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(こんなの駄目よ……許せない)
希咲はぎゅっと手を握り締めた。爪が手のひらに食い込み痛むが、それ以上に焦燥感が大きかった。
園香が妬ましい。瑞記を取られたくない。
瑞記が好きとう訳ではないのに、自分を一番優先して欲しいと思う。
秋になると瑞記は結婚してしまったが、希咲は諦めて怒りを治めることも、気持ちを切り替えることもしなかった。
『瑞記、相談があるの』
結婚して一カ月も経っていない新婚の彼を、深刻そうに悩みを打ち明けることで何度も誘い出した。
『夫が、冷たくて……このままだと辛くて耐えられない』
『えっ? そんなことになっていたのか? てっきり夫婦仲はいいのだと……』
『それは表向きだよ。でも実際は違う。私はいつも孤独なの』
悲しそうに訴えると、瑞記は本気にして、希咲に同情してくれた。
仕事はこれまで以上に熱心に取り組み、瑞記をフォローした。
園香の直接的な悪口は言わない代わりに、やんわりと園香の態度がおかしいと刷り込んでいく。
更に相談を口実に、瑞記にアプロ―チをし続けた。
もともと瑞記は希咲に好意を持っていた。既婚者だと知って諦めたようだが、再燃するのは簡単だ。
瑞記は希咲を妻よりも大切するようになり、新婚一年目のクリスマスですら、瑞記は希咲が待つ家に帰らなかった。
瑞記の関心が、園香から希咲に移ったのは明らかだった。
かけがえのない相手、ベストパートナー。
彼は本気でそう思い込み、妻を放って希咲とふたりで行動することに少しも罪悪感を持っていなかった。
希咲は、瑞記が自由に振舞う裏で、園香が辛い思いをしていることに気付いていた。
瑞記が零す愚痴や、しつこく鳴る電話から、彼女がどれほど焦っているのかがよく分かる。
けれどその行動は逆効果で、瑞記は見るからにうんざりしていた。
ますます気持ちが離れるだけなのに、それが分かっていないらしい。
(まあ仕方ないかな。苦労知らずのお嬢様なんだから)
二月になると長く家を空けた瑞記を責めて、ついには希咲との仲を疑う発言をしたそうだ。
実際瑞記と希咲は男女の仲ではないので、瑞記は何ら後ろめたいことはない。
『人を疑ってばかりの妻には失望したよ。僕と希咲の関係を怪我されたようで不快だ!』
瑞記は怒り狂い、それからまたしばらく帰宅しなくなった。
その日はオフィス近くのビジネスホテルに宿泊していたが、おそらく園香は誤解している。
(証拠もないのにヒステリックに責めちゃうなんて、本当に馬鹿だなあ)
彼女がどんな顔をして口惜しがっているのか、どうしても見たくなり家を訪ねた。
面白いくらい動揺している園香。
もう少し困らせたくて、瑞記との関係を匂わせてみた。
『私と瑞記は、お互いなくてはならない、特別な関係なんですよ』
『えっ……』
園香は絶句していた。
その後は話にならなかったが、希咲は上機嫌で帰宅した。
園香はきっと、今日のことを瑞記に言いつけるだろう。
けれど、希咲は一言も“不倫をしている”とは言っていない。
実際体の関係はないのだから、瑕疵はない。
園香が勝手に思い込んでいるだけ。
(きっとますます喧嘩するだろうな)
想像すると、園香への恨みがすっと消えていくようだった。
ところが予想外に、園香が瑞記に言いつた様子がない。
それとも、瑞記が”いつもの妻のヒステリー”と、園香の訴えを聞いても相手にしていないだけだろうか。
どちらにしても自分が望んだ反応ではなかった。
(気にいらない)
希咲はその日から、園香に無言電話をかけ続けた。
自分でもおかしな行動だと分かっているが、なぜか止められなかったのだ。
三月に入ると、瑞記は想定していたよりも遥かに希咲に執着するようになった。
その分、園香を疎ましがるようになり、更には無関心になっていった。
希咲から話題にしないと、愚痴すら言わない。
(つまらない)
希咲は別に瑞記と仲良くしたい訳じゃないのだ。
相手をするのが面倒だと思う時もあるくらいだ。
最近は仕事まで疎かになっているし。
そんな風に思っていたときのことだった。
仕事の帰りに、偶然昔の不倫相手を見かけた。
最後に会ったのは、彼の妻に不倫がばれて大騒ぎになり、ソラオカ家具店を出入り禁止になって以来だ。
彼はオフィスビルのエントランスで佇み、時間を気にする様子をみせた。
妻と待ち合わせでもしているのだろうか。
しばらく様子を窺っていると、待ち人が来たようだった。
妻ではない。
彼の前で立ち止まったのは、すらりと背が高く、きりりとした表情の男性だった。
カラーリングをしていないだろうブラックのショートヘア。
濃紺のスーツをすっきり着こなし、見るからに清潔感が溢れている。
元不倫相手よりも、遥かにいい男。
『でも、どこかで見たような……』
呟き、しばらく考えたものの答えが出ない。
そうしているうちに、元不倫相手たちがどこかへ行こうとする素振りを見せたため、希咲は足早に彼らの元に向った。
『中山君、久しぶり』
元不倫相手の背中に呼びかけると、彼はびくりと肩を震わせ、恐る恐ると振り向いた。
同時に、連れの男性も一緒に振り返り、不審そうに希咲を見つめた。
大抵の男は、初対面のとき希咲の容姿を見て好意的になるが、彼はむしろ警戒している様子だった。
『中山』
彼は元不倫相手の名前を問いかけるように読んだ。
この女は誰だ? と聞いているのだろう。
『美倉空間の彼女だよ』
男性の顔がますます厳しくなった。
(不倫のこと聞いてるんだ)
すぐに察した。だったら希咲に対する評価はますます下がったはず。
それでも何も気付いていないふりをして、男性に笑顔を向けた。
『はじめまして。名木沢希咲といいます。中山君とはプライベートでも親しくさせて貰っていたんですよ』
『親しくか……』
軽蔑したような呟きが返ってくる。
『あなたは、中山君のお友達ですか?』
『……』
無愛想で返事もしない男性の代わりに、元不倫相手が口を開いた。
『あっ、彼は俺の同僚で、白川彬人って言うんだ』
その瞬間、彬人が嫌そうに眉をひそめたが、希咲はもちろん気にしない。
『同僚ってことは、ソラオカ家具店の方ですね! あのこの後どこかに行くんですか? よかったら食事でもいかがですか? 久し振りの再会だからいろいろお話したいし』