休日の朝にも関わらずに起き出してキッチンへ向かい、恋人の好物であるチーズをふんだんに使ったオムレツを作り始める。
オムレツはあまり火を通しすぎずに半熟ぐらいに仕上げて皿に盛り、野菜嫌いだと分かっている為に付け合わせには市販の紫キャベツの煮物を載せ、さあいつものように起こしに行こうとエプロンを外した時、背後に人の気配を感じて振り返ろうとするが、伸びてきた腕に背中から抱き締められて軽く目を瞠る。
「起きたのか?」
「うん・・・起きたらお前がいなかった」
だから少しだけ不安になったと、珍しく気弱な発言をするリオンに驚きを隠せなかったが、内心の動揺を抑えつつ顎の下で交差する腕を撫でたウーヴェは、ゼンメルとベーグルのどちらが良いと笑み混じりに問い掛けつつ器用に身体を反転させる。
「・・・ゼンメルが良い」
「ああ。じゃあ俺の分も一緒に焼いてくれないか?」
「ん、了解」
少し離れた場所にあるトースターにゼンメルを4つ入れてくれと告げ、リオンもうんと返事をしたものの、どちらも離れることが出来ずに額と額を触れあわせて温もりを感じ合う。
「オーヴェ」
「どうした?早く食べて準備をしないと仕事に遅れるぞ」
昨日言っていたが、今朝は父の元に出向くのだろうとひっそりと問い掛けたウーヴェは、頬をしっかりと挟まれながら目を逸らせない距離で見つめられて目を細め、仕事なんだろうと恋人の言葉を先読みしたように唇の両端を持ち上げる。
「うん・・・ごめん」
「どうして謝るんだ?」
例え俺が憎んでいる父であっても護衛をするのが仕事だと言ったのは誰だと笑われ、ウーヴェの額に再度額をぶつけたリオンが俺だと小さく答えれば、背中にそっと腕が回される。
「お前の仕事なんだろう?誰に遠慮する事もない。そうだろう?」
「うん」
「なら胸を張れ、リオン。顔を上げろ」
俺にどう思われるかなどと考えるよりも、自らの仕事を完遂する事だけを考えろと穏やかさの中に力強さを秘めた声で告げれば、ようやくリオンの全身から伝わってくる気配が変化をしていく。
「・・・もっと早くに言わなくて・・・ごめん」
「・・・もう良いと言っただろう?」
それ以上謝り続けるのならばチーズオムレツはお預けだとリオンを奮起させるための言葉をさらりと告げれば、その言葉につられて顔を上げた後、もう謝らないと宣言されてしまい、小さく吹き出すと同時に前髪を掻き上げてやりながら目を細める。
「────リーオ、俺の太陽」
「・・・うん」
昨日は感情にまかせてお前の職を貶すような事を言ってしまって悪かったと、ウーヴェがくすんだ金髪を胸に抱き込みながら謝罪をし、背中に回された腕の温もりを力に変えると、一つ深呼吸をして震える声で途切れ途切れになりながらも父を守ってくれてありがとうと告げる。
ウーヴェの胸に頬を押し当てていたリオンの耳にその言葉が流れ込み、驚愕に目を瞠って顔を上げようとするが、見られることを阻止するように強く頭を抱き締められて苦しさのみを訴える。
「オーヴェ、鼻が痛い」
「・・・ああ」
少し力を緩めてくれと訴えられた事に苦笑して離れようとしたウーヴェだが、逆にリオンに抱き竦められて目を瞠れば、リオンのどうしてという堪えきれない思いが震える声となってウーヴェの耳に流れ込み、何とか身動ぎをして恋人の背中を抱き締める。
「なあ、オーヴェ。今日で親父の護衛も終わるからさ、帰ってきたらちょっと話をしよっか」
互いに顔を見ることなく言葉を交わし、今夜真面目な話をしようと少しだけ軽い調子で伝えられ、何の話だと聞かなくても理解できたウーヴェが溜息を一つ零して小さく了承の返事をすれば、朝飯にしようとようやくいつもの陽気さでリオンが声を張り上げる。
「オムレツを挟んで食おうかなー」
「ソーセージは要らないのか?」
「もちろん食う!」
何て幸せなんだと顔を脂下げる恋人に呆れるべきか感心するべきか一瞬悩んでしまったウーヴェは、早く食べようと席に着くリオンに笑みを浮かべ、コーヒーの用意をしてくれと告げてくすんだ金髪にキスをし、朝食の仕上げにかかるのだった。
春の王女が楽しげに上空を散歩している事を感じさせる陽気の下、リオンがシルバーのBMWを走らせながらも、脳裏では今朝の恋人の震えながらの一言と今まで感じていたギャップについて思案を巡らせていた。
今朝は出勤すると同時に朝からいつも不機嫌なヒンケルがいつにも増して不機嫌な顔でレオポルドから連絡が入った事を教えてくれたのだ。
付き合いだして様々な事柄を乗り越えお互いに深く知るようになった頃から気になっていた恋人の家族間の不和だが、昨夜父と息子が何年ぶりかで顔を合わせる現場に立ち合い、今朝は今朝で今まで感じていた違和感をより際だたせる一言を耳にしてしまい、その違和感の元を確認するのに絶好の機会だと腹の中でほくそ笑む。
レオポルドについてこのひと月、リオンなりに様々なメディアに登場する度に目を光らせ耳を大きくして情報を集めていたが、集まった情報を纏め合わせて人型に填め込んで出来上がるのはレオポルド・ウルリッヒ・バルツァーという偉大な実業家で、ウーヴェの言葉や表情の端々から伝わる人間像とはかけ離れたものだったのだ。
最も身近な存在である家族が伝えてくれる彼の人となりと、メディアという第三者の視点で投影されるものでは違いがあって当然だろうが、どれ程の犯罪者であろうと嫌われ者であろうとも当人の家族から伝わるものに心の底からの憎悪の感情は少なかった。
実業家として成功を収める彼には当然ながら敵も味方も多数いるだろうが、その味方の最たるものが家族だとリオンは考えているが、何故その家族から憎まれるのだろうかと、昨夜も芽生えた疑問が再度芽を出し、今日のこの機会を利用して少しでもその違和感を解消してしまおうと、送り出すのが気にくわないと言いたげな顔の上司にお土産はありませんからねーと歌うように告げて譜面パトカーに乗り込んだのだった。
まだイースターにもカーニバルにも日があるが、車内に降り注ぐ日差しは春を思わせる暖かなもので、窓を開けて肘を突き出して長閑な道を走っていくが、リオンの脳裏に浮かんでいるのは春の長閑さとは裏腹に、真冬の寒さを連想させる一対の双眸だった。
昨夜激情のあまり口走った-と思いたい-恋人の顔を思い浮かべ、普段の彼からは想像もつかない言葉を聞かされたショックと、何故怪我をしても良いのかの問に返された言葉の意味を思い出すと胃の辺りに不快感が漂い始めるが、声に潜む感情が一つや二つでは説明がつかない気がしてしまう。
リオンが親父と呼んだレオポルドとウーヴェの間には長年の確執がある事は知っていたが、その確執の原因について想像しようにも情報があまりにも少なくて、事件に巻き込まれた事が切っ掛けになったとしか予測できないでいた。
事件の概要はあの教会で知ることが出来たが、そもそも何故ウーヴェが誘拐されたのか、そして何故最後の最後まで命を奪われることがなかったのかという、事件の始まりと終わりについての純粋な疑問がリオンの脳裏で浸透し、広がりを見せ始めていく。
もしもリオンが誘拐犯であれば、いくら金蔓とはいえ10才の子どもを連れての逃亡など自らの首を絞めるような行為でしかなく、少しでも早く子どもを殺して遺体を処分してしまい、後は生きている風を装うだろう。
営利目的の誘拐でのデメリットは、身代金を受け取る際には直接だろうと第三者を立てようが必ず何処かで誰かと接触しなければならない事だったが、情報化社会と呼ばれる現代であってもそれを引き出すためには必ず第三者と接触しなければならないのだ。
余程うまく立ち回らない限りは現金の引き出しをする人間が取り押さえられる確立が高いし、犯人の一人がそこに出向けば芋蔓式に犯人を探っていく事も可能になる。その危険を冒してまで誘拐した理由は何だと刑事の貌で思案し、シャツのポケットから煙草を取りだして火を付ける。
それにハシムを含めた誘拐犯以外の複数人の存在も気になってしまう。
ウーヴェと同じ年頃の子どもだけではなく三人の大人が誘拐され、事件の解決時には皆殺されていたそうだが、何故誰一人として逃げ出さなかったのだろうか。大人が三人もいれば何らかの形で外部と連絡を取ることも可能だっただろう。
だがウーヴェの断片的な話を繋ぎ合わせてみても、誰一人として逃亡の後に殺された気配はなく、本当に被害者だったのだろうかという疑問すら芽生えてくる。
20年以上も前の誘拐事件での本当の被害者はウーヴェとハシム少年の二人だけで、残りの大人は皆共犯者ないしは事件への協力者だったのではないのか。
天啓のように閃いたそれにリオンがぽかんと口を開けてしまい、煙草が落ちそうになるが何とか唇に張り付いてくれていた為に足の上に落ちて服が焦げる緊急事態が避けられた事に胸を撫で下ろす。
今の思いつきのような事がもしも事実だとすれば、ウーヴェが一人で長い間苦しむ必要など全くないことになってくるが、もしも主犯ないしは主犯格の狙いがそれなのだとすればと、情報量の少なさから想像の翼を羽ばたかせすぎた事に気付いて舌打ちをして煙草を灰皿に投げ入れる。
そして、今朝恋人が震えながら告げた当たり前と言えば当たり前の、だが彼とその家族の間にある深い溝の存在を知った今では最も不可解な言葉が脳裏に甦り、リオンは知らず知らずのうちに拳を握って険しい表情を浮かべてしまう。
ウーヴェが巻き込まれた事件の本質が仲の良い家族の崩壊を目論んだ末の誘拐だとすれば、彼とその家族の間に横たわる深くて広い溝の存在は犯人達の思惑通りなのではないのか。
そんなことを考えつつ車を走らせると、いつの間にかバルツァーの屋敷へ通じる一本道へと進んでいたようで、程なくして見えてきた背の高い鉄扉に口笛を吹き、監視カメラの視野に入るように車を停めると、インターホンを押すために窓を開けて門柱に手を伸ばす。
ここに顔を出せと言われていた事もあってか、リオンの顔を確認すると同時に鉄扉が開き、お招きありがとうございますと車内で呟きながらアクセルを踏むのだった。
招き入れられて先日同様に案内してくれる同年代の青年に付き従って長い廊下を進み、背の高いリビングのドアを開ける背中をぼんやりと見つめていると、どうぞと朝から聞くには涼やかな女性の声がリオンを招き入れてくれる。
まだ今日で2度目の訪問になるこの家だが、屋敷そのものや廊下の壁を飾る絵画や彫刻などの調度品などは、芸術など腹の足しにならないと冷笑するリオンでさえも目を奪われてしまう類のもので、通されたリビングの背の高い掃き出し窓から見える庭は春の装いを始めた木々が自由に、だが最低限の手入れだけはされた姿で生い茂り、その向こうに東屋らしき建物のシルエットが緑のカーテンの隙間から見えていて、見る者の気持ちを穏やかにさせてくれるような居心地の良さだった。
自分が生まれ育った環境とは天と地ほどの開きがあるが、リビングのソファセット-さすがにこれは座り心地を優先している為か重厚なもの-に腰掛けて談笑している夫婦の様子に目を細め、自分が望んでも得ることが出来ない光景がそこに広がっている事に気付き、胸の奥で微かな軋みが響く。
己の出自と恋人のそれを比べたところで過去が変えられるわけではないのだ。今更過去に対して愚痴を言ったところでどうにもならない。
その思いから悲鳴のような軋みを上げる心を封じ込め、一般的に自分を表す顔だと言われる笑みを浮かべて口を開くと、リオンを案内してくれた青年が一礼を残して静かにリビングから出て行く。
「グリュース・ゴット」
「おはよう、リオン」
「・・・・・・おぅ、良く来てくれたな」
ソファに深くもたれ掛かり、額に無骨な手を宛がって天井を睨んでいたレオポルドがリオンの声に顔を向けることなく呟き、そんな夫に苦笑を浮かべたイングリッドが笑みの質を切り替えてリオンをソファへと手招きする。
「情けない姿を見せてしまっているわね」
「へ?」
情けない姿というのが何を指しているのかが咄嗟に分からずに青い眼を軽く瞠って彼女を見つめれば、娘そっくりの瞳が己の伴侶を見つめて唇の両端が小さく持ち上がる。
「昨日飲み過ぎたんですか?」
ウーヴェと自分を家に送り届けてくれた時には酒の匂いなどしなかったが、あれから二日酔いになる程飲んだのかとソファに腰掛ければ、じろりと碧の瞳に睨まれて肩を竦める。
「・・・頭に響く」
「もう若くないんだから無理をしないでといつもお願いしているのに」
「ああ、分かった分かった。反省している」
だからそう責めるなと妻を手招きしたレオポルドは、上目遣いに見つめてくる彼女の額にキスをし、悪かったともう一度詫びてグラスの水を一気に飲み干す。
「────久しぶりにウーヴェと話をしたからな」
何年ぶりかに顔を合わせるだけではなく、一方的なものであっても会話が出来た事が嬉しかったと自嘲し、昨夜帰宅した後イングリッドと一緒に引っ張り出してきたアルバムを見、料理長が用意してくれた軽食と最高級のウイスキーを楽しんでいたのだ。
若い頃ならばフルボトルのワインどころかバーボンの一本や二本は全く平気だったが、年を取ってしまった事を酔いが回る早さと消化の遅さから実感してしまったらしく、そろそろ酒は控えなければダメだと寂しそうに呟くレオポルドの様子から、恋人の酒好きはきっとこの父から受け継がれたものだろうとリオンが苦笑する。
「ああ、そうだ。昨日は車で送って貰ってありがとうございました。濡れずに済んで助かりました」
「そうか・・・あの子は・・・いや、何でもない」
リオンの感謝の言葉にレオポルドが高い天井を仰ぎながらぽつりと呟き、そんな彼の横ではイングリッドが目を伏せ、長年そうしてきた事を窺わせる自然な態度で夫の腿に手を着いて身を寄せる。
結婚した当初とほとんど変化のない細い肩に腕を回し、無言で再度妻の額にキスをしたレオポルドは、リオンの目に浮かぶ複雑な色に気付いて胸の裡でのみ驚いてしまうが、それを全く表に出さずに笑みを浮かべ、乗り心地はどうだったとリオンよりも遙かに子供じみた顔で問いかける。
「最高でした。車に乗ってる感じがしませんでした」
驚くべき乗り心地の良さだったと思い出しながらうっとりと呟けば、そうかとレオポルドも似たような表情を浮かべるが、若い頃からの夢だったからなと遠い昔を思い出す目つきで窓の外へと視線を向けると、リオンが小首を傾げて先を促す。
「いつかあの車に乗るのが俺の夢だった」
「そうね。いつもそう言っていたわね」
レオポルドの言葉にイングリッドがこちらもまた懐かしいものを思い出す顔で頷き、リオンに向けて息子の笑みを彷彿とさせる顔を見せる。
「昨日、式典でレオが銃で撃たれたとお聞きしたけれど、どういうことか聞いてもよろしいかしら?」
笑顔の中にも厳しさを秘めた彼女の声にリオンの背中が自然と伸びたかと思うと、二人が見守る前で申し訳ありませんでしたと謝罪をする。
「入口でボディチェックをしましたが、見過ごしてしまったようです」
警備の指揮を執っていたのは自分だが、未熟さ故にごく初歩的なミスを犯してしまった事を詫び、怪我がなかったとはいえご迷惑をおかけしましたと殊勝な口調で告げた後、顔を上げて二人を交互に見つめ、どんな言葉が返ってきても受け止める意志を瞳に浮かべる。
不慣れな身辺警護だったと言い訳をするのはリオンの矜持が許さず、そんな無様な姿を見せるぐらいならば嘲られようが罵られようが謝った方がマシだと腹を据えたリオンに二人が顔を見合わせたかと思うと、イングリッドが目を細めて白くて綺麗な手で口元を覆い隠して涼やかに笑い出す。
「警察の落ち度、不備を認めると?」
「落ち度と言われればその通りなので、認めます」
自分の夫が記念式典の最中に狙撃された事実はレオポルドが警察で簡単な事情聴取と犯人の顔を確かめる作業を終えた後で自らイングリッドに伝えた為に彼女の知るところとなったのだが、誰も負傷することがなかったとも知らされてもまだ不安で、タクシーで帰宅した夫を真っ先に出迎えた時に初めて安堵できたのだ。
その彼女の気持ちを思えば当然ながら警察の不備や落ち度を追求してしまう気持ちも理解出来るとリオンが頷き、申し訳ありませんでしたと仕事上では滅多に下げることのない頭を下げれば、彼女がリオンから視線を隣で腕を組んでいる夫へと流す。
「あなたがレオのことを親父と呼んだ事もお聞きしたわ。その真意を教えて下さるかしら?」
わたくしたちには子供は三人だけで、レオが誰か他の女性に子供を産ませた事はないわと鈴を転がすような声で笑い、心底困惑した顔で髪に手を宛がったリオンは、上目遣いで彼女を見つめて観念したように吐息を零す。
「もうご存じでしょうが、俺には親はいません」
「教会のマザー・カタリーナは親ではないのかしら?」
「・・・彼女は・・・親代わり、です」
リオンにしては珍しく不明瞭な言葉に二人が視線だけを絡めるが、レオポルドは太い腕を組んでついでに足も組み、ソファの背もたれに深くもたれ掛かって天井を見上げる。
「母親の代わりは・・・彼女がしてくれましたが、父親の代わりはいませんでした」
だからかも知れないが、自分の中では両親という存在に対し、希薄な思いと濃密な思いが螺旋を描くように混ざり合って存在していると目を伏せ、だからどんな理由からだと言われてもうまく答えられないと告げ、気分を損ねさせたのなら謝りますとも告げて肩を竦める。
「今までに父親の様な人と出会ったことは?」
「残念ながら、実の父親であれ父親を思い起こさせるような人であれ、出会ったことはありませんね」
「そう・・・レオにもね、父と呼べる人は一時期いなかったわ」
「リッド」
彼女が目を伏せながら語った直後、レオポルドがこの時初めて強い口調で妻を呼んで口を封じようとするが、彼女の長く伸びた色素が薄くなったブロンドが左右に揺れたかと思うと、顔を向けることなく彼の太い腕に手を載せて思いを伝えるように耳に心地よい声で夫の過去を語り出す。
「わたくしたちが生まれたのは世界が不穏な空気に包まれていた頃よ。あなた達には分からないかも知れないけれど、辛いことが沢山あったわ」
彼女の言葉にリオンの脳裏には学生の頃に学んだ光景が蘇り、出来る事ならば目を背けたい過去を徹底的に教え込まれた結果、今の自分がここにいるのだと改めて気付くと、イングリッドの目に例えようもない優しい光が浮かび上がる。
「レオのお父様は強制収容所に送られた事があったの」
「・・・そう、だったんですか?」
「ええ。何とかお父様は戻って来ることが出来たのだけど、その後は随分と苦労をしたそうよ」
「もう良いぞ、リッド。そんな昔話をしたところで何になる」
自らの過去をあまり語りたくないと苦々しい口調でイングリッドを見つめたレオポルドは、彼女が意味ありげに目を細めた事に気付いて碧の目を軽く瞠る。
「レオ、あなたがリオンに親父と呼ぶ事を許した理由は何かしら?」
その時になって初めて彼女の真意がどこにあるのかを察したレオポルドは短く舌打ちをした後、リオンを真正面から見据えて口ひげを指先で撫で付ける。
「リッドには勝てないな」
「そうかしら?」
長年連れ添った夫婦にだけ分かる思いが短い言葉の中に込められているのか、リオンが思わず居心地が悪く感じてしまうような空気が二人の間に流れるが、先に折れたのは夫だった。
肺の中を空にするような溜息を零したかと思うと、妻の肩を再度抱き寄せて額にキスをし、心配を掛けて悪かったと謝罪をする。
「リオンがどうしてあなたの事を親父と呼んだのか、またあなたはどうして呼ばせたのかを教えて下されば、昨日の一件についてわたくしは何も言わないわ」
「・・・リオン、そういうことだからさっさと吐け!」
「んな!」
彼女の思いがけない一言に男二人が顔を突きつけて睨み合い、お前から言え、いや、俺ではなくあなたから言うべきだと醜い言い合いを繰り広げるが、そんな二人の間に割ってはいるように鈴を鳴らしたような笑い声が流れ込む。
「二人とも騒々しいわ」
「・・・ごめんなさい」
「・・・すまん、リッド」
彼女の言葉に男二人が同時に謝罪をしつつも窺うように視線で先を促しあうが、リオンが再度髪を掻きながら視線を足下に落とす。
「・・・親父のような人が親だったら、そう・・・思ったんです」
本人でさえも理解していない深い場所に眠っていた思いを口に乗せ、孤児で札付きの悪ガキであった自分が烏滸がましいですねと自嘲したその時、レオポルドが太い溜息を零し、妻の肩に回していた腕を解いて己の短く刈った髪を撫で、ついでとばかりにリオンの頭に大きな掌を叩き付けるように載せたかと思うと、有無を言わさない強さでくすんだ金髪をぐしゃぐしゃと掻き乱させるように撫で付けたのだ。
「思うようにいかないものだな、リオン」
「────っ!!」
他者からすれば一代で小さな家族経営の会社を大企業に育て上げた偉大な人だと思われているレオポルドだが、人生とは思うままにいかないものだと溜息を零し、まるで宥めるように頭を撫でられてしまって息を飲んだリオンは、今日のもう一つの目的でもあった違和感の解消をする為に問いを発するが、その問いにレオポルドとイングリッドは顔を見合わせるだけで明快な言葉は返ってこなかった。
「オーヴェの態度が納得いかないんです」
「・・・その事については本人に直接聞いた方が良いな」
「レオ・・・」
「俺が言える事じゃない」
お前が気になるというのならば自ら聞き出せとリオンに目を細め、不安そうに見上げてくるイングリッドの額にキスをすると、今日はわざわざご苦労だったと労いの言葉を告げて大きく頷く。
「今回の事でこちらから警察に対して抗議することはないが、式典の警備責任者に対してはそれなりの対応を取らせて貰うつもりだ」
「分かっています」
警備責任者、つまりはお前に対しての抗議なり法的手段なりは取らせて貰うとレオポルドが断言するとリオンも腹を括った人間特有の潔さで頷き、碧の目を真正面から見つめて自身に刻み込むようにもう一度分かっていますと呟く。
「弁護士を通して伝えるが、けが人も出ていない事だから犯人に対しては寛大な処置を願いたい」
「それで良いのですか?」
狙撃犯に対しての寛大な措置と聞かされ、耳を疑うではないが本当に良いのかと問いかけたリオンは、怪我をした人間はいないしあの時取り押さえられて留置所で一晩頭を冷やしただろうからそれで良いと笑われて無言で肩を竦め、被害者がそう言うのならばこちらは何も言わないと頷き、ソファから立ち上がって軽く一礼をする。
「ケーニヒ刑事」
「Ja」
レオポルドの呼びかけに真面目な顔で頷いたリオンは、ヒンケル警部によろしく伝えてくれと頷かれて短く返事をすると、失礼しますと踵を返して居心地の良いリビングから出て行く。
その背中を見送ったレオポルドが溜息を零してソファに深く腰掛けると、イングリッドが何かを言いたげに目を細めるが、入ってきた家人にコーヒーの用意を頼んでレオポルドの腕に手を載せる。
「どうした?」
「リオンが気に入ったの?」
コーヒーが運ばれてくるまでの間の暇潰しにしては真摯な色が籠もっている声に夫が軽く目を瞠って妻を見つめると、出会った頃から変わらない戯けた表情で見つめられて舌打ちをする。
「リッドも気に入ったと言っていただろう?」
「ええ。ウーヴェが事件のことを話すような人ですもの。気に入っているわ」
「そうだな」
「リオンに今回の事で責任を取らせてどうするつもり?」
法的な対応を取ると告げたが、死者が出たのならば兎も角今回はけが人すら出ていないのだから強硬手段に出ることは出来ない筈だと、レオポルドの本心を見抜いた顔で年を経ても可憐な唇が悪戯を込めて囁くと、レオポルドが誤魔化す様に口ひげを指で撫で付ける。
「本当にリッドには勝てないな」
「そんなにリオンが気に入ったの?」
「ああ。まだまだ若造だしひよっこではあるが、周りにいないタイプの男だとは思わないか?」
今回の事でリオンに責任を取らせるかもしくは警察内での仕事に対する評判を落とさせ、刑事から制服警官に降格されると刑事を天職と考えているようなリオンならば潔く仕事を辞めるだろう。
リオンを己のボディガードにしたいと考えるようになっていたレオポルドが考えたのは、警察を辞めたリオンを己が契約してるセキュリティサービス会社で雇わせて自らのボディガードをさせるという未来図だった。
己の腕と才覚でのみ会社を大きくしてきた男だけが持つ自信に満ちた表情を浮かべ、イングリッドが軽く息を飲んで見つめる前で口元に太い笑みを湛えて頬杖を付いてソファの背もたれに寄りかかる。
「あいつは面白い」
「レオ、いくらリオンが欲しいからと言ってあまりあくどいやり方をすれば今以上にあの子から憎まれるわ。あなた達があの子から憎まれるのをもう見たくないわ」
「リオンがうちに来れば面白いと思わないか、リッド」
たった一度の護衛だったが、仕事に対するリオンの姿勢にはレオポルドも目を瞠るものがあったし仕事に対する誇りも持っているようで、無理矢理辞めさせる事は出来なかった。
それに何よりも、仲違いをしている父と息子の関係が修復されない限り息子の恋人を会社で雇うことは現実的ではないだろうし、ウーヴェがいい顔をするとも思えなかった。
「そうね・・・そうなれば楽しいでしょうね」
あなたがそんなにも興味を惹かれたリオンがあなたの元で働く事になれば毎日が生き生きするだろうと未来予想図に笑みを浮かべるが、ほぼ同時に二人の胸中にそれは永遠に叶う事のない夢だとの思いが芽生えるがどちらもそれを口に出すことはなく、家人が運んできてくれたコーヒーを飲むのだった。