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デスクに両肘をついて手を組んでその手に顎を軽く載せるような姿のウーヴェの前ではリオンが、一人がけのソファで座り心地を確かめるのかそれともまだ躊躇いを感じているのか、もぞもぞと身動いでは意味もなく視線を左右に流してウーヴェの目を見つめることを避けている様な態度を取っていた。
少しは落ち着けと言いたい気持ちをぐっと堪え、診察中の患者に接するときと同じように注意を払ってリオンの口から言葉が流れ出すのを待っているが、いつもは感じることのないアナログ時計が時を刻む音がやけに耳についてしまい、手を組み替えることで苦笑を堪える。
ここにやってきたときの様子が一目で見ても分かるほど常軌を逸していたリオンだったが、顔を洗って秘書でもあり友人でもあるオルガが用意してくれたハチミツの代わりにイチゴジャムを入れた紅茶を飲んだら気持ちも落ち着きを取り戻したようで、そんな恋人の様子にウーヴェも胸を撫で下ろしていた。
ここ数日関わっている事がどうやらリオンにショックを与え不安定な心理状況へと追いやった事は分かったが、先程断片的に伝えられた言葉では事件ないしは事故の全容を把握するのは難しいことだった。
問い掛けて言葉を導き出すことは可能だろうが出来るのならばリオンに自ら語って欲しいと密かに願い、もう一度手を組み替えたとき、リオンがウーヴェの肩越しに窓の外を見つめるような表情で重い口を開く。
「・・・涙雨って言うのかな」
「うん?・・・ああ、雨が強くなったな」
「うん・・・あいつ、まだ泣いてるのか?」
少し強くなった雨を降らせている雨雲が窓の外に広がっているが、雲の色は鈍色よりも少し明るく、少しすれば弱まるだけではなく雨が上がりそうな予感を感じさせていて、ソファに肘をついて拳で顎を支えながら呟いたリオンは、ウーヴェが肩越しに振り返って目を細める顔を見つめ、その視線が戻りきる前に悲しみに沈んだ声で問い掛ける。
「さっきさ、あいつの棺を殴っちまったから怒ってるのかな」
「どうして棺を殴るようなことになったんだ?」
組んでいた手を解いてデスクを人差し指でとんと叩いたウーヴェは、左手に愛用の万年筆を持ちながら診察の時と同じように真摯な顔を恋人に向ける。
「・・・助けるどころか、あいつを逆に苦しめるようなことばかりをしていたジジイと全く何の役にも立たない母親が来たんだよ」
「ノーラの祖父か?」
「ああ・・・今までノーラの父親から強請られていた金は返ってくるのか、今裁判を起こしているから、マザーやアーベルに証人になって貰う必要があるって・・・」
あまりにも目の前の現実とかけ離れた言葉に脳味噌が真っ白になり、気付いた時にはノーラが眠っている棺を殴りつけていたと、その時と同じ形に手を変えてじっと見つめながら暗い声で呟くリオンに一つ頷いたウーヴェは、その祖父と彼女の母はノーラを庇護することはなかったんだなと問いかけて素っ気なく頷かれ、手元のノートに要点を書き出していく。
「親なんてホント最低な奴らばかりだって・・・改めて思った」
自分が腹を痛めて出産した-だろう子どもが、己の半分ほどの年齢で人生を強制終了させられたのに、親の顔色を窺っているのかどんな言葉も口にすることもなく、ただ暗い脅えたような目で己の父を見ていた女の顔を思い出すと同時に口の中に苦いものが溢れてきて思わず吐き出しそうになるが、ここが何処であるのかを思い出して何とかそれを飲み下すリオンにウーヴェが一つ首を振り、デスクから立ち上がって窓際のローテーブルに置いた灰皿を取りに行き、ぼんやりと見つめてくるリオンの前にそっと差し出す。
二人きりの時はほとんど煙草を吸うことはなかったが、リオンが苛立ちを感じた時には煙草を吸うことを知っていたウーヴェが遠慮するなと目で告げてデスクに戻ると、リオンが年季の入っているジッポーを取り出して煙草に火をつける。
「どうして・・・あいつは生まれてきたんだろうな」
「リオン・・・」
「最低な男といい年をした大人の癖に未だに親の庇護から抜け出せない女がさ、自分たちだけが気持ちよくなって楽しい思いをしただけだろ?その結果あいつが生まれて・・・苦しい思いばかりをして挙げ句に死んじまった──な、何のために生まれてきたんだろうな」
こんなにも苦しいばかりの人生ならば、いっそ人として認識されるかどうかも分からない頃にどうにかすれば良かったのにと、雨の冷たさを連想させる冷えた声で笑って煙草の煙を天井に向けて吹き付けるリオンの前では、ウーヴェが眼鏡の下で半ば目を伏せて手を組み替える。
そんな事を考えるなとリオンの言葉を一蹴するのは簡単だったが、それをすることでリオンの中で膨らんでしまって出口を求めるように渦を巻いている思いが破裂してしまうのが恐ろしく、顔を上げてリオンを真正面から見つめると、来たときとは比べられないほど暗くて深い闇が二つの青い虹彩の中に生まれていて、無意識に左足の指に力を込めてシルバーの身体を持つリザードを確認すると細く長い吐息を零す。
「・・・どうして生まれてきたんだろうな」
「んー、オーヴェでもわかんねぇ?」
「残念ながら、俺は全知全能の神でもなければ、この世の理を総て知り尽くした賢者でもない」
陽気さの中に潜む闇から発せられる言葉に恐怖を感じ、それを追い払う為に左足の爪先を右足の踵で軽くノックをしたウーヴェは、リオンにあわせるわけではないが軽い口調で答えて肩を竦めるものの、その目に浮かぶ色は限りなく真摯なもので、目の色を読み取ったリオンが一度口を開いて閉ざし、ソファの肘置きに置いた灰皿に煙草を押しつけて揉み消す。
「ノーラという女性やお前が生まれてきた理由は分からない」
「分からねぇんだ?」
「ああ。世の中には明確にその答えを持つ人がいるだろうが、俺は分からない。ただ・・・いつかお前が言ってくれたことがあっただろう?」
「・・・俺、何か言ったっけ」
ウーヴェが過去を夢に見て魘されて心が不安定になった夜、直接温もりを感じたりそれが出来ない時に聞かせてくれる声からだけでも伝わる温もりと共に教えてくれた言葉があっただろうと囁きかけ、その日のことを脳裏に描きながらリオンの青い目を真っ直ぐに見つめる。
「生きているんだ、リオン。俺たちは理由など知らなくても、苦しいことばかりの人生であっても、こうして、今、生きている」
「・・・・・・・・・」
「何のために、何をするために生まれてきたのかなど知らない。でも誰かと一緒に生きている。そう教えてくれたのはリオン、お前だ」
自らが伝えてくれた言葉を忘れたのかと肩を竦めてリオンの表情の変化を待ったウーヴェは、再度時を刻む音が耳につく様になって30ほど数えたときにリオンの顔や身体から感じ取っていた棘のようなものが消え去った事に気付き、小さな吐息を零して立ち上がる。
「俺、そんな事・・・言ったんだ」
何だか随分と偉そうなヤツみたいだなと自嘲に顔を歪めるリオンの横に立ち、灰皿をデスクに置いた手で漸く乾き始めた髪を撫でて頭の形を確認するように動かした後、ごく自然な動作で己の方へと引き寄せれば、逆らうことなく胸に頭がぶつかってくる。
「お前が教えてくれた。────あの事件で一人だけ生き残った自分をもう許してやれとも言ってくれた。お前のその言葉がどれほど俺の力になったか分かるか?」
文字通り太陽が暗くて寒い世界に熱と光を与えるように己に囁きかけられた言葉を脳裏で再生し、かすかに笑みを浮かべて同じ言葉を胸に宛がわれている頭に向けて囁きかける。
「辛くても苦しくても・・・生きているんだ、リーオ。生まれてきた事を俺たちが望んだ訳じゃない。でも生まれてきた」
「・・・・・・・・・」
ウーヴェの言葉に納得したような出来ないような気配がリオンから伝わり、背中を撫でてウーヴェが目を細めながら少し言葉に軽さを加えて囁きかける。
「俺が今生きている理由は考えればいくつも出てくるだろうが、一番大きな理由はお前と一緒にいられるから、だろうな」
そう俺が思うことを許してくれるだろうかと、途切れることもなく冗談に紛らわせようとする色が滲んでいるが、それが本心からの言葉である事を感じ取ったリオンがウーヴェの腰に腕を回してしがみつき、愛する人とともにいる為に生きている、その為に生まれてきたと思いたいと優しい言葉の中にも強さを秘めた声にさらに囁かれ、しがみつく腕に力を込めて額を押しつけ、ならば彼女は生まれてきて良かったのかとくぐもった声で問いかける。
「・・・あいつはさ、ホームに来た時に面倒を見てくれたアーベルが好きだったんだよ。いつも天使様って呼んでた」
「そうなのか?」
「うん・・・天使様って呼べるような人と出会ったのは・・・幸せだったのか?」
まだまだ疑問も残るし信じられないと疑いの色を声に滲ませつつ問いかけ、ウーヴェの服に押しつけていた顔を上げたリオンは、今まで見た中でも最上の優しさを湛えた瞳に見つめられている事に気付いて呼吸を止めて呆然と端正な顔を見上げると、そっと髪を撫で付けられる感触に呼吸を取り戻す。
「誰を愛する事も誰からも愛されることもなく亡くなっていく人達も大勢いる。彼女が若くして命を落とした事は残念だし悔しい事だが、辛く苦しいだけの人生ではない事を知っていた。・・・それは、知らないことに比べれば幸せと思っても良いんじゃないのか?」
断言することは出来ないし何よりもやはり非業の死を遂げた事は不幸かも知れないがと、リオンの気持ちを推し量った言葉を告げて髪を何度も撫でていたウーヴェは、再びリオンが腰に腕を回してしがみついてきても身動ぎせずにいると、永遠にも感じる時間が経過した後でリオンの口から不可解な溜息が一つこぼれ落ちる。
「・・・痛かっただろうなぁ」
「そうだな・・・暴発事故に巻き込まれたんだ、痛かっただろうな」
「あいつの最期の言葉、マザーとアーベルが聞いたんだって」
最期は笑いながら逝ったとぼそぼそと呟き、顔を上げることをせずに背けて窓の外を見遣ったリオンは、最期の表情が笑顔だったと教えられ、それって救われているのかとも呟くと、ウーヴェが優しさと厳しさが入り交じりながらもするりと心の内側に滑り込んでくるような声で呟いてリオンの背中に腕を回す。
「彼女が天使と呼んでいた人が傍にいて、マザーもいらっしゃった、それだけは確かに救われているだろうな」
後は今日か明日にでも執り行われる彼女の為の儀式を終えれば彼女の魂は救われるとも告げてリオンが見上げてきたことに気付き、目を細めてそっと頭を上下させる。
「彼女はもう痛みを感じる事は無い。もう穏やかに心静かに眠れるんだ。葬儀は彼女の為だけに行うものじゃないからな」
「どういう意味だよ、オーヴェ?」
「彼女の思い出とともに生きていく人達の為でもある」
葬儀という荘厳で神聖な儀式の中で彼女に別れを告げることになるが、別れの儀式を終えると同時に彼女はお前の中で生き続けるんだとひっそりと続け、目を瞠るリオンの額に愛おしそうに唇を宛がう。
「短くとも精一杯生きた彼女がこれからは親しい人達の中で形を変えて生きていく。彼女の存在や痛みを忘れることなくいられるのであれば彼女の死は無駄ではないし、葬儀は悲しいことばかりじゃない。だから、悲しいからと言って自らを蔑んだり生まれたことを後悔するようなことを言うな、リーオ」
「・・・・・・っ・・・」
ウーヴェの声に秘められた強さと同じだけの優しさから囁かれる言葉にリオンがきつく目を閉じ、ソファの座面に靴の踵を引っ掛けて立てた膝の間に項垂れた頭を挟んで腕で頭を覆い隠す。
どうしてこんな風に強く優しくなることが出来るのだろうかと、不意に全く関係のない思いが脳裏に芽生え、その言葉の意味を探ろうとしたリオンは、己の恋人が誰よりも人の痛みを知る男であったことを思い出し、そんな強さを持ってしまった彼の過去が哀しくて胸が痛んでしまう。
強く優しく、穏やかな笑顔を浮かべられる人間は、その笑顔の裏や優しさの奥にどうしようもないほどの痛みを受けているのだといつかマザー・カタリーナが諭すように語ってくれた言葉が蘇り、湿り気を帯びた呼気を吐き出す。
「ちゃんと別れを言って来られるな?」
世の中を拗ねた目で見つめて荒んでしまうのは簡単だが、お前がそれほど気にかける人がそんなお前を見たいとは思っていない筈だと苦笑し、彼女に最期の別れをしっかりと伝えてこいと告げて頭の天辺にキスをする。
「・・・・・・うん」
それは小さな小さな声だったが、ウーヴェの耳にはしっかりと聞こえていて、安堵に胸を撫で下ろした彼は、リオンの頭を胸に抱え込んだまま窓の外へと視線を向け、いつの間にか雨が上がっていることに気付いて眩しそうに目を細める。
「雨が上がったぞ、リオン」
「・・・・・・何かさ、あいつに笑われてる気がする」
「ああ、もしかするとそうかも知れないな」
リオンの不安の滲む声にウーヴェがさらりと皮肉を込めて返せば、腕の中から恨みがましい目で睨まれてしまい、ひょいと肩を竦めてデスクに戻るためにリオンの手をそっと振り解く。
「オーヴェ」
「どうした?」
「うん・・・・・・本当に、ありがとう、ウーヴェ」
「・・・やはりお前にはその顔が相応しいな」
真夏に誇らしげに咲く花が常に追い求める太陽を彷彿とさせる笑みを浮かべ、頭に手を宛がって照れたように顔をくしゃくしゃにするリオンに目を細めて満足そうに吐息を零したウーヴェに、己の恋人が最後の拠り所として限りなく頼りになる男であることに自慢する気持ちを覚え、それを照れることなく言葉にすると白皙の相貌が一瞬にして赤く染まり、ついその顔に見惚れてしまう。
「・・・バカたれっ!」
「あ、ひでぇ!」
ウーヴェの言葉にリオンが情けない顔でショック受けたことを表現すると、小さな笑い声が彼の口から流れ出し、つられてリオンも笑ってしまう。
「葬儀の手伝いは大丈夫なのか?マザーとシスター・ゾフィー達もお忙しいのだろう?」
「あー、うん・・・でも、今は帰らない方が良いかも・・・」
ホームを飛び出す直前に自らが吐き捨てた言葉によってゾフィーもマザー・カタリーナもきっと傷付いたことは火を見るよりも明らかで、その気まずさからホームには戻れないと眉尻を下げるリオンに瞬きで驚きを表したウーヴェは、葬儀の時間を確認しつつ受話器を取り上げてダイヤルし、電話に出た女性にバルツァーですがマザー・カタリーナを呼んで下さいと告げて受話器を肩と頬で挟んでリオンを見遣る。
「・・・ご無沙汰をしております、マザー・カタリーナ。バルツァーです」
ウーヴェのその言葉にリオンがソファから半ば腰を浮かせて受話器を奪い取ろうとするが、じろりと一転して冷たい目で睨まれてしまってしょぼんと肩を落とし、拗ねたように先程と同じ体制で膝を立ててその間に頭を突っ込んで爪先の汚れを指の腹で拭いてみたり、逆にその汚れを靴に擦り付けてみたりと無意味な行動を取ってしまう。
『リオンがそちらにお邪魔していますか?』
「はい。今、話を聞いていたところです。彼女の葬儀は何時からですか?」
『明日の午前10時頃です』
「分かりました。リオンがどうもそちらに帰りづらいと言っているのですが・・・」
つい先程、リオンの胸の裡で不気味に噴出するマグマのようなそれからガスを抜いたばかりだと苦笑混じりに伝えると、何とも言えない永遠のような沈黙が流れた後、か細く震える吐息混じりの声がリオンと話をする事が出来るかと問いかけてくる。
「少しお待ち下さい。────リオン、マザー・カタリーナがお話ししたいそうだ」
「・・・・・・俺、別に話すことなんて・・・」
無いと、気まずさと少しの羞恥と傷付けてしまった後ろめたさから立てた膝の間に頭を突っ込んだリオンに苦笑し、受話器をデスクにおいて立ち上がったウーヴェが再度ソファの横に立ってすっかり乾いている髪に手を差し入れる。
「リオン」
「だってさ・・・・・・」
「マザー・カタリーナはお前のことを誰よりも知っている筈だ。お前がどんな気持ちで傷付けるようなことを言ったのかも分かっておられるんじゃないのか?」
ウーヴェの言葉が駄目押しになったのかそれとも優しく背中を押したのかは分からないが、リオンの手がそっと伸びて受話器を寄越せと伝えてきた為、安堵に目を細めながら電話機を引き寄せて受話器をその手に握らせる。
「・・・・・・マザー・・・」
『傘を持たずに出て行ってしまって、風邪を引いたらどうするのです?またゾフィーに叱られますよ』
受話器越しに伝わる声はいつどんなときに聞いたとしても温かさと優しさをもたらしてくれる穏やかなものだったが、感情の波が時折彼女の声を揺らしていた。
「・・・・・・ごめん」
『ウーヴェの所にいるのですね?』
「うん」
『明日、ノーラに最後の別れを伝えに来れますか?』
「・・・・・・行く」
『分かりました。今日はそちらでゆっくりさせて貰いなさい』
彼女の、ウーヴェとはまた違った優しい声にリオンの頭が素直に上下し、通話を終えたことを伝える代わりに受話器をウーヴェに向けて突き出せば、無言で肩を竦めた彼がそれを受け取り、一言二言言葉を交わして受話器を戻す。
「家に帰ろうか、リオン」
「・・・・・・うん」
ウーヴェが告げた家に帰ろうかの言葉の重みを噛み締め、小さな子どものように小さな小さな声で頷いたリオンは、ウーヴェのキスを再び額に受けてくすぐったそうに顔をくしゃくしゃにする。
そんなリオンに心底安堵したウーヴェが右手に嵌めている時計に目をやり、そろそろクリニックを閉める時間だと気付いて診察室を出て行ってしまう。
「オーヴェ?」
「────初診の方にはこちらの記入もお願いしていますが、ご協力していただけますか?」
「へ!?」
戻ってきたウーヴェが手にしていたのはボードに挟んだ一枚のアンケート用紙のようで、営業スマイルで差し出されて素っ頓狂な声を上げつつそれを受け取ったリオンは、いくつかの項目に○を書き込み、自らの言葉で記入する必要がある所にやや躊躇った後で腹を括ったような表情を浮かべて乱雑な文字で書き込んでいく。
「これって・・・」
「フラウ・オルガにも見せる事はいたしません」
患者の個人情報に関するものは、カルテ以外では例え彼女であっても見せる事は無いと断言し、それならばと差し出されたアンケートに目を通していくが、アンケート用紙の最後に書かれた、まるで古代文字を解読する気分にさせてくれる乱雑な文字を何とか読み取り、ボードから用紙を取り除いて丁寧に折りたたむと、デスクの引き出しではなくシャツの胸ポケットにそっとしまい込んで苦笑する。
「帰ろうか、リオン」
「・・・・・・うん」
デスクの上を整頓し小部屋に姿を消して着替えを済ませて戻ってきた時には、クリニックを経営する若き精神科医ではなく、リオンに限りない愛情と温もりを伝えてくれる恋人の顔になっていて、リオンがソファから立ち上がると同時にそっと手を取られて掌を重ね合わせて指を組んでくる。
自宅ではなくクリニックでのその行為が本当に珍しかったが、ウーヴェの掌の温もりがじわりと身体全体に伝わった刹那、リオンの肩が一つ上下し、何かを堪えるように空いている手で拳を作る。
「・・・どうした?」
「・・・・・・何でも・・・ねぇ」
「そうか」
「うん」
掌を通して伝わってくる思いから問いを発したウーヴェにリオンが顔を背けつつ何でもないと答え、早く家に帰ろうと俯き加減に囁くと、無言で繋いだ手に力が込められるのだった。
ウーヴェの家に帰り着いた二人は、警備員にはあまり見られたく無いとの思いから手を離していたが、エレベーターを降りた途端、リオンがウーヴェの腰に腕を回して顔を肩に押しつけていた。
歩きにくいのを何とか堪えてリビングに向かおうとしたが、今日はもう何も食いたくないと告げられて盛大に驚くものの、まだリオンの心が不安定な様子を感じ取ってその言葉を聞き入れるようにベッドルームに入り、パジャマの用意をして着替えさせると、ウーヴェがどうしても読んでしまいたい本があることを伝えてベッドヘッドにクッションと枕を立て掛けて背もたれにする。
クッションにもたれ掛かり本を広げるウーヴェの腿に上体を預け、腰に腕を回してただ静かに目を閉じていたリオンだったが、ウーヴェが小さな溜息を零して本を閉じたことに顔を上げ、見下ろしてくる優しい表情に目を閉じると額と鼻の頭にキスが降ってくる。
その優しいキスに今ならばどんな我が儘であっても聞き入れてくれると気付き、いつもと同じようで決定的に違う声で恋人の名を呼ぶ。
「オーヴェ・・・手ぇ貸して」
「どうした?」
首を傾げつつ手を差し出すと、クリニックから帰ってくるまでの間中そうしていたように、リオンの掌が掌と重なり指が組まれてリオンの顔の傍へと引き寄せられてしまう。
「────ここにいる。だから安心しろ」
ベッドの中で手を繋いで目を閉じるリオンから連想するのは、絶対的に信頼出来る筈の存在から見放された不安と焦燥に襲われている幼い子供の姿で、過保護だと思いつつも空いている手でリオンの肩を撫でて背中を撫でて最後は柔らかな髪を撫でつつ、ここにいるから安心しろと何度も囁くと、程なくして安堵にも似た溜息が一つこぼれ落ちる。
「明日は10時に間に合うようにホームに戻らないといけないな」
「・・・・・・うん」
「ああ、そうだ。さっきのアンケートだけどな、俺は天使じゃないぞ」
「・・・・・・あいつにとってのアーベルが俺にとってのオーヴェだから・・・天使で良いんだって」
「良いと言われてもな・・・」
さすがに天使は恥ずかしいと困惑気味に呟くウーヴェをじろりと睨んだリオンだが、逆に嘆きの天使にはもう眠って貰っていつもの元気なお前に戻ろうかと囁かれて瞬きを繰り返す。
「嘆きの天使・・・?」
「ああ。お前こそ、俺にとっての天使だな」
お前の中にいる彼女の死を嘆く天使にはそろそろ眠って貰おうと片目を閉じたウーヴェは、リオンの横に横臥しつつその髪にキスをし、真横に見える蒼い瞳にもう悲しむなと囁きかけると、無言で小さく頭を上下させたリオンがウーヴェに縋るように身を寄せる。
「お休み、リオン。今日はもう何も考え無くて良い」
「・・・・・・オーヴェ、手・・・」
「ああ。離さないから安心しろ」
どうしても手を繋いでいたいらしいリオンの言葉に一つ苦笑したウーヴェだが、手を繋ぐ行為からそれ以上のものを感じ取って心が揺れている様子に気付いていた為、思い直してリオンの手を再度繋いで手の甲にキスを残し、もう一度お休みと告げて額にもキスをする。
「お休み、リーオ」
「・・・・・・うん」
このまま出来る限りゆっくりと眠り、朝を迎える時にはいつものような元気を少しだけ取り戻して欲しいと願いつつ微かな寝息を立て始めたリオンに胸を撫で下ろしたウーヴェは、サイドテーブルに置いた本を再度広げて静かに読み進めていくが、片手はリオンの手をしっかりと握ったままで望み通り繋いだ手は離さないのだった。
翌日、予定通りの時間にノーラの遺骸だけを眠りに就かせる儀式が執り行われ、ウーヴェが用意をした喪服代わりのダークスーツをしっかりと着込み、昨日のような醜態は二度と見せないと心に誓った顔でリオンが葬儀に参列した。
式は滞りなく行われ、棺が下ろされた穴に土を掛けたリオンは、ヒンケルから届けられた花束とウーヴェが朝一番に用意をしてくれたらしい控えめながらも夏の盛りを思わせる花束をそっと墓の横に立て掛け、葬儀が始まる直前にノーラに最後の別れを告げた時の事を思い出す。
ノーラの顔は暴発事故に巻き込まれた傷跡が極力見えないように化粧が施され、損失してしまった指を隠すように色取り取りの花が身体や顔の周囲にちりばめられていて、事故のひどさを感じさせないように業者が気配りをしてくれていた。
生前の笑った顔を簡単に思い浮かべさせる為なのか、微かな笑みを浮かべて眠るように目を閉じている少女の額に別れのキスをしたリオンは、恋人が昨日言い聞かせてくれたように彼女は不幸だったかも知れないが、だが最後は確かに幸せだったと納得したのだ。
昨日までとは打って変わった晴天の下で執り行われた葬儀が総て終わり、どんな思いかは分からないが参列していた彼女の母とその両親を一瞥することなく墓地を後にしたリオンは、忙しいことを理由に気合いを入れたようなゾフィーを一度ハグすると、オーヴェとメシを食ってくると言い残してホームを後にしようとするが、ブラザー・アーベルとゾフィーに引き留められそうになって肩を竦める。
「リオン、明日から仕事ですね」
「うん。裁判の進行状況とかまた聞いてくるな」
「ええ。お願いしますね」
彼女の祖父母が起こした裁判の行く末と、彼女の父自身の裁判の結果が分かれば連絡するとマザー・カタリーナに伝えたリオンは、ゾフィーと同じように彼女の小さな身体を抱きしめて頬にキスをし、オーヴェに沢山心配を掛けたから謝ってくると告げて片手を挙げる。
そんなリオンを微笑ましそうに無言で見つめていたマザー・カタリーナだったが、ゾフィーとブラザー・アーベルに呼ばれて一度目を閉じると、ノーラが生きてきた時間を無駄にしない為にも出来る限りの事をしようとひっそりと決意をし、その思いを二人にも伝えるのだった。
昨日とは違って晴れ渡る青空の下を鼻歌交じりに歩いていたリオンは、ダークスーツ姿でクリニックが入っているアパートの階段を昇り、思い出した様に腕時計を見て時間を確認する。
この時間ならば午後の診察に入るまでの休憩を取っている筈だから突然押しかけたとしても大丈夫だろうと頷き、それでも一応気恥ずかしさからそっとドアをノックし、立ち上がって出迎えてくれる女性にはにかんだような笑みを浮かべて頭に手を宛がうと、驚きと安堵に彼女の顔が微かに歪んでしまい、珍しく慌てふためきながらオルガの前で弁解じみた事を口早に告げる。
「・・・そういうことだったの」
「うん、リアにも心配掛けた。ごめん」
「美味しい紅茶を買ってきてくれたら許してあげるわ」
昨日と同じ言葉を囁かれて大きく頷き、一年分の茶葉を買ってきてやると胸を叩いたリオンは、オーヴェはどうしたと周囲を見回しながら問いかけ、今昼食の買い出しに行っていることを聞かされて口笛を吹く。
「俺の分もあるかなぁ」
「有るはずがないでしょう?来るなんて思ってないんだから」
「・・・あるみたいだぜ、リア」
「え?」
オルガのデスク傍で言葉を交わしていた二人だが、両開きのドアが静かに開いて両手に袋を持ったウーヴェが戻ってきた事に気付き、二人で食べるには量が多すぎることを目敏く発見したリオンは、驚きと苦笑を同時に浮かべるウーヴェの前に立つと、スラックスのポケットに両手を突っ込んで口の両端を持ち上げる。
「ハロ、オーヴェ」
「ああ。・・・もう終わったのか?」
「うん、終わった。いっぱい迷惑かけた。ごめん。それと・・・ありがとう、ドク」
「どういたしまして」
とにかく話は後でゆっくりと聞くからと苦笑し、目を瞠るオルガに昼食にしようと袋を掲げて見せると、三人分のお茶の用意をするわと返されて絶句してしまう。
そしてその後、いつものように三人で賑やかにウーヴェが買ってきた昼食を食べ、午後の診察の時間までの休憩時間で彼女に最後のキスと別れをしてきたことをリオンが報告する。
リオンの顔を見つめながら話を聞いていたウーヴェは、昨日眠って貰おうと告げた嘆きの天使の影を見つけることが出来ずに胸を撫で下ろし、己の望み通りに眠りに就いてくれた事に目を伏せてリオンの話に耳を傾けているのだった。
窓の外に広がる青空はそんな彼らを見下ろしつつも、今日も高く広く澄み渡っているのだった。