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かんな
あかね ♛❤️♛
「お疲れさまでした」
終業のチャイムとともに、与えられた業務を機械的に終えた穂乃果は、早々に着替えを済ませてタイムカードを切り替えた。
一刻も早く、この空気の澱んだ職場から離れたくてたまらない。
夜勤明けで顔を合わせた里奈を捕まえ、詰め寄ってみたけれど、結局は全く話にならなかった。
証拠がないという事実が、これほどまでに精神を削るものだとは思わなかった。どこまでもふてぶてしく開き直る二人のせいで、穂乃果の心は限界まで軋み、嫌な音を立て続けている。
まだ、他の病棟までは知れ渡っていないようだったけれど、この調子だとあと二日もすれば他の階にだって広まっているかもしれない。そうなったら……。考えるだけでぞっとする。
とにかく、ここではないどこかへ逃げ出したい。
足早に職員通用口を抜けようとした、その時だった。
「安住さん!」
背後から飛んできた声に、肩がびくんと跳ねる。
振り返ると、彩美が人懐っこい笑顔で手招きをしていた。
「彩美ちゃん……?」
「お疲れさま。安住さん、顔色悪いよ。大丈夫?」
「え? ……うん。ちょっと寝不足で、疲れてるだけだから。大丈夫よ」
引きつった笑みで返したが、彩美は穂乃果の腕を絡め取るように距離を詰めてきた。
「そうなの? ねぇ、今日暇かな。もしよかったら、これからご飯でも行かない? 真鍋先生との馴れ初めとか、婚約の話、もっと詳しく聞きたいし!」
彼女には全く悪気がない。それがわかっているからこそ、余計に逃げ場がなかった。
今はその名前を聞くだけで、耳の奥を泥で撫で回されるような不快感がこみ上げてくる。
「ごめん。今日は、ちょっと……外せない急ぎの用があって」
震えそうになる声を必死に抑え、穂乃果は彩美の視線を避けるように顔を伏せた。
「ふぅん? あ、そっか! ごめんねぇ。全然気が付かなくって。婚約したんなら、いろいろ忙しいよね。準備とか、式の相談とか!」
「えっ、あっ……違うのっ!」
慌てて首を振るが、彩美は「わかってるって」と言わんばかりに茶目っ気たっぷりにウインクしてみせた。
「いいの、いいの。気にしないで! 幸せのお裾分け、また今度じっくり聞かせてよ。お幸せにね、安住さん!」
盛大な勘違いを抱えたまま、「じゃあね!」と明るく手を振って、彩美は軽やかな足取りで去っていった。
夕暮れの病院のロータリーに、穂乃果だけが取り残される。
(違う……。本当に、違うのに……)
追いかけて叫びたかった。けれど、何を言っても今の職場の空気は変えられないだろう。
直樹がばら撒いた「婚約」という名の呪いが、じわじわと自分の外堀を埋め尽くしていく。
呼吸が浅くなる。冷たい風が頬を打つのを感じて、穂乃果は縋るようにスマートフォンを取り出した。
そうだった。今夜はナオミから手伝いを頼まれていたのだ。
画面に映る、無機質な待ち合わせの連絡。それを見つめているだけで、こわばっていた指先がわずかに震えた。
「――……っ」
何故だろう。別に、何か特別なことを期待しているわけではない。
あんなに毒舌で、自分勝手で、振り回されてばかりなのに。今はただ、あの嘘のない鋭い瞳に見つめられたい。
直樹が塗り固めた「良識」や、里奈が演じる「友情」という名の嘘。そんな反吐が出るような茶番を、あの人はきっと鼻で笑って、くだらないって一蹴してくれるはずだ。
肌が粟立つような寒さの中、穂乃果は駅へと急いだ。
重い扉の向こう側、琥珀色の光に満ちた『BLACK CAT』だけが、今の自分が呼吸を許される唯一の場所に思えてならなかった。
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