深い闇の底で見たそれは夢でも幻想でもない。ユカリにはそれが分かった。
親友はみどりに微笑みかけ、その手を引く。いつも先に駆けだして、みどりもまた遅れないように走る。
親友が楽しげに笑うとみどりも笑い、親友が勇ましく雄たけびを上げると、みどりの心にもまた勇気が湧きあがった。
鎖された王国に挑み、空飛ぶ怪物に立ち向かい、邪な魔法を受けて立ち、鋭い剣を掻い潜る。
二人でいれば何も怖ろしいものはなかった。
アルガルタ高地と封呪の長城の間にある南北に延びる細く長く低い土地は朝と夕を失って、僅かな昼と長い夜に支配されている。クヴラフワを襲った災厄についてよく知る者であれば、たとえ法やその番人が恐ろしくともクヴラフワの土地に逃げ込むことはないが、善き人々から奪うことを生業とした者たちは知恵の回る割にそのような知識に乏しく、祝福には程遠いこの忌まわしい土地に隠れ潜んでいる。とはいえ封呪の長城は万全であり、万人を平等に拒絶する。お天道様に顔向けできない所業を繰り返してきた者たちに対しても、長城は亡国との境に立ちはだかって、全ての忌事を押し返す堤であり続けている。
ユカリは大きな欠伸をして目を開く。辺りは真っ暗だが、封呪の長城の出入り門前に築かれた街から兎の夢を通って舞い戻ったユカリを、包み込むような焚火の温もりと爆ぜる火花の輝きと胃をくすぐる羹の馨しい匂いが出迎える。
外套を何枚か重ねられ、何か柔らかいものにもたれかかっている。ユカリは自ら覚醒を促すように伸びをして、待ち受ける三人の顔を探す。目の前にいるのはベルニージュとソラマリアで、二人はユカリの帰還を待つことなく既に食事を始めていた。
「あれ? レモニカは……あっ」そう言ってユカリは慌てて振り返り、反射的に謝る。「ごめん。重くなかった?」
「お気になさらず。心地よい重みでしたわ」とレモニカは目元を隠した鉄仮面には隠されない微笑みを浮かべて言う。
「お陰で硬い地面に寝転んで体を傷めずに済んだよ。ありがとう」
それにしても王女を背凭れにするなんて、と恐れ多さにユカリは震える。一方で家来のはずのソラマリアが先に食事をしていることに少なからぬ疑問を持つ。
ユカリとレモニカもまた遅れ馳せながら心安らぐ食事の席に参加した。
羹の中には干し鮭が浸され、解れていて、焼き固められて歯ごたえある麺麭までもが付いている。
「どうでしたか? 忍び込むのは難しそうでしょうか?」レモニカが鉄仮面の向こうからユカリを覗き込む。
「難しいね。兎ならともかく、四人と、それにユビス。とてもとても。街というか砦だよ、あそこは。一般市民っぽい人なんてほとんどいなかった。みんな黒ずくめ。鉄仮面は見当たらなかったけどさ」
だから焚書官はいない、とも言いきれないが。
「押し通るわけには、いかないんだろうな」とソラマリアが誰かに確認するように呟いた。
ベルニージュが餓えた栗鼠のように麺麭を齧るのをやめて答える。「まず無理だね。魔導書を使えば力は十分足りるだろうけど、あちらも警戒は怠っていないはず。自国に魔法少女が現れたという報告を受け取っていないわけもなし。仮にできたとしても、それは封呪の長城を破壊するってことで。大災害を引き起こすことになる。具体的に何が起こるのかはワタシも知らないけど」
どこかから夜の長さを寿ぐべく低くて伸びる葦笛のような梟の鳴き声が聞こえてきた。
「クヴラフワの呪災、だよね。クヴラフワ衝突を終わらせた呪いの災害。一体あの壁の向こうで何が起こったの?」とユカリは答えを求めるように順繰りに顔を眺める。
が、最も知っていそうな魔法の才女ベルニージュでさえ降参するように首を振る。
「完全に秘匿されている、ってわけでもないんだけどね。東のシグニカ統一国、南のハチェンタ民族会、西のライゼン大王国、北のガレイン連合の当時の魔法使いたちが残した古い報告がいくつもあるんだけど、確実に言えるのは戦争に利用された呪いが長く残留しているということくらいかな。そして新しい報告もない。四方八方完全に封印されていて誰も出入りしていないからね。つい最近までは、だけど」
王女とその親衛騎士というライゼン大王国の中枢の人物である二人、レモニカとソラマリアでさえ亡国クヴラフワの中で何が起きたのかは知らされていなかった。
「そう言えばライゼン大王国もクヴラフワの調査に乗り出してるって耳にしたよ。兎の耳で」
ユカリは両手で兎の耳の真似をしながら、兎を通じて見聞きした街の様子を思い浮かべる。
「それについても存じ上げませんわ」とレモニカは残念そうに答え、控えめに首を横に振る。
ソラマリアもやはり同様だった。
「そうなるとやっぱりそういうことだよね」とベルニージュは確信に満ちた響きではっきりしないことを言う。「二つの大国が危険を冒して呪いの調査で終わるわけがない。何か得難いものを狙っているに決まってる」
誰も何も答えず、ベルニージュが続ける。「それで、ユカリはどうなの? 呪災について何か知らないの?」
「私? 知るわけないよ」と言ってユカリは強く否定する。「長城のことさえ知らなかったのに」
「でも魔法によるこれだけの災害。何が起きているのかはともかく何が起こしているのかは明らかだよ。何か手がかりはないの?」とベルニージュは重ねて尋ねる。
「別に魔導書の第一人者ってわけでもないし。気配は、あるようなないようだ……」
ユカリは思わぬ無力感から逃れるように羹の入った椀に口をつける。
ベルニージュは不満を示すように勢いよく麺麭を噛み千切る。
「そういえば『我が奥義書』は? 新しく読めるようになった記述があるんじゃない? これまでだと新しい魔導書を手に入れる度に読める記述が増えてたでしょ? 新しい魔法少女の魔法は?」
「……うん。確かに読める記述が増えてた」ユカリは重い相槌をし、合切袋から『我が奥義書』を取り出し、最新の記述まで頁を捲る。そして両隣のベルニージュとレモニカに見えるように広げる。「今回のは二人にも大体のことが分かるはず」
新たな数頁の記述には主に絵が描かれていた。
溺れている人。溺れている人の背後から首を抑えてる人。眠る人とその胸を押さえつける人。同じ人に接吻する人。眠る人の胸に電撃を放つ人。等々。それぞれの意味についての注釈。
次の頁には沢山の茸と山菜の絵。等々。注釈には味や有毒性について書かれている。
その次は短剣や鋸、綱、その様々な結び目。
さらには火熾しの方法。
「どうやら生き残ることに強い関心があったみたいだね。魔導書の執筆者さんは」とユカリは感想を述べる。
「ますます魔法少女とは何なのか分からなくなったよ」とベルニージュが『我が奥義書』を覗き込みながら唸るように言った。「それじゃあ新たな魔法少女の魔法はないの? 全部で七つあるんでしょ?」
「うん。ない。確かに最初の方の頁に七つあるって書いてるけどね。あと二つ。楽しみにしてたんだけど。魔法少女の魔法以外にも色々と書いていたみたいだね」
レモニカが夜の闇の向こうで星々の大半を覆い隠すように黒く聳える封呪の長城を仰ぎ見る。
「あの壁の向こうで何が起きているのか分からないのでは、壁を越えられたとしても呪いに呑み込まれてお終い。打つ手なしですわね」
「ですが」とソラマリアが返す。「打つ手があるから、連中は、救済機構はクヴラフワを出入りし始めたのでしょう。となれば、彼らに直接聞くしかありますまい」
「もしくはクヴラフワは後回し」とユカリは口を挟んだ。
「ワタシは別にそれでも構わないけどね」とベルニージュは同調した。「でもいつかは全て集めるんでしょ?」
「クヴラフワに入れたなら運が良かった、と思うくらいで良いかもしれませんね」とレモニカも付け加える。
向かいのソラマリアがユカリの方を見、背後に聳える封呪の長城に親指で指さす。「そもそも空を飛べるなら乗り越えられるだろう。呪いがどうにもならないにしても中の様子くらいは分かる。分かれば何かしら対策が打てるかもしれない」
ユカリは少し大げさに乾いた笑いを出す。「意外と面白いこと言いますね、ソラマリアさん。あんなこと言ってるよ、ベル。大規模魔術の壁なんて簡単に乗り越えられるわけが――」
「たぶんいけるよ」とベルニージュは力強く頷いた。「いや、冗談じゃなくて。封呪の長城はあくまで内から外を守る魔術だし。侵入者なんて放っておけば中で勝手に死んでしまうわけで。念のために魔法少女に変身しておけばまず大丈夫」
「え? 私一人で?」とユカリ。
「目立てないからね」とベルニージュ。
「ユカリさまなら確実ですわ」とレモニカ。
「グリュエーがいるよ」とグリュエー。
ソラマリアは寝床の準備を始めていた。
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