テラーノベル
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BLACK CATの重い扉を押し開けると、低く沈んだジャズが流れ込んできた。
カウンターの中でグラスを磨いていたナオミが、顔だけを上げる。
「随分遅かったのね」
「……すみません。少し、手こずって」
「別に責めてない。事実を言っただけよ」
ナオミはグラスをカウンターに置き、穂乃果をまっすぐに見た。全て見透かされそうな瞳に見つめられるとなんだか居心地が悪い。 ナオミが纏うブラックのワンピースに身を包んだ姿は骨格のしっかりした肩のラインが、ワンピースの黒に溶けて、妙に目を引いた。
「疲れてるとこ悪いけど、早速着替えてきてちょうだい」
「えっ? 私が、ですか?」
「そうよ。他に誰がいるって言うの……私服で仕事したいって言うなら止めないけど、その地味な恰好じゃねぇ……」
ナオミは鼻先で笑うと、カウンター越しに穂乃果の襟元を長い指で弾いた。
穂乃果は思わず自分の服を見下ろす。オフホワイトのタートルネックに、濃いチャコールグレーのスラックス。足元はローヒールのブーツ。防寒と動きやすさだけを考えて選んだ、十一月の通勤スタイルそのままだった。
悪くはない、と思っていた。でも確かに、BLACK CATのカウンターに立つには少し、生活感が勝ちすぎているかもしれない。
「……ちょっと地味だったかもしれませんね」
「ちょっと、ね」
ナオミの返しは容赦がない。
「奥に用意してあるから。湊に声かけて」
それだけ言って、ナオミはまたグラスに視線を落とした。会話終了、という空気だった。
けれど、「湊」と呼んだ時だけ、声のトーンが少しだけ低くなったように感じたのは気のせいだろうか。
「わかりました」
小さく頷いて、穂乃果はバックヤードへ続く小さな扉を開けた。
狭い空間に衣裳箪笥と鏡台が並んでいる。すでに準備されていたらしい洋服を見つけるのに、そう時間は掛からなかった。
ハンガーラックから、その一着を手に取る。 柔らかい光沢を放つ、ライトブルーのシャツワンピースだった。
ボディラインを強調しすぎないストンとしたストレートのラインだが、襟ぐりと袖口には控えめなフリルが施されている。清楚でありながら、どこか凛とした、媚びない気品を醸し出すデザインに、思わず息を呑む。
(……綺麗。でも、これ……)
正直言って、胸が躍るほど可愛いとは思う。けれど、同時に不安が胸を掠めた。二十九歳の自分が着るには、少しばかり……いや、流石に憚られるのではないだろうか。
直樹にはいつも「年相応の落ち着いた格好をしろ」と言われ、無難な地味色ばかりを選ばされてきた。その呪縛が、伸ばしかけた穂乃果の手を、透明な壁のように阻む。
だが、他に洋服らしいものは見当たらない。
意を決して、穂乃果はタートルネックに手をかけた。生活感の象徴だった厚手の生地を脱ぎ捨て、下着一枚になった、その瞬間だった。
バックヤードの扉が、音もなく開いた。
「ナオミさん、さっきの伝票なんですけど――」
入ってきたのは、仕立てのいいモーニングコートを完璧に着こなした青年だった。
短く整えられた黒髪に、涼しげな目元。女性なら誰もが振り返るような、爽やかで端正なルックス。
目が合った。
「――――っ!!!」
悲鳴すら出なかった。穂乃果は真っ赤を通り越して、耳まで熱が噴き出すのを感じながら、脱いだばかりの服を抱きしめてその場に蹲った。
「わ、わああ! すみません、今、着替えてて、あのっ、湊さん、ですよね!?」
パニックで声が裏返る穂乃果。一方、湊と呼ばれた青年は、驚いたように目を丸くしたが、すぐに困ったような、けれど春の陽だまりのように優しい笑みを浮かべた。
「……驚かせちゃいましたね。すみません、入るタイミングを間違えました」
湊は慌てて背を向けるでもなく、けれど穂乃果の視線を守るように、さりげなく手近なガウンを差し出した。指先が微かに触れ、その滑らかな感触に穂乃果の肌が粟立つ。
「大丈夫ですよ、穂乃果さん。僕、こんな格好してますけど――これでも、女ですから」
「えっ……?」
穂乃果の動きが凍り付く。
聞き間違えようのない、低く心地よいアルトの声。湊は肩をすくめ、少しだけいたずらっぽく微笑んでみせた。
「……女、なんですか……?」
「そうそう。穂乃果さんと同じ。……ほら、ちゃんとまだ胸だってあるんです」
湊は、モーニングコートの襟元を少しだけ緩めて、屈託なく笑ってみせた。
「なんなら、触ってみますか?」
「ひゃっ、い、いいいいいです! 結構です!!」
穂乃果は、ちぎれんばかりの勢いで首をブンブンと横に振った。あまりの速さに視界が火花を散らす。
女同士だと頭では理解しても、目の前にいるのはどう見ても「理想を形にしたような美青年」なのだ。そんな爽やかな笑顔で、下着姿の自分に詰め寄られたら、正気でいられるはずがない。
かんな
あかね ♛❤️♛
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