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その日、鬼塚理人は焦燥の中にいた。 3年生が引退し、テニス部の新キャプテンに任命されたばかり。
練習メニューの作成や他校との練習試合の調整に追われ、気づけば周囲は夜の帳に包まれていた。親が絶対の権力として敷いた「9時」という門限が、すぐそこに迫っている。
(クソッ、高校生にもなって門限9時とか、ふざけんな!)
内心で毒づきながら、初夏の生温い夜風を切り裂き、全速力で街を駆け抜ける。コートで鍛えた脚力で、アスファルトを蹴る。
梅雨明け特有の、むせ返るような草木の匂いと、肌にまとわりつく湿り気を帯びた熱気が、理人の苛立ちをさらに煽った。
いつもなら大通りを突き進むが、一刻を争う。近道を選び、街灯の乏しい路地裏へ一歩足を踏み入れた――それが、全ての終わりの始まりだった。
「いやっ……!」
都会の喧騒の隙間から、押し殺したような悲鳴が鼓膜を震わせた。理人は反射的に足を止める。
「やっ……、やめてくださいっ……!」
小さな神社の境内。湿った土の匂いが漂う暗がりに目を凝らすと、そこには見覚えのある制服を着たガラの悪い男たちが二人。
その足元で、ひ弱そうな少年が地面に這いつくばり、ガタガタと震えていた。
(カツアゲか。面倒な……)
関わり合いたくない。何より時間がない。理人は冷めた目で踵を返そうとした。男なら、自分の身くらい自分で守るべきだ。 だが、立ち去ろうとした刹那。
恐怖に顔を歪めた少年と、一瞬だけ目が合った。 縋るような、絶望的な、それでいてどこか熱を帯びた視線。その瞳が、理人の足を地面に縫い付けた。
「……チッ」
重い舌打ちを一つ。理人は獲物を狙う猛獣のような鋭い目付きで、男たちに向き直った。
「――おい。そいつ、嫌がってるだろ。さっさと離してやれよ」
低く、ひび割れた声。二人の不良が、忌々しそうに振り返る。
「あァ? なんだてめぇ……」
「別に、誰でもいいだろ。生憎、時間がねぇんだ。悪く思うなよ」
言うが早いか、理人は最短距離で踏み込んだ。テニスのサーブで培った体幹を活かし、手前の男のみぞおちへ、容赦のない蹴りを叩き込む。
「……ガハッ!?」
強烈な一撃を食らい、男は言葉にならない悲鳴を上げて崩れ落ちた。
「この野郎っ!」
仲間をやられ、頭に血の上ったもう一人が殴りかかってくる。理人より一回り大きい体格差を過信したのだろう。だが、理人はその腕を無造作に掴むと、ラケットを振るような鋭い回転力であっさりと捻り上げ、男を地面に叩き伏せた。
抵抗を許さず、泥に塗れた男の頭を軍靴のような勢いで踏みつける。
「があっ……!」
男の身体がビクリと大きく震え、そのままぐったりと弛緩した。
「ハッ、大したことねぇな……」
理人はつまらなそうに吐き捨て、足元の肉塊を軽く蹴飛ばした。コートでの鬱憤を晴らすには、この程度の喧嘩では物足りない。
――だが、理人はまだ知らなかった。この二人など、彼らが属する「暴力のヒエラルキー」の最底辺に過ぎないことを。
「おい。大丈夫か?」
呆然と座り込んでいる少年に声をかけるが、返事がない。仕方なく視線を合わせるため、理人は少年の前に屈んだ。
ふわふわとした栗色の髪。中性的で華奢な輪郭。 そして、何よりも目を引いたのは、ぱっちりと開かれた二重の瞳だ。長い睫毛に縁取られたその瞳は、暗がりの中で宝石のように怪しく輝き、理人をじっと見つめ返してくる。
「あ、あの……ありがとうございました……!」
先に沈黙を破ったのは、少年の方だった。勢いよく頭を下げる姿に、理人は毒気を抜かれる。ヤンキーに因縁をつけられることには慣れているが、こんなに真っ直ぐな感謝を向けられたのは、生まれて初めてだった。
「……礼を言われるようなことはしてねぇ。怪我がないならさっさと帰れ」
ぶっきらぼうに吐き捨て、理人は再び時計を見た。8時半。もう限界だ。 背を向け、逃げるようにその場を去ろうとした時――。
くん、と制服の裾を引かれた。
「……んだよ」
振り向くと、そこには瞳をキラキラと輝かせた少年が、熱に浮かされたような表情で立っていた。心臓の奥が、嫌な予感で小さく疼く。
「僕はケンジ。……名前、教えてください。貴方の名前!」
「……鬼塚だ」
「下の名前は?」
「……理人」
「リヒトさん……素敵。リヒトさんって、本当に、本当にかっこいいですね!」
頬を赤らめ、無邪気に褒めちぎってくるケンジ。その真っ直ぐすぎる羨望の眼差しに、理人は言いようのない居心地の悪さを感じた。面映ゆい。だが、それ以上に……。
「……じゃ、俺は行くから」
逃げるように足を早める理人に、ケンジは「捨てられた子犬」のような潤んだ瞳で食らいついてくる。
「えっ、もう行っちゃうんですか!? せっかく出会えたのに……」
「ああ、門限がある。お前も、家はどこだ。送ってやるからさっさと帰れ。あいつらが目を覚ましてまた絡まれたら、寝覚めが悪い」
「……リヒトさんって、顔は怖いけど、本当はすごく優しい人なんですね」
「喧嘩売ってんのか?」
「まさか! 嬉しいんです。こんなに優しくされたこと、今までなかったから……」
何処か嬉しそうにはにかんだ笑顔を見せるケンジに苦笑しつつ、理人はその細い手を引いて歩き出した。
こうして、理人とケンジの奇妙な交流が始まったのである。
――それが、逃れられない地獄へのカウントダウンだとも知らずに。