テラーノベル
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昨夜は結局、門限には間に合わなかった。 玄関を開けた瞬間から始まった母親の、鼓膜を削るような嫌味と詰問。こちらの言い分など最初から求めていない、一方的な言葉の暴力に、理人はただ心を無にして耐えた。
母にとって、子供は自分を着飾るための「装飾品」に過ぎない。 学業もスポーツも、常に頂点に君臨して当たり前。そこに至る過程や理由は不要で、結果が出せなければ「欠陥品」として指弾される。
反論すれば、待っているのはヒステリックな絶叫の嵐だ。 だから理人は、奥歯を噛み締め、嵐が過ぎ去るのをじっと待つ術を覚えた。それが鬼塚家の日常であり、彼が呼吸をするために選んだ唯一の生存戦略だった。
父はといえば、家族という集団にすら興味がない仕事人間だ。最後に言葉を交わしたのがいつだったか、記憶を掘り返すことすら時間の無駄に思える。
(安らぎなんて、どこにもねぇな……)
家はただ、泥のように眠り、空腹を満たすだけの無機質なハコだ。 翌朝、重い足取りで玄関を出ると、暴力的なまでの夏の光が視界を白く染めた。 じりじりと肌を焼く太陽、むせ返るような草木の匂い。蝉のけたたましい鳴き声が、例年以上の酷暑を予感させ、理人の溜息は熱気に溶けて消えた。
満員電車の蒸せ返る汗の臭いと、女たちの鼻を突く香水の混ざり合った悪臭に顔をしかめる。
「あ、あれ? リヒト君!」
不意に、澱んだ空気を切り裂くような爽やかな声がした。
「あ?」
しかめっ面のまま振り返ると、そこには昨日助けた少年――ケンジが立っていた。
朝の光の下で見れば、その容姿の整い方は異常なほどだった。透き通るような白い肌に、柔らかそうな栗色の髪。大きな瞳は、純粋さと危うさが同居している。 華奢に見えるが、意外にも背は高く、制服の上からでも分かるほど肩幅もしっかりしている。中性的なその佇まいは、制服がなければ性別を見失いそうなほどに美しい。
「おはよう! 同じ電車だったんだね。なんだか嬉しいなぁ」
ケンジがこぼした笑みは、眩いほどに無邪気だった。
「……ああ。今日は朝練がねぇんだ」
短く答え、理人は視線を窓の外へ逃がした。 人付き合いは、テニスのラリーよりも苦手だ。昨日、一度助けただけの間柄なのに、土足で心に踏み込んでくるような距離感に調子が狂う。
「ねぇ、部活は何をやってるの?」
「テニスだけど」
「へぇ! ウチの学校、テニス部は有名だよね。今度、観に行ってもいい?」
期待に満ちた、湿り気のある視線。 理人はわずかに気圧され、逃げるように言葉を投げた。
「……好きにしろ」
「本当!? やったぁ!」
子供のように喜ぶケンジを見ていると、理解に苦しむと同時に、胸の奥がざわついた。
「リヒト君って本当にかっこいいよね……。テストも学年1位だったでしょ? 喧嘩も強くて、勉強もできて……完璧すぎるよ」
熱っぽく語るケンジの瞳は、まるで信仰対象を見上げる信者のようにキラキラと輝いている。 家庭では「出来て当たり前」と切り捨てられる実績を、こうも真っ直ぐに全肯定されることに、理人はひどく面映ゆい思いを抱いた。
駅に着き、雑踏に流されるままホームへ降りる。その時だった。
「あれ? めっずらしー。ケンジが男と話してんじゃん」
「ホントだ。あいつ、蓮のペットじゃなかったっけ?」
冷ややかな嘲笑を含んだ声が、理人の耳に突き刺さる。 その瞬間、ケンジの柔らかな表情が、氷を張り詰めたように一瞬で凍りついた。
(蓮のペット? 何の話だ……)
「案外、そっちの男に乗り換えたんじゃねぇの?」
下卑た笑い声。理人の胸の内に、黒い不快感が鎌首をもたげる。 ぎろり、と声の主を射抜くような鋭い視線で睨みつけると、男子生徒たちは情けない悲鳴を漏らして逃げていった。
「……くだらねぇ。行くぞ」
立ち尽くすケンジの手を、理人は迷いなく引いた。
「ああいうのは無視しとけばいいんだ。反応するからつけ上がる。相手は宇宙語でも喋ってると思えばいい」
「宇宙語って……ぷっ、アハハッ! 何それ」
ケンジはきょとんとしていたが、やがて腹を抱えて吹き出した。 その笑い声は、先ほどまでの「凍りついた表情」を無理やり上書きするように響く。
「リヒト君って面白いね」
「あ? どこがだよ。嫌な言葉なんて、耳に入れるだけ損だ」
「……うん。そうだね」
ケンジは、何かが吹っ切れたような清々しい笑顔を浮かべ、小さく呟いた。 だがその瞳の奥には、理人にはまだ見えない、深く暗い「澱」が沈んでいるようだった。
昇降口で別れ際、背中にかけられた小さな「……ありがとう」という囁き。 理人はそれをあえて無視し、自身の教室へと向かった。
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