「母さんはね。
ぼくのために戦ってくれているんだ。ううん」
一拍置くと少年はきつく前を見据えたまま、
「戦う準備を進めている。
だから、逃げずにぼくも、立ち向かいたい」
そのように決意を語った。
キャンプの一泊旅行の帰り道。後部座席に座る鷹取有香子は疲労のため眠っており、……また彼女が軽く足を痛めているがゆえに後ろの席にゆったり座ったほうがいいだろう、との理由で後部座席に座っている。
いつも頑張るママには内緒で交わされた、広岡と詠史の会話。広岡は、真剣に少年の弁に耳を傾ける。
鷹取有香子の息子である詠史は、驚くべき事実を広岡に打ち明けた。なんと、じいじばあば宅にて親戚一同が集まるときに、必ず詠史はいじめられているという。
最初は自分がいじめられていることに気づかなかった。けど、鷹取の実家では自分だけアイスを貰えなかったり、いとこたちのなかで置いてきぼりにされたり、言われるがままにボール当てをしていると突然いとこが泣き出して、「詠史くんにされた……」と訴える。
親戚一同が自分に向ける眼差しが徐々に険しいものに変わっていくのが分かった。最初は、いとこたちのなかで最年少であるがゆえに、可愛いねえ、と可愛がられることもあった。
いまは昔だ。以来、いとこたちと距離を置けば、詠史くんに避けられている、といとこが言い、かといって一緒に遊べば、仲間はずれにされたり、詠史がいじめているように仕向けられ、また大人たちから冷ややかな目を向けられる。
それから、詠史の母親である、鷹取有香子がいつも台所に立たされたり、お酒を強要されたり、お酌をして回るのもなんだか見ていて気分が悪かった。言い方はなんだがあれでは奴隷扱いだ。パパは守るつもりがないのか? と苛立ちさえ感じたものだ。
夜、詠史がトイレに立ったときに、両親の会話をこっそり聞いたことがある。リビングでだらだらとテレビやスマホを見ながら大音量で流したり、でかい独り言や文句を吐く。酒が入ったパパはいつも機嫌が悪い。酒を飲むとみんな気が大きくなり、声も大きくなるから詠史は酒を飲む親戚が嫌いだった。
「おいなんだよおまえ。詠史のやつ、まーた明日奈《あすな》ちゃんのこといじめたじゃねえか。あいつ人間の屑だな」
「……」無言を貫く母親の様子に、詠史はどきりとした。彼はまだ、この悩みを打ち明けていない。
しばしの沈黙の後に、母はこのように言った。
「なにも分かっていないのねあなたは」軽蔑の入り混じったような母の声を詠史は初めて聞く。「理不尽に加害者に仕立てあげられた、本当は被害者である、あの子の正義を、わたしは信じるわ」
「はぁ⁉ なに言ってんだてめ。親が親なら子も子だな!!」ビールの入ったグラスを叩き割る音がここまで聞こえた。詠史は、身を固くする。「本来ならおめーが母親としてちゃーんと謝罪しなきゃなんねーところを、おれが頭を下げたんだぞッ! このおれがッ!!」
……ああ、駄目だ、と詠史は思った。この状態の父になにを言っても通じない。
だから詠史は、酒を飲む人間が嫌いだった。あからさまな差別をしてくるいとこたちの意見をみなが鵜呑みにし、有香子や詠史を責め立てる……誰も、詠史が被害者だということに気づかなかった。詠史が必ず悪者にされる。
理解されなくてもいい、と思っていた。母の立場はあの場所ではあまりに弱い。こき使われて、酒を持ってくるよう言われ、黙って従う母の姿に詠史は思うところがあった。まるで自分の姿を見ているようだと。
「お母さんも戦っているんだね。詠史くんも勇気を出して……偉いよ」
まるで父親のように褒めて、目を細める広岡に、理想の父親の姿を見た気がした。詠史は、瞬きをする。
「……話を聞く限り。きみのいとこや親戚一同がしていることは正しいとは言えない。ただ、ぼくはあくまで第三者だから。安易によその家庭のご事情に口出しは出来ない。
それでも」
と広岡は、やさしい眼差しを詠史に向け、
「よく、打ち明けてくれたね。
そんなひどい仕打ちによく、耐えた。
詠史くんは頑張っている。
誰が信じなくても。ぼくは、きみのことを信じるよ詠史くん」
あふれ出る涙は抑えきれなかった。ずっと。ひとりで抱え込んでいて、苦しかった。信号が止まり、車が停止したときに、広岡が、詠史の頭を撫でてくれた。まるで本当の父親のように。
本当はいとこたちは自分と純粋に仲良くなりたくて、ああしているのではないのか――自分が親戚一同の言う通りで加害者なのではないか。勘違いをしているのではないか。悪いのは自分なのかと、人知れず詠史は葛藤していた。
闇に閉ざされた詠史の苦しみにやさしいひかりが当てられる。広岡の言葉は光明となって、詠史のこころを癒やした。
今回、キャンプで、普通の子どもたちと普通にやり取りをして。水遊びや鬼ごっこをして気楽に過ごせて、自分が、じいじばあばのところにいるよりも自然体でいられることに詠史は気づいた。改めて、親族宅の異常さを思い知らされたかたちだ。
「ぼくは、短い時間だけれどきみのことを見てきている」とハンドルを手にした広岡は、「きみは、誰かになにかをされたら相手のほうへとからだをきちんと向けて『ありがとうございます』とお礼を言っている。食事の所作もきちんとしているし、周りへの気遣いも忘れない。……いかにきみが、周りから与えられた愛情や期待に、きみなりに応えているのかがよく分かったよ。
きみのような、お母さんと同じで、品格を持つ人間が。他人のこころを汚すはずがない。
まだ十歳なのに。きみのマナーのよさにおじさんはこころを打たれたよ。大事なことを思い出させてくれてありがとう。詠史くん。
なにか――困ったことがあったらいつでも相談に乗るから」広岡はウィンクをし、「パーキングエリアでトイレに行ったら、おじさんと連絡先を交換しよう」
後ろで眠る有香子は、広岡が、詠史を励まし、勇気を与えてくれていたことを、後に知ることとなるのだった。このときはまだ知らず、すやすやと、子どものように穏やかな寝息を立てていっとき、悲しみを忘れて眠っていた。
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