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「そういえば」とユカリは眠い目を擦りつつ口を開く。
アルガルタ高地の丘の頂で雲の向こうに見た、かもしれないものについてベルニージュに意見を求める。
「緑の光で心当たりあるもの?」ベルニージュが真紅の瞳に呆れを浮かべる。「魔法によるものまで含めたら……全部聞きたい?」
「まあ、そうだよね」とユカリは空笑いしつつにやりと笑みを浮かべる。「頑張って聞くしかないか」
「勘弁してよ」とベルニージュもまた苦笑いする。
まだ日は昇っていない。高地の向こうではそろそろ黄金の朝がシグニカの大地を熟した麦畑の色に照らし始める頃合いだが。アルガルタ高地と封呪の長城の間には春を迎えたばかりの熊のように重苦しい夜が長らく横たわっており、朝の光に明け染めるのはまだしばらく先だ。
ユカリとベルニージュは、まだ眠りに就いている門前の街から夜の歩哨も気づくはずのない十分な距離を取りつつ忍びやかに、世を守るため滅びの呪いを退けている偉大な壁へと近づく。ベルニージュの読み通り、封呪の長城には特に防衛に関する魔術は用意されていないようだ。壁を超えて呪われた地に足を踏み入れる愚か者など想定されていないか、あるいは想定された上で嘲笑うように黙認しているというわけだ。
「グリュエー、準備は良い?」とユカリは信頼すべき風に尋ねる。返事が聞こえないので重ねて尋ねる。「グリュエー?」
「うん。その前にユカリ、また気配を感じる。ちょっと遠い、気がするけど」とグリュエーが少しだけ興奮した様子で旋風のように吹き乱れる。
グリュエーが感じる特別な気配。それは昨秋にアルダニ地方で出会い、そして融合したらしく、グリュエーに力をもたらした、もう一人のグリュエーと同じ気配を感じるということだ。もう一人のグリュエーという概念自体がユカリにはいまだによく分からない代物だ。シグニカでも同様の気配を感じたらしいが、グリュエーの力は強まらなかったので融合はしなかったらしいと、一応の結論を出した。
ユカリの旅の初めの頃は何かといえば「魔法少女を西へ連れて行く使命がある」と語っていたグリュエーだが最近はとんと聞いていない。「もしかして通り過ぎたんじゃない?」という冗談は笑ってもらえるか分からないのでまだ口にしていない。
「もう夏だし、そろそろこの外套とも暫くお別れかな」と魔法少女ユカリは友と別れる時の口調で呟き、ベルニージュから贈られた菖蒲色の外套を羽織って、前をしっかりと留める。「どう? ちょっと光が漏れてるね」
「その魔法少女の発光、弱められないの?」とベルニージュに揶揄われ、
前にも言われた気がして、「できたらやってるよ」とユカリは拗ねる。
ベルニージュは少し離れてユカリの全身を眺めて評する。「まあ、大丈夫、かな。大丈夫だとは思うけど、少しでも身の危険を感じたら逃げてくるんだよ。あくまで様子見なんだから」
ユカリはしっかりと頷いて応える。「うん。じゃあ行ってきます。お土産は何が良い?」
「墨がもうすぐ切れそうだったから、見かけたらお願い」
「任せて。グリュエーに沢山運ばせるよ」と言ってユカリはグリュエーの上昇気流に身を任せる。
「やっぱりいいや。頭からかぶりたくないからね」と苦笑してベルニージュは小さく手を振る。
ユカリとグリュエーは封呪の長城の壁ぎりぎりを飛び、上昇する。近くで見れば何の変哲もない石積の壁だ。一つ一つの石材にも大きさを除けば特別なところは見当たらない。ただ、その量が途方もない。この地に世の全ての石が集められたかのようだ。
上って上って上ってる間、ユカリは何度も地上を振り返った。本当に上れているのか不安になるほど目の前の光景に変化がなく、距離感が狂ったからだ。確かに母なる大地から離れていき、その御許でユカリの帰りを待つベルニージュは井戸の底の豆粒のようになっている。
数百数千の巨大な石材を飛び過ぎて、頂上に迫るところまで来るとユカリは朝の光に飛び込んだ。すでにアルガルタ高地から輝く顔を出しつつあり、その峰を黄金の装いへと召し変えている。それは沢山の光の妖精が王を称えるべく威光に相応しい踊りを披露しているかのようだ。天に君臨すべき偉大なる太陽は少しずつ少しずつ善き人々にとっての祝福である朝を地上へと押し下げていく。
そうして何の障りもなくユカリは長城の頂上へとたどり着いた。そこには普通の城壁の最上部と同様に胸壁や狭間があった。一体何から守るというのか。ここからでは地上の侵入者など見えはしない。あるいは装飾か、もしくは魔術として意味があるのかもしれない、とユカリは一人納得する。ともかくおかげで、もしかしたら見張りがいるのかもしれない、と気づけた。
ユカリは翼を休める蝙蝠のように胸壁の縁につかまってぶら下がり、少しだけ顔を出して頂の様子をうかがう。そしてそこには想像以上の景色がユカリを出迎えた。
果てしなく巨大な石畳が広がる不思議な光景だ。石畳の隙間にはどこからかやってきた草が根付き、街というほどではないが、地上と変わらない人間の棲み処がちらほらと建っている。それらはシグニカ統一国の首都ジンテラで見かけるような信仰に魂を捧げた建築家による格調高さも、己の偉大さに重ねて高さを競い合うような傲慢な支配者の楼閣でもない。凝然と構える大屋敷ばかりで、しかし意匠は単純素朴だ。宮殿や寺院とは比べるべくもない。
ユカリは周囲に誰もいないことを確認してから鼠返しのような胸壁をよじ登る。魔法少女は敵意持つ魔術を警戒するように淡く光っていて、目立つ。とはいえ敵対者たる救済機構の人員がいるとなると、より不意の魔術を警戒しなくてはならない。ユカリのよく知る英雄たちのように選択肢を前にして少し悩んだ末、魔法少女の姿のまま探索することにした。
「人を見かけたら教えてね」と目に見えない相棒に声をかける。
「人いるよ」となんでもないことのようにグリュエーが答えた。
「どこ? どこどこ?」ユカリは弾かれたように飛び上がり、しかしすぐに身を縮め、声を潜めつつ尋ねる。
「ずっと先。道の先」
ユカリは目を凝らすが、踏み跡の道の向こうはこの辺りよりも建物が多いようで判然としない。巣を出た鼠のように警戒しつつ朝陽の威光に背を向けて歩を進める。
僧兵の哨戒は見当たらず、ユカリは一安心する。鳥さえ訪問することのない高高度の土地を、どうせならゆっくり見物したい、そんな気持ちになっていた。呪われた滅びの土地を囲む壁の上にこれほどの平穏が待ち構えているとは思いもよらなかった。とはいえ敵地をあちこち経巡るほどの余裕もないので真っ直ぐに西へ、反対側の縁を目指す。
高地ほどではないが頂上は十分な厚みがあって、これまたちょっとした旅路だ。ぽつりぽつりと建つ屋敷、広大な芝、高い生垣、土の被さっていない石床の道。時折道の交わる十字路に眇の梟テンヴォの翼を広げた彫像があった。屋敷の窓は朝焼けを浴びて赤く輝いているが、どれも眠りに就いていて、人の気配はまるでない。気が付けば長閑な雰囲気に呑み込まれ、自分が空高くにいることをユカリは忘れそうになってしまった。今日は雲も少ない。
しかし道を行くにつれ、次第に建築物が増し、集まり始め、都の広場から横丁に迷い込んだ時のように、その様相も変化する。建物とも器械とも区別のつかない奇怪な建築が現れ始めた。天文台の望遠鏡のような観測器械や風車などは見知っているが、人を、あるいは巨人を模したような歯車仕掛け、幾重にも重なった硝子の球体、回転し続ける螺旋状構造物などはどれもこれもユカリには説明しがたい代物だ。
おそらく研究施設が集まっているのだろう、とユカリは推測し、結論付ける。それはここだけなのか、あるいは壁の頂の全てがこのような光景なのか、それはユカリにも分からない。
しかしあいかわらず人の気配はない。建築物が野次馬のように集まり始めたとはいえ、ユカリの故郷のオンギ村よりも疎だ。
「そろそろ見えるよ。二人いる。気を付けて」とグリュエーが警告する。
とうとう反対側の胸壁が見えた時、初めて封呪の長城で人を見つけ、慌てて灌木の陰に隠れる。二人の人影が胸壁の間から呪われたクヴラフワの地を眺めているようだ。
ユカリがここへやって来たのは皆で封呪の長城を越える方法、そしてクヴラフワの地で救済機構がどのように、安全に、活動しているのかを知るためだ。二人の会話を盗み聞いて何も得られなければ建物への侵入も考えなくてはならない。
辺りを見渡し、調えられた生垣や居住まいを正した灌木等の位置を確認すると、ユカリは覚悟を決めて元の姿に戻る。魔法少女の靴では忍び足に向かない。ユカリ、あるいは狩人たるラミスカは靴を脱いで合切袋に片づけ、獲物を見定めた豹のようにゆっくりと二人の元へ近づく。
片方は長身、もう一人は子供であり、焚書官の黒衣を身に着けていた。子供の方は炎の角を戴く山羊の鉄仮面を被っている、それは以前にも何度か小競り合いになった焚書機関第二局の首席焚書官サイスだ。もう一人の方は多少高級な仕立てのようだが、シグニカの一般人の服装だ。しかしその声からその男はサイスの前代であり、ユカリが故郷を発った因縁の一つ、元首席焚書官チェスタであると分かる。