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バルツァーの屋敷から警察署に戻ったリオンは、お疲れさまと労う同僚の声にひらひらと手を振りながらヒンケルの執務室のドアを拳で殴りつける。
「ボース!」
「うるさいぞ!!」
ドアを殴って壊れれば給料から差っ引くぞと顔中を真っ赤に染めたヒンケルがデスクに手を付いて立ち上がるが、人聞きが悪い、今のはノックだと言い放っていつもの丸椅子に腰掛ける。
「何処の世界でノックの代わりにドアを殴る奴がいるんだ」
「はいはーい!ここにいまーす!」
まるで幼稚園児の口答えのようなその言葉にヒンケルのこめかみがひくつき、厳めしい顔が更に厳めしくなったのを見計らったリオンが一つ咳払いをし、椅子から腰を上げると腰の後ろで手を組んで先程屋敷で伝えられた事を報告し始める。
「・・・警備責任者にはそれなりの責任を取って貰う、そう言われました」
後ろで手を組みながら器用に肩を竦めたリオンの報告を受け、顎に拳を宛ってデスクに肘をついたヒンケルは、今日は土曜日だから週明けに何らかの抗議文が届くかも知れないなと頷くと、抗議文だけで済むのかどうかが不安だとリオンがもう一度肩を竦める。
「会長の人柄を考えれば逆に抗議文を送ってくる方が変に思わないか?」
ヒンケルが己の部下が取らされるであろう責任を予測しつつ呟き、あの時の狙撃も会長を狙ったものなのか、そもそも本当に会長を殺そうとしていたのかもはっきりとしないと溜息を零し、ガラス張りの執務室から刑事部屋を見つめて目を細める。
「昨日供述しましたよね、アイツ」
「ああ。・・・記念式典を壊したかっただけで殺すつもりはなかったと言っていたが・・・」
バルツァーという大企業の記念式典を発砲事件でぶち壊せば楽しいという、ある種の愉快犯的な考えからドイツ国内でも有数の大企業の名実共にトップであるレオポルドを狙ったのだ、豆鉄砲で狙撃しただけでも何日間かはお泊まり保育-留置場入り-をしなければならないだろう。
昨夜犯人の供述を得るために恋人と約束していたパーティをすっぽかさざるを得なくなり、帰る頃に降り出した雨にも降られ、帰宅した直後に口論になって踏んだり蹴ったりの一日だったのだが、犯人の稚拙な狙撃計画の結果にやるせない溜息を零したリオンは、本当に殺すつもりならデリンジャーなど使わないでしょうと肩を竦め、丸椅子を引き寄せて再度腰掛けると長い足を組んで頬杖をつく。
「あんな豆鉄砲であの親父を殺そうなんて難しいと思いませんか。俺ならバズーカーを持ってきますね」
「確かにそうだな。確実に殺すつもりだったらもっと他に手があるな」
己の意見に上司が同意してくれた事に安堵し、そう言えばけが人も出ていない為に寛大な処置をお願いすると言われた事も伝えたリオンは、執行猶予どころかヘタをすればこのまま釈放にもなりかねないとヒンケルが苦虫を噛み潰したような顔で呟くと、顎の下で手を組み合わせて重々しく頷く。
「まあ、執行猶予がつくぐらいならお前に全責任を取らせる事は出来ないな」
だから週明けの抗議文なり何なりの扱いは任せておけと言外に告げられて軽く目を瞠ったリオンに対しヒンケルはまだ苦虫を咀嚼している途中らしく、ここが外ならば唾でも吐いて煙草に火を付けそうだった。
何がそんなに気にくわないのかを問い掛けようとした矢先、ヒンケルが不意に表情を一変させて前のめりになった為、クランプスとキスしたくないと叫んだリオンが椅子ごと後退り、毎度お決まりのばか者という怒声を浴びて肩を竦める。
「昨日会長に送って貰ったそうだな」
「あ、誰かから聞きましたか?」
「マイバッハの乗り心地はどうだった?」
昨日リオンが仕事終わりに国産でもハイクラスの自動車で自宅に帰ったと教えられ、その乗り心地はどうだったと羨望を交えた声が問い掛けると、彼が予想もしなかった表情でくすんだ金髪に手を宛って肩を竦めた。
「一生に一度で良いから乗ってみたいって思って実際乗り心地も最高だったんですけどね」
「どうした?」
「・・・や、何でもないです。今回の報告書、なるべく早く提出します」
先程ヒンケルが見た顔など幻だと言いたげな、いつもと全く変わることのない笑顔で答えて丸椅子から勢いを付けて立ち上がったリオンは、報告書の提出を急ぐことを告げて戯けたように礼をする。
「週明けには会長がなにがしかの行動を取るだろう。その動向を見てからだな」
「Ja」
この件についてはもう終わりだと二人の間で暗黙の了解がなされ、後頭部で手を組んで部屋を出て行こうとするリオンに聞きたいことがあったヒンケルだったが、先程見てしまった貌が答えを教えてくれているようで、喉元まで出掛かった言葉を呑み込む。
普段は陽気で子供じみた笑顔で周囲を明るく照らしているリオンだが、ふとした拍子に覗き込むのを躊躇うような暗い光を目に浮かべるときがあり、たった今自分が見た顔はそれだと気付いたが、部下の心までは読み取れずに苛立ちと言い表せない不安を感じてしまう心を何とか押し殺して思い過ごしだと自らに苦笑したヒンケルは、ドアの前でじっと見つめているリオンに気付いて羞恥から貌を赤くすると、うわー、クランプスを真っ赤にするほど見つめちゃったー、気持ち悪ぃと嘯いてヒンケルの顔を更に赤くさせる。
「さっさと仕事に戻れ!」
「八つ当たりはんたーい!」
尚も言い募るリオン目掛けていつものブロックメモが投げつけられるが、これもまたいつものように身軽に交わしたリオンがドアの隙間から顔の半分だけを覗かせ、暴力も反対と憎たらしく言い放ってヒンケルの怒りを煽って楽しむのだった。
自らが発した昨夜と今朝の言葉が脳味噌と胸郭の内側で混ざり合い、形を成すことなく入り乱れた結果、ウーヴェの口から溜息となって体外にこぼれ落ちる。
体内で相反する思いが溢れて息苦しさを生み出し、やるせない溜息を何度も零したウーヴェは、時間を確認した後携帯を取りだして幼馴染みを呼び出すが、気にすることはないから今すぐにでも来いと忙しさの中にもウーヴェを気遣う彼特有の優しさを感じ取り、素っ気ない礼を述べて携帯と財布だけを持って家を出る。
向かったのは幼馴染みが経営しているレストランで、土曜日のランチタイムを過ぎた店はそれでもまだまだ人が多かった為、忙しそうに立ち回る幼馴染みや従業員達に目で合図を送り、パーティションで隠されているテーブルに腰を落ち着けて勝手に取り出したビールの栓を抜くと、見掛けによらずよく働く恋人は仕事かと問われて素っ気なく頷き、グラスに注がずにビールを飲むとプレッツェルが盛られた籠がそっと差し出され、次いで紫キャベツの漬け物やチーズなどが盛られた器も並べられる。
「・・・こんなに要らないぞ」
「もうすぐ一段落つくからそれを食ってろ」
「だから要らないと・・・」
「お前ね、メシ屋に来てメシを食わないなんて最低だぞ」
幼馴染みがフライパン片手に振り返って目を吊り上げた為、さすがにその剣幕には大人しく従うべきだろうと判断し、プレッツェルを囓れば幼馴染みの人の良さそうな顔に笑みが浮かび上がる。
「よしよし」
ウーヴェをここまで子供扱い出来るのはやはり物心つく前からの付き合いがある彼だからだろうが、その言葉通りに一段落付いたらしく、カウンターを回り込んでウーヴェが憮然とした顔でプレッツェルを囓るテーブル横にやってくると、まだ少し残っているビールを一口飲んで椅子を引く。
「今日はどうした」
「・・・昼だから来ただけだ」
ぼそぼそと聞き取りにくい声で呟くウーヴェを目の前に、彼、ベルトランが顎を上げて鼻先で小さく笑い、キングとケンカでもしたのかと呟くが、眼鏡の下でターコイズを光らせた幼馴染みに気付いて図星かと顔を戻す。
「違う」
「じゃあその顔は何だよ」
幼い頃、二人で遊んでいるときにケンカになり、謝罪の言葉を言い出せないでいた時と同じ顔だと指を突きつけて笑う幼馴染みをもう一度睨んだウーヴェは、考え事をしていて分からなくなった溜息混じりに告白し、奪われていたビールを再奪取して飲み干す。
「まぁた難しい事でも考えていたのか?」
「あいつが・・・、昨日仕事で・・・父さんの護衛をしたそうだ」
「おじさんの護衛?何かあったのか?」
やや俯き加減に呟くウーヴェにさすがにベルトランが驚きを隠せないで身を乗り出すと、テーブルの上で手を組んで軽く握りあわせたウーヴェが自嘲気味に肩を揺らす。
「会社の記念式典か何かがあったそうだ」
「それでおじさんが狙われたのか?」
「そうらしい」
バルツァーの末子でありながらも実家とは一線どころか大河並に距離を置いているウーヴェはその辺の情報を自ら進んで入手する事など当然なく、詳細については分からないが狙われる可能性があったから護衛を頼まれたのだろうと予測を述べ、その時に何かあったのかと促されて前髪を掻き上げる。
「狙撃されたそうだが、けが人も出ていないそうだ」
「そうか・・・何だ、もしかしておじさんの護衛をする事を教えられていなかったのか?」
「・・・っ・・・そうだ」
「仕事に関しては守秘義務があるんじゃないのか?」
だからお前の恋人は黙っていたんだろうとベルトランがお互いを庇うような言葉を告げるが、今まで極秘任務だと言いながら教えてくれた事が何度もあると返されて口を閉ざし、腕を組んで椅子を軋ませる。
教えられなかったことでケンカをしたのかと問われ、それも事実の一端なのだが認めるのも悔しい為に黙っていると、黙っていることで肯定しているとベルトランが苦笑する。
「うるさい」
「まあ、気持ちは分からなくないけどな」
「・・・黙っていた事だけに腹が立ったんじゃない」
「じゃあ何だ。何が気にくわないんだ?」
ここでグダグダ言うのも構わないが何が許せないのか言ってしまえと、本人ですら気付かない心を察した幼馴染みの言葉に口を開いたウーヴェだが、いつかのように喉から出てくるのは荒い呼気と断片的な音の欠片だった。
リオンとは比べられない程付き合いが長いベルトランがウーヴェの様子に慌てることなくミネラルウォーターのボトルを取ってくれと告げて受け取ると、一緒に出されたグラスに水を注いでウーヴェの前にそっと置く。
「飲めよ、ウー」
「・・・バート・・・っ!」
ウーヴェの切羽詰まった様子にも落ち着いたままベルトランが目を細めて子供の頃から全く変わらない顔でおじさんが怪我をしなくて良かったなぁと笑うと、ウーヴェの白い頭に手を載せて手触りの良い髪を撫でる。
幼馴染みの家族が今の関係になる様子をほんの少し離れた位置からずっと見守ってきたベルトランだからこそ言葉に出されないでいる本人すら気付かない思いも感じ取ることが出来、しかも言葉に出せないウーヴェに代わって思いを告げられるのだが、頭に載せられた幼馴染みの手の重さに負けたようにウーヴェが額をテーブルに押しつけたのを見ると、溜息混じりに八つ当たりをするなと告げる。
「・・・あいつにも・・・言われた」
「そりゃあそうだろうなぁ。お前の八つ当たりはキツイからなぁ」
見ていないはずなのに何故か見てきたように呟くベルトランを睨む為に顔を上げたウーヴェは、事実だろうと笑われて目を細めるが沈黙することで再度肯定してしまう。
「ん?お前、昨日は確か大学の恩師の就任パーティだと言っていたよな?」
「ああ」
そのパーティの二次会でここにお前の友人やフラウ・オルガが来てくれたがお前が来なかったからおかしいと思ったと問われて無言で頷いたウーヴェは、あいつが来るのを待っていたが来なかったと告げ、用意された水を一気に飲んで盛大な溜息を零す。
「お前と一緒にパーティに出るはずだったのにキャンセルされたのか」
「・・・そういうことだ」
全てを話さなくとも理解してくれる友の存在は有り難いが、こんなに正鵠を射たような言葉を返されると素直に認めることしかできず、注いでくれた水をもう一杯飲んでチーズを口に運ぶ。
「それで八つ当たりか」
「・・・分からなかった」
「何が?」
言い出すべきかどうかを逡巡するウーヴェを見守ることで促したベルトランは、守る必要など無かったと言ってしまった事と今朝はその言葉とは相反する言葉を告げてしまったと自嘲気味に告げられて目を瞠り、それでその顔かと真意を読み取って納得してプレッツェルを頬張る。
相反する思いから告げた言葉がウーヴェの心を縛り、思考回路を埋め尽くすように巡ってしまい、自分が本当に望んでいる事すら分からなくなったと自嘲する幼馴染みに目を細めたベルトランは、今まで何度も問い掛けてきた言葉を告げて頬杖をつく。
「まだ許せないか?」
「許せるはずなど・・・無いだろう・・・!?」
父があの頃に家族を顧みることがなかった結果がどんな事態を招いたんだと底冷えのする声で告げたウーヴェにベルトランが無言で肩を竦め、分かったとだけ答えて新たなビールをスタッフに取ってもらってグラスに注ぐが、ウーヴェの心もその心の奥に潜んでいる思いも感じ取ってしまって何も言えずに眉を寄せ、一つだけと告げて再度肩を竦める。
「キングの言うように八つ当たりはするな」
おじさんへの思いと楽しみにしていたパーティを仕事の都合でキャンセルされた苛立ちを混ぜたものをあいつにぶつけるなと呟き、スタッフが声を掛けてきた事に気付いて片手を挙げると、もの言いたげに目を細めるウーヴェの肩をぽんと叩いて立ち上がる。
「とにかく、腹が減っているときにはろくな事は考えられないからな。昼飯を食ってあいつが帰ってくるまでじっくり向き合ってろ」
自分の内面と向き合うのは根気が要ることだし体力も消耗するだろう、その戦いに赴く前にしっかりと腹拵えをしておけと片目を閉じたベルトランは、マス料理が食べたいと呟かれるが、今日はマスよりもサーモンの方が美味いからそれを食えと料理人の顔で頷いて再度ウーヴェの肩を叩いて厨房へと戻っていくのだった。
その日の仕事を終えて最早自宅に帰るよりも回数が多くなっているウーヴェのアパートに帰り着いたリオンは、警備員に目で合図を送るとすぐさま連絡を入れてくれたらしく、さほど待つことなくドアが開き、ホテルのエントランスのようなロビーを大股に歩いて行く。
待ち構えていたエレベーターに乗り込んで鏡張りの壁に凭れると、自然と脳裏にはこの後待ち構えているだろう時間の事が思い浮かんでくる。
朝食を食べる前に今日は帰ってきたら話があると告げたのだが、その話はリオンも喜んでやりたい事ではなかった。それどころか可能ならば避けて通りたい事でもあった。
話の主題は恋人の父であり昨日の護衛の依頼主であるレオポルドの事になるだろうが、畢竟どうしても一つの話へと集約されてしまうのだ。
何故、ウーヴェとその家族の間に溝が出来てしまったのか。
結局辿り着く先が誘拐事件である事にやるせない溜息を零し、何度か目の当たりにした恋人の狂乱ぶりや胸が締め付けられるような涙を思い出せば、今朝の己の言葉を無かった事にしたくなってしまう。
愛する人の涙など誰が見たいだろうか。
普段は穏やかで冷静な彼だからこそ、いつも自分の傍で笑っていて欲しいのだ。
そんな彼にまた涙を浮かべさせる事になるかも知れないとの予感に重苦しく溜息を落とし、天井を見上げて辛いなぁと自然に呟いてしまう。
だが、そんな呟きの裏ではもう一人の自分が強い語気で囁いているのだ。
自らの職分を犯すような言葉を告げた彼にその真意を吐き出させろ、と。
今朝、彼自身が謝罪をしてきた様に仕事で護衛をした相手が負傷しても良かったなどと言われてしまえば、その仕事の為に必死になって働き、真新しいスーツに穴まで開けてしまった上にお互い楽しみにしていたパーティにも出席できなかった自分の立場はどうなるのだ。
いつもの彼ならばそれぐらいは簡単に想像も付く筈なのに、それが出来なかった根本には父に対する憎しみが当然あるのだろうが、そうだとすれば今朝の言葉の意味が理解出来ない事も思い出し、一体どちらを望んでいたのだろうと爪先に向けて吐息を落とす。
前夜に激高した勢いで助ける必要など無かったと呟いたが、翌朝になれば助けてくれてありがとうと告げたのだ。
リオンの仕事を思っての感謝の言葉ではない事を敏感に感じ取っていた為、恋人が己の父を本当に憎んでいるのかそうでないのかが分からずに混乱してしまうが、ドアが開いて軽快な音で合図を送った為、慌ててエレベーターから出るとただ一つ存在するドアの前に立って深呼吸を繰り返す。
いつもならば穏やかな顔で疲れを労うように抱きしめてくれる恋人だが今日はどうだろうかと滅多に考えることのない不安を思い描きながらドアベルに指先を押しつけると、程なくしてドアが開き足下に暖かな光りが溢れ出す。
「・・・ハロ、オーヴェ」
「・・・お疲れ様」
極力普段通りに笑みを浮かべて疲れたと笑えば、眼鏡の下のターコイズが細められていつも以上に思いの籠もった柔らかな声が労ってくれる。
そのいつもと変わらない雰囲気が嬉しい反面、どうしてそこまで優しくなれるのか強く疑問に思い、腕を伸ばして白い髪を抱き寄せて口付ければ、言葉に出さない思いを感じ取ったのか背中を宥めるように撫でられる。
その温もりを強さに変えようと決めてもうメシは食ったかと問いかければ、資料を探していて本に集中していたと答えられ、またメシを食わないんだからと拗ねた気分を顔に出せば素直な謝罪が胸元に零される。
「仕方ねぇかぁ・・・でも、なるべくメシは食えよな、オーヴェ」
「・・・そうする」
「うんうん。素直でよろしい」
戯けたように恋人を褒めれば腰の上に微かな痛みが芽生え、じろりと加害者を睨めば素知らぬ顔で小さく笑われる。
「この野郎」
じろりと睨み返すリオンになおも笑ったウーヴェだったが、腰にしっかりと回されている腕からは逃れるつもりはないらしく、悪戯な笑みを浮かべながらもリオンに身を寄せていた。
「なぁ、オーヴェ」
「・・・何だ」
リオンの改まったような呼びかけにウーヴェの肩がぴくりと揺れ、ああ、ウーヴェももしかすると避けて通りたいと思っているのかも知れないと気付いたリオンは、リビングのソファにウーヴェを座らせると、自らは彼の前に膝を突いて小首を傾げる顔をじっと見つめて唇の両端を小さく持ち上げる。
「帰って来るなりこんな話はイヤだろうけど、聞いてくれるか?」
「イヤなら・・・止めればどうだ?」
リオンの疑問の形をした命令にウーヴェが最後の最後で己の心に負けたように視線を逸らしながら口の中でだけ言葉を転がすが、有りっ丈の優しさを掌に載せた様なリオンの手が頬を挟んでそっと視線を重ね合わせてくる。
「オーヴェ」
諭すような声にウーヴェが唇を噛んで視線を彷徨わせるが、諦めたように溜息を一つ零してリオンの手に手をそっと重ねて目を閉じる。
「うん。・・・やっぱり俺は逃げないお前が好きだ」
この後出来れば逃げてしまいたい事が起きるだろうが、それでも逃げ出さずに一緒に向き合ってくれるお前が大好きだと額へのキス混じりに囁かれ、緩く髪を左右に振ったウーヴェは、もう一度名前を呼ばれて顔を上げて今度こそしっかりと腹を括った顔でリオンを見つめ返す。
「俺が今一番知りたいのは・・・今朝の言葉の意味だ」
リオンが呟く言葉にウーヴェの腕が無意識に引かれようとするが、腕をそっと掴んでウーヴェの手を重ね合わせるとその手を両手で包んで額に軽く押し当てる。
「お前が親父を憎んでいるのはさ、事件があったからだよな?」
もしもあの事件が無ければ、きっと今頃は違った家族の形を描き出していただろうと予測を口にすれば、手の中で重ね合わせた手が微かに震え出す。
「・・・リオン・・・それは・・・っ・・・」
「今でも憎んでいる・・・よな?」
念を押すように問いかければすかさず同意の頷きが返るが、目を細めてその様を見守ったリオンがじゃあどうして助けてくれてありがとうと言ったと、今一番知りたい真意だと確信しつつ問いかけると先程よりも強く腕が引かれるが、離さないことを教えるようにしっかりと両手に力を込めれば、動揺している事が一目で分かる程ターコイズの虹彩が忙しなく左右に揺れる。
心の動揺をじっと見守ることで冷静さを取り戻して欲しいと伝えるが、ウーヴェの本心を知る為には動揺を煽った方が都合良いことに気付き、殊更声に陽気さを込めてどうしてなんだと嗾ける。
「理解出来ないね。そこまで憎む相手だったら怪我をすればいいって思わないか?」
お前は怒るだろうが、いっその事死ねとさえ思ってしまうと肩を竦め、嫌いな相手の顔など見たくもないと冷たい顔で笑ったリオンの前、ウーヴェの顔から一瞬にして血の気が失せてしまう。
その先に来るものをある程度予測をしているリオンは、それともそれは俺が酷い人間だということなのかなと問えば、ウーヴェの唇が震えながら開閉するが言葉は流れ出すことはなかった。
このまま沈黙するのではなく自らの言葉で語らせようと決めているリオンがぎらりと強い光を双眸に湛え、眉間に皺を刻むウーヴェの顔から眼鏡をそっと外してテーブルに置くと、再度手を包み込みながら伏せられようとする顔を覗き込む。
「なぁ、そうだろ、オーヴェ?新聞やテレビで記事を目にしただけでも不機嫌になるじゃねぇか。それほど嫌いなんだろ?────だったら、どうして助けてくれてありがとうと言った?」
その胸の裡で溢れる思いを言葉にしろと言外に告げるリオンだが、ウーヴェの両肩が激しく上下したことに目を細め、あと少しで感情の堤防が決壊する事に気付くとそっとその背中を押すように声を潜める。
「それともさ・・・俺が仕事をミスって親父が死んだ方が良かったか?ん?」
仕事でミスを犯し刑事としての実績に汚点を残すような事を望んでいるのかと問いかけた刹那、リオンの手の中に包まれていた手が振り解かれて胸倉が掴まれるが、その苦しさを顔に出すことなく平然と間近にある蒼白な顔を見つめれば、震える唇から同じく震える声が流れ出す。
「だ・・・れが・・・っ・・・!」
そんな事を思うのかと震える声で否定されるが、本当はどちらを望んでいたんだよと嗾けるように囁くと、一際荒い呼気が二人の間にこぼれ落ちる。
「そ・・・んな、こと・・・っ・・・!」
「だからぁ、そんな事ってどれのことだよ?言えよ、オーヴェ!」
さすがに焦れて限界が来た-風を装った-リオンが目を光らせてウーヴェを睨み付けながら小さく怒鳴ったその瞬間だった。
「とう、さんが・・・し・・・っ、など、誰も思わない・・・っ!」
本当に途切れ途切れの言葉が震える声となって流れ出し、己の思惑通りになってきた事に内心で笑みを浮かべたリオンだったが、次いで聞こえてきた言葉とウーヴェの様子にその笑みが凍り付きそうになる。
リオンの胸倉を掴んでいた手で口を覆い隠し、たった今自分が呟いた言葉が恐怖を招いたのか、一見するだけでも分かる程の恐怖に顔を歪めて震えだしたのだ。
「オーヴェ?」
自らが描いていた展開とは全く違う方へと足を踏み出した事に気付き、慌てて名を呼んだリオンの声に口を覆っていた手で白い頭を抱え込んだかと思うと、立てた膝の間に頭を押し込んで身を守るように小さくなりながら口の中で何かを呟き、その言葉を聞き取ろうとリオンが顔を寄せると、震える微かな声がごめんなさいと繰り返していた。
何を謝る事があるんだと問いかけようとするリオンだが、もう言わないから、だから叩かないでと呟かれて目を瞠り、恋人の精神が過去に囚われ掛けている事に気付いて顔色を無くしてしまう。
「・・・が・・・ぃ・・・もぅ、言わない・・・から・・・っ!」
父様やノルが大好きなどともう言わないから叩かないでと言われ、咄嗟に手を伸ばしてウーヴェの肩を掴んだリオンだが、手の中で震えていた身体がびくんと竦み、逃れようとソファの上で藻掻くのを目の当たりにして唇を噛み締める。
ウーヴェの中に存在する消し去ることの出来ない過去へと通じる扉。その扉の鍵は日頃の彼ならば意識下で厳重に管理できているはずであり、またそうするように長い年月を掛けて立ち直ってきたはずだった。
なのにそれが出来なくなった事に気付き、今では癖になっているウーヴェの喉元から胸元に注目してしまうが、そこに予想通りの痣を発見して間違いなく過去に脅えている事を確認したのだが、そうとなればしなければならない事は一つだけだった。
今ウーヴェがどこにいるのかを再確認させ、過去の辛く苦しい事件から解放されてもう誰からの暴力にも脅える必要がない事を思い出させればいいのだ。
どうかもう過去の声に痛みに苦しまないでくれ。もう解放されて良いしまたそうなっている事を思い出してくれと願い、そっと手を挙げればそれだけでウーヴェが再度腕で頭を覆い隠して身体を小さく丸める。
日常的に虐待を受けている子供達や受けていた大人達と同じ保身の行動を目の当たりにしてしまえばやはり冷静さを保つのは難しく、腹の中では過去にウーヴェに対して暴力を振るった男女への怒りがマグマが吹き出すように弾けては蓄積されていた。
だがその怒りを表に出せば今以上にウーヴェを脅えさせる事が分かっている為、仕事では滅多に使うことのない忍耐をフル動員させて堪え、今度はウーヴェの視界にしっかりと留まる位置で手を伸ばして震える腕に手を重ねる。
「あー。そう言えば前に思ってる事を口にすれば俺が死ぬって言ってたよな、オーヴェ」
半年ほど前になるだろうか、ウーヴェが今も見せている過去の一端を初めてリオンに見せた夜、赤い涙を流しながら思いを口にすればお前が死ぬと告げられたことを思い出し、何の話をするのかを考えることも出来ないでいるウーヴェに向けて自信に満ちた男の貌で太い笑みを唇に湛えて不安に揺れるターコイズを見つめる。
「残念だったなぁ。死んでねぇぜ、俺」
あの後、俺は誰にも殺されなかったし傷付けられもしていないと笑い、脅えから身を引こうとするウーヴェを安心させるように一つ頷いて肩から背中へと手を回して胸に抱き寄せる。
「お前を殴った奴らはもう誰もいない」
だからもう過去からの声に脅える必要はないと優しく強く断言し、腕の中で細い身体がぴくりと揺れた事に気付いて白い髪に口を寄せる。
「今はもうお前を傷付けるヤツはいない。ここにいるのは俺とレオだけだ」
背後で鎮座するテディベアを手繰り寄せてウーヴェの横の床に座らせたリオンだが、声の陽気さとは裏腹に真摯な思いを込めてだからもう大丈夫なんだと囁き、のろのろと顔が上げられたことに気付いて無意識の吐息を零す。
「お前が思ったことを口にしても誰も傷付かないし死なない」
だからそんな風に堪える必要はない、思っている事を言えば良いんだと告げ、碧の瞳が大きく瞠られたのを確かめるように顔を覗き込んで目尻のほくろに口付ける。
「本当はさ、親父が死ねばいいなんて思ってねぇんだろ、オーヴェ?」
今日一日心の中で抜けない棘となっていた言葉を脳裏で反芻しつつ問いかけて返事を待てば永遠にも感じてしまう時間が経過した後、肯定とも否定とも取れるように頭が小刻みに揺れるが、流れ出すのはもう言わないから叩かないでと言う辿々しい言葉だけで、リオンがウーヴェの肩を再度抱き寄せて髪に口付けると肩口に顔を押しつけるように身を寄せてくる。
その背中へと腕を回して抱きしめてやれば、お前が仕事でミスをすればいいなどと思わないと、今度はさっきよりもはっきりとした声で否定され、信じてくれと悲しそうに呟くウーヴェをただ抱きしめ、分かったからもう良いと悲しい声を遮るように痩躯を抱きしめ続ける。
「もう分かったから・・・無理に言わせようとした俺が悪かった」
心の奥底で眠っている本心を吐き出せようと追い詰めた事を心底反省し、許してくれと髪に口付けるとようやく落ち着きを取り戻したのか、ウーヴェがリオンの背中へと手を回してシャツをきつく握りしめる。
「・・・リ、オン・・・信じてくれ・・・っ、嘘じゃない」
「うん、分かった。もう良い」
肩に顔を押しつけている為にくぐもった声で告げられ、その声に滲む色が悲しくて頬を髪に押し当てて背中を抱きしめれば安心したのかどうなのか、ウーヴェの口から小さな子供のような吐息が一つこぼれ落ちる。
本音を吐き出させて少しでも楽になるのならと思ったが、結果はリオンが考えていたものとは違う形で現れてしまい、自分ならば何とか出来るかも知れないと言うある種の思い上がりから恋人の傷口を深く抉ってしまった事にも気付いてきつく目を閉じる。
「ごめん、オーヴェ」
辛い過去を思い出させてしまって悪かったと謝罪をすると、背中に回されていた手に力が込められて伝わる温もりが許してくれるようだった。
いつか話をするから待ってくれと何度も言われていたが、やはりまた今回も待てなかったと己の早急さを詫びて手触りの良い髪を何度も撫でると、腕の中の身体から力が抜けていく事が分かり、身体全体で支える為にソファへと倒れ込む。
まだ震えが残る背中を安心させるように何度も撫で、もう大丈夫とごめんと繰り返し囁きかければ次第に震えが収まり、リオンの胸にウーヴェが頬を押し当てて溜息を零し出す。
「・・・リオン・・・すまない・・・」
「お前は何も悪くない。だから謝るな」
例えお前がどんな顔を見せたとしても受け止めることを思い出せるように背中を撫でれば、身体の脇に手が着かれてウーヴェが上体を持ち上げる。
「お前が・・・父の護衛をした事は・・・仕事だとしても感謝しているし、助けてくれた事も感謝している。ただ・・・」
お前が何度も言えと迫ったが、父に対する思いはまだ上手く纏まらないんだと、まだ少し顔色は悪いが普段のウーヴェに戻ったことを示すように落ち着いた目でリオンを見つめ、今日はベルトランにも同じことを言われたと告げて目を伏せる。
「同じ事?」
「・・・父に対する思いと、何も連絡をしてこなかったお前への怒りを混ぜて八つ当たりをするなと言われた」
「俺とベルトランがそう思うって事はさ、やっぱりあの八つ当たりは良くないって事だな」
これ以上ウーヴェを傷付けないようにと気遣っているのか、リオンが殊更明るい声で昨日の八つ当たりについて詰れば、悪かったと素直にウーヴェが謝罪をし、その謝罪は素直に受けましょうとリオンが片目を閉じる。
「俺が連絡をしなかったことも許してくれるか?」
「・・・うん」
「良かった。・・・頭は痛くないか?」
過去を垣間見たときに頭痛を起こす事を教えられ、またその姿を何度か見たことのあるリオンが白い髪を掻き上げてやりながら問えば少しだけ痛むと答えられ、起き上がろうとするのをウーヴェがやや躊躇いがちに押し止める。
「・・・このままが良い」
「分かった」
ウーヴェの手に押し止められてソファに再度寝転がれば、そっとウーヴェが胸に耳を押し当てるように横臥した為、髪を撫でて頬を撫で、だらりと垂らされている手を取って重ね合わせると軽く指を折って手が握られる。
「・・・リオン、父のことを・・・親父と呼んでいるのか?」
「あー、うん」
いつものリオンらしくない歯切れの悪い言葉にウーヴェが小首を傾げて顔を覗き込めば、何とも言い表せない表情を浮かべたリオンが悪いと自嘲する。
「・・・初めてさ、親父って呼びたい人に出会ったなぁって」
今までの人生で親と呼びたい人に出会った事はないと苦笑したリオンの言葉にウーヴェが軽く目を瞠り、それが父だったのかと低く問えば目を伏せたリオンが頭を上下させる。
「俺の親がどんな奴かは知らねぇけど、親父みたいな人が親だったら良いなって思った」
もっとも、レオポルドの様な人が子供を産み捨てる女と一緒になるとは考えにくいと自嘲を濃くすれば、聞くのが辛いと言うようにウーヴェが顔を顰める。
「・・・リオン」
「うん。だから、親父の様な人に憧れる」
心の奥底で彼に対する憧憬や羨望が混ざり合って複雑な色を成した上で親父という言葉になって現れたと素直に告白し、俺のような孤児が何を言っているんだろうなと呟くと、ウーヴェが激しく頭を振ってその言葉を否定する。
「自分で自分を貶めるようなことを言うな・・・!」
「・・・うん」
ウーヴェが身体を起こしたのと同時にリオンも起き上がり、ソファで二人向き合って目を見つめるが、ウーヴェが視線を逸らしたかと思うとリオンの肩に額を載せるように身を寄せてくる。
「お願いだ・・・もう、そんな事を言うな、リオン」
「約束する」
ウーヴェの背中を撫でながら約束をし、白い髪が上下に揺れた事に安堵の溜息を零したリオンは、視線を重ねるように顎を指で掬って目尻に口を寄せると、震える瞼がターコイズを覆い隠す。
「・・・・・・ん・・・」
軽く重なる唇が次第に深く角度を変えて重なり、息も上がりそうなキスへと変化をしていくが、その時ただ呆然としてしまうような音が二人の間で重なり合って産声を上げる。
「!!」
「・・・・・・メシ、食おうか、オーヴェ」
その音の発生源はリオンとウーヴェの二人だったが、一方は言葉を無くすほど真っ赤になった挙げ句に口を魚か何かのようにぱくぱくとさせてしまい、もう一方はと言えば己の腹を見下ろして情けない顔で小さく笑う。
「・・・・・・ぅん」
「俺さ、パスタ食いたい。パスタソースあるか?」
「・・・・・・パントリーに・・・ある」
消え入りそうな弱々しい声がリオンの言葉に答えるが、その声の主はへらりと笑みを浮かべるリオンを見ることなくそそくさとソファから立ち上がり、キッチンとリビングの間にあるパントリーへと大股に歩いて行く。
その背中に一つ肩を竦めたリオンだったが、気合いを入れるように頬を一つ叩いて立ち上がり、レオポルドの事について己の手法の拙さを反省し、平静さを装った顔をドアから出してパスタソースの味を問いかけてくるウーヴェに満面の笑みでトマトソースと答え、いつもと同じように二人きりでも陽気な食事の時間を過ごすのだった。