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落ち着きを取り戻したミーツェルが地面に這う足が沢山あるレモニカを見下ろし、作法に通じていない者のように恐る恐る尋ねる。「ケブシュテラさん。私について来られますか? その姿でお話はできますか?」
「ええ、ついて行けますし、わたくしお話しするのは大好きですわ。でも肩を貸してくだされば……冗談です」
ミーツェルの青い顔が気の毒でレモニカは運んでもらうことを諦める。
そこから多くの尼僧や護女達の住まう庫裏まで、百足の足だからこそ何とかなったが、体感では聖女の伽藍までの森の中の道のりよりも長く感じられた。凸凹の甃を上り下りするのも右左するのも足がもつれてしまいそうだった。
ごみ一つない参道や朱塗りの本殿、その奥に控えるようにある庫裏は人の活気に満ちていた。沢山の尼僧たちがどこかへ小走りに歩き去ったり、参道を丁寧に掃き掃除していたり、ミーツェルに溌剌と挨拶したりしていた。その度にミーツェルはレモニカを踏まないように注意し、簡単に説明した。
女性ばかりの空間に、レモニカはかつて住んでいた鎖された城を思い出す。人の数はずっと少なかったが、弱視の者や盲の者が甲斐甲斐しく働いてくれていた、あの静かで薄暗い故郷を懐かしく思い出す。活気は劣るが、あそこもまた心安らぐ聖域だった。レモニカ自身がその安らぎを破壊するまでは。
同時に少しばかりシャリューレへの憤りが再熱した。自身を攫っておいて、さらに別の者に攫われるなんて、と考えたところで己を恥じ入る。それら全ての災いはその未熟さ故だ。シャリューレもまたそのように考えていたに違いない。家出した時と同じく未熟なままだろう、と。
庫裏はおおむね環を成し、中庭を取り囲む建築物だ。ここも他の例に漏れず、建物は自然に生えた白樺の樹木を避けており、中庭はさながら閉鎖された森だ。
「お帰りなさいませ。ミーツェル先生」
一人の護女が自信に満ちた表情でミーツェルを出迎える。黒と白の聖なる衣は全体的にゆったりとしているが、肘や膝のところで窄まり、不思議な輪郭を形作っている。
「ええ、ただいま戻りました。ノンネットさん。貴女の懸念が見事当たりましたよ。あの男、チェスタ。下手したらここまで乗り込んでくるところでした」
ノンネットは控えめな笑みを浮かべて小さく首を横に振る。「拙僧も杞憂に終わるのでは、と思っていました。よろしくない予想ほど当たる物ですね、先生。焚書官は、とりわけ第二局は繊細さに欠けるきらいがあるようです。それで、猊下が見出されたというお方はどちらに?」
ノンネットの問いを受けて、ミーツェルは一歩横にずれる。
「ケブシュテラさんです。今は百足の姿に。教えの師が護女に嫌いな生き物を知られてしまうのは情けないことですが」
ミーツェルは少しばかり悔しそうに声を震わせた。
「お気になさらず、先生」とノンネットは優しく慰撫する。「百足を得意な者の方が少なかろうと存じます。ではケブシュテラさんは拙僧がご案内いたしましょうか?」
「そうね。よろしくお願いします、ノンネットさん。私は少し休んでまいります」そう言ってミーツェルは庫裏を出て行く。
後に残されたレモニカの姿は再び人間になる。ノンネットの嫌いな人間だ。子供だが少しばかりごつごつとした体は少年だと分かる。そして頭にかぶる山羊の頭の鉄仮面で、その正体が分かる。間違いなくかの少年首席焚書官サイスだ。
「なるほど。彼ですか。まあ、さもありなんですね。ともかく他の護女に変身されるよりは面倒がありません」
ノンネットの言う生々しい言葉にレモニカは緊張する。これだけ沢山の人間がいれば複雑な関係が生まれ、時に競い合う関係があり、ともなれば妬み嫉みもあるだろう。修復不可能な不和を生んでしまいはしないか、と不安になる。
「さて、まずは自己紹介といたしましょう。拙僧は聖女会が第二千八百十六護女、名をノンネットと申します。どうぞお見知りおきください」
「わたくしのことはケブシュテラとお呼びください」
ノンネットは微笑を浮かべて頷く。
「どうぞよろしくお願いします、ケブシュテラさん。さあ、ご案内します。しばらく護女として生活するとのことですから、庫裏を案内し、護女を紹介しましょう。この時期は多くの護女が修業の旅から帰還しているんですよ。数日の後にはそのほとんどがこの庫裏に集まることでしょう」
レモニカはその場から動かずに尋ねる。「貴女は、わたくしが無理やりここに連れて来られたことをご存じなのですか?」
ノンネットは微笑みを絶やさずに首を横に振る。
「いいえ。存じ上げませんでした。しかし聖女アルメノンの思し召し。何か深い訳があってのことでしょう。さあ、参りましょう」
その言葉もまた有無を言わさぬ断言だった。自分自身に言い聞かせるような感じも含まれている。
庫裏の案内をされつつ、出会う護女出会う護女に紹介される。奇妙なことに護女達は自身の最も恐ろしい生き物を知りたがっていた。おかしな気分だが、求められることは悪い気がしなかった。
ノンネットは護女達のことをよく知っていて、仲間たちのことを語る時はとても楽しそうだった。
中庭で出会った魔術の得意な融合真理は大きな犬を。台所で出会ったいつも気の利く第三圏の血潮と綺麗好きな意味ある染みは、それぞれ蜂と毛虫を。自室で勉強していた蛇行の修練は山小鬼を。それぞれ嫌っていた。嫌ってはいたが、護女達は誰一人として失礼な態度は取らない。ベルニージュほどではないが、嫌悪を表に出さないように努めている。
「どうして、みなさん」と言ってからレモニカは言葉を選ぶ。「わたくしの変身した姿と向き合えるのでしょう?」
レモニカの問いにノンネットは少しだけ考えてから答える。
「拙僧どもにとってはこの世の全てが修業と言っても過言ではありません」ノンネットはサイスの山羊の鉄仮面を覗き込む。「良いことも悪いことも全ては一尼僧として徳を積み、衆生を導くための力を蓄えることとなるのです。でも、ケブシュテラさんがそれを望まないのなら――」
「いえ、わたくしは別に構わないのです。ただ不思議に、いえ、不躾ながら興味をもったまでですわ」
ノンネットは微笑み頷き肯ずる。
「あの子は?」とサイスの姿のレモニカは言う。
レモニカが指さす先は講堂の端、木張りの床に寝転がって、黒髪を放射状に広げて、何かの書籍を読んでいる護女がいた。年の頃はノンネットと同じくらいだろうか。
「あの子は瑞々しい」ノンネットはエーミに呼びかける。「エーミ! しばらく護女としてここで過ごすことになったケブシュテラさんです。ご挨拶を」
しかしエーミはちらりとレモニカの方を見ただけで寝転がったまま背を向けた。ノンネットにとっては予想通りの反応のようだ。
「すみません。エーミはあまり他の護女とは関わろうとしないんです。次代の聖女、第八聖女に最も近いと期待されている護女なのですが。いえ、悪い子ではないんです」
「優秀な方なのですね」とレモニカは相槌を打つ。「ノンネットさんも皆様に一目置かれているようですが」と言ってからレモニカはこれもまた不躾だったと気づいた。
「拙僧は二番手です」とはっきり言うもののノンネットは寂しげだ。「しかしエーミとの差は歴然。昔は彼女を目標にして頑張ってきましたが、実力も身体規定の評価も開くばかりです」
ノンネットが気恥しそうに吐露した現実は他人事ながらレモニカの胸を優しく締め付ける。