「加護官でしたかしら? ずいぶんとぴりぴりなさってましたね」とレモニカは木々の向こうに隠れつつある無骨な山門を振り返って言った。
「貴女のその姿に心覚えがある者がいたのかもしれません」と分厚い羊毛の外套に身を包んだ男は言う。
レモニカは自分の眼の届く範囲に映る自分の体を眺めやる。その細い身につけているのは、暮れ初めた空のような鮮やかで輝かしい紫の衣だ。柔かい手に艶やかな手袋。華奢な足にぴたりとした靴。鏡がなくても明らかだ。今までに何度も見てきたそれは、ある意味憧れの姿だ。
「チェスタさん、魔法少女をご覧になったことがありますの?」と魔法少女ユカリの姿でレモニカは尋ねる。
「ええ、そうですね」と言ってチェスタは僅かに頷く。
「あの強き意志を秘めながら仄光に霞む健気で可憐な少女を?」
「……ええ、おそらく。魔法使いたちが一度思い浮かべただけでも良心の呵責に耐えられない魔導書収集という悪行に手を染める邪悪な存在のことなら、よく存じておりますよ」
レモニカに初めて尋ねかけられ、答えた男はチェスタといった。何ともはっきりしない顔立ちの男だ。確かに目鼻があるようにレモニカには感じられたが、まるで靄がかっているかのようにも思える。
二人が歩いているのはジンテラに数ある名刹の中でも最も名高く崇敬を集める聖ミシャ大寺院の森を行く小道だった。その敷地は広大で、森も川も自然のままに置きながら三つの大伽藍が造立されている。木漏れ日は赤子にやるように優しく囁くが如く降り、潺は嫉妬深い神に仕える神官のように慎み深く流れている。人の声は他になく、喋ることが憚れる繊細な象牙細工の如き静寂だ。時折古めかしい情感が過ごす庵を見、稀にそれが何より大事な役目であるかのようにじっと佇んでいる加護官がいた。実際のところ、喋りも身動きもしないあれが本当に生きた人なのかレモニカには判別がつかなかった。しかし通り過ぎ、しばらくして振り返ると姿がないのだから、やはり巡回か何かの途中だったのだろう。濡れた土と苔の匂いだけが退屈そうに常に二人の傍にある。
レモニカはチェスタの背中を見つめて言う。「ならば驚かれたでしょう? 闖入した部屋に他に類を見ない黄昏と空想の園に住んでいよう乙女が寝台に座っていて。そもそもなぜやって来たのか知りませんけど」
レモニカは縛り上げられることなく、チェスタの後を追っている。逃げられる心配は一切していないらしい。事前の忠告によると、空を裂くように飛ぶ竜か北方の古い魔術を修めた賢人でもなければ、この聖ミシャ大寺院から出ることはできない、とのことだった。
「そうですね。驚きの連続ですよ」とチェスタは少しの感慨もなさそうに言う。「そもそもシャリューレがこの国にいることからして、そうです。彼女が魔法少女を連れているという話は何がどう繋がってそうなったのか分かりませんし。訪ねてみればたしかに魔法少女ユカリがいて驚きました。しかし、その実、魔法少女とは関係ない、ただ生まれた時に呪いを浴びて、最も近くにいる者の最も嫌いな生き物に変身する娘だったとは。そしてそれはつまり魔法少女ユカリは生き物だということです」
ユカリの姿のレモニカは腑に落ちない顔で尋ねる。「生き物でなければ何だというのです?」
「何、という訳ではありませんよ。魔性や化生の類ではないと分かった、というだけのことです」チェスタは真面目な声音でそう答える。「まあ、あなた自身が魔性や化生の類なのかもしれませんが」
レモニカは鷹揚に笑う。「御冗談を。そんなわけがありませんわ」
「そういえばこちらはお名前を聞いていませんでしたね」とチェスタは言う。「差し支えなければお教えくださいますか?」
「化け物ちゃんですわ」とレモニカは抑揚なく言った。
チェスタは無表情で返事をせず、二人の会話はそこで終わった。
たどり着いたのは聖ミシャ大寺院を構成する三つの伽藍の一つ。聖女の伽藍だ。
それはあまりにも歪で、他にはない異形の寺院と言える。どうやら古くからこの地を見守ってきた白樺の木々を伐採することなく、森の白い妖精の愛する不思議な窪地や神聖な丘を整地することなく、つまり一切の開拓をすることなく森に溶け込むように造立したらしい。朱に塗られた寺院は大火の如く、遠目には山火事が起きているかのようだ。伽藍の壁は木々を避けるように積み上げられ、枝葉の成長を見越して予め穴が空いている所もある。
巨石の支え合う隙間を道が通り抜けるだけならまだしも、わざわざ巨石を越える橋がかけてある。回り道をしてはいけなかったのだろうか。頑固なのだか柔軟なのだか分からない。それにしても傾斜に沿って敷き詰めた凸凹の甃に何の意味があろうか。余計歩きにくくなっている、とレモニカは愚痴をこぼす。
「なぜここへ?」とレモニカは気さくに尋ねる。「牢獄には見えませんね。それとも刑場でしょうか? 刑場にも見えませんが。いずれにせよわたくしはこの身朽ちる時は愛する者の腕の中が良いですわ」
「私もその呪いに興味が湧きまして、万能の霊薬を試してみようか、と思い至りました。ご存知ですか? 古今東西のありとあらゆる病と呪いを例外なく全て癒してしまうという、約束された霊薬です。ここで製造されているんですよ」
「万能の霊薬というと風の薬のあれですか」レモニカは忘れがたく忘れるべきでない記憶に浸る。友人の目を開き、友人に見せるべきでないものを見せた、あの日のことを。「この呪いの前には無力でしたよ」
チェスタは立ち止まって振り返り、視線を感じない眼で見降ろす。「先に言ってください」
「どうするつもりだったのかを先に言ってください」とレモニカは言い返す。「ともあれ、その謳い文句は大袈裟ですわね。見ての通り、万能ではありませんでしたから」
チェスタはため息をつく。「まあ、いいでしょう。どちらにしても貴女は聖女会の管轄です――」
「焚書官チェスタ!」と問い詰めるように発した尼僧がこちらへ速足で歩いてきた。かなりの高齢のように見えるが歪な甃をものともせず、足腰がしっかりていて背筋も伸びている。「聖女の伽藍が男子禁制だということを知らないとは仰いませんね!? 先に連絡をいただければ山門までお迎えに行ったものを」
「これはこれは、教えの師幼き祈り。お久しぶりでございます。勿論聖女の伽藍が男子禁制ということは存じ上げておりますが」そう言ってチェスタは手のひらに収まる羊皮紙を懐から取り出す。「猊下の許諾は得ております。それと私はもう焚書官ではありませんよ。一介の僧侶です」
ミーツェルは羊皮紙を一瞥し、チェスタの脇のレモニカの方に目を向ける。「その娘が例の?」
「娘とは限りませんよ。なにせ何にでも変身できるようですから、本当の姿は男かもしれません」
「いえ、わたくしは――」
レモニカの抗議はミーツェルの抗議に掻き消される。「私はその者を暫くの間、護女として扱うように仰せつかっているのですが!? まさか男子を護女と共に生活させろと仰るのですか!?」
「ですから、女で――」とレモニカは言いさす。
「だとしても猊下のご命令です。背くわけではありますまい?」とチェスタは修辞的に尋ねる。
「猊下はこの者が男と知った上で――」
「ですからわたくしは女ですわ!」と今度はレモニカがミーツェルの言葉を掻き消す。「少なくとも生まれた時はそうでした」
「だそうです、ミーツェル女史。どうぞよろしくお願いします」と言うチェスタは有無を言わさぬ威圧を感じさせる。
レモニカは握手を求めるようにミーツェルに手を伸ばす。「そもそもよろしくお願いされたくないのですが。ケブシュテラですわ。ミーツェルさん。どうぞよろしく」
レモニカの姿はミツェルに触れる前に百足へと変じた。ミーツェルは勢いよく手を引っ込めて短い悲鳴を発する。
チェスタは愉快そうに笑みを浮かべ、「比較的怖くない物を怖がってる人がいるといいですね」と言い残して去って行った。
それに尽きる、と思いながらレモニカは百足の身で頷く。