若井は何度寝かした後、重い瞼を開いた。
全身に鉛のような疲労を感じる。
「あっつ……おも…」
腕の中の元貴はまだ眠っていた。全身を脱力させた成人男性の体重はまあまあ重い。しかも、元貴が着ているモコモコのパジャマも相まって、体温が直に伝わってきている。暑い。
手を当てている元貴の背中が上下に動く。ちゃんとここにいる、自分の目の届く場所にいてくれることに安堵して、そのまましばらく元貴が呼吸している感覚を味わう。
やがて、ギシギシと痛む体をねじり、起こさないようにしながら、元貴をソファーに横たわらせ、枕替わりにクッションを頭に敷いた。
起きている時より、眠っている時の方がずっと息がしやすそうな元貴の様子を見て、若井はそっと元貴の頭を撫でた。
穏やかな気持ちとは裏腹に、ここ数日の睡眠不足と精神的な消耗は、若井の体力を限界まで削っていた。
(今日、大学どうするかな……)
スマホの時計を見ると、昼過ぎ。今から行って間に合う授業はあることにはある。若井は悩みながらも、まず元貴の昼食を用意しようと立ち上がった。
冷蔵庫を開け、昨日作ったお粥を温め直す。若井はインスタントコーヒーをコップにセットしながら、元貴の無断欠勤の件をどうするか、疲れた頭で無理やり整理を始めた。
すると、いつの間に起きてきたのか、眠気まなこの元貴が後ろから若井のお腹に手を回して抱きついてきた。若井の体越しに、温め直しているお粥を見る。
「おはよ」
若井は口だけでそう言った。少し首を捻って後ろを見ると、眠そうにボーッと若井の手元を見ている。
「まだ寝てていいよ、寝てきな、」
自分が起きた時に起こしてしまったのか、そう思い二度寝を勧める。しかし、元貴は気にすることなく、若井の隣にピッタリとくっついて並んだ。
「……今日、何時から大学?」
無視かい、と思いつつも、若井はお湯をコップに注ぎながら考える。昨日のこともあったし、今日一人にすればほぼ確実に…二度と会えないことになる。そんな状態の元貴を放って大学になんて行けるはずがなかった。
「休む。」
素っ気ない返答に、元貴は、少しだけ顔を歪ませた。罪悪感と安堵が混じったような表情を見て、若井は少し笑みが浮かんだ。
「気遣わなくていいから。…今日一人は無理だろ」
元貴は長袖のパジャマに隠れる手をもじもじさせながら、目を泳がせて言葉を探している。
「大丈夫だから気にすんなって。友達がコピーさせてくれるし、大丈夫」
若井がぽんぽんと肩を軽く叩いて、お粥をテーブルに運ぶ。
元貴はそれ以上、何も言わなかった。
若井はスプーンとお粥をテーブルに置いたあと、椅子に座った。元貴も向かいに座る。
「そんなことよりさ。仕事、結局どうすんの」
自分のことより、本題に入ろうと若井は少し前かがみになりながら話した。元貴のスプーンを持つ手が止まる。
「……」
「休むなら、連絡しないと」
「…やだ」
「嫌でもしなきゃだめだろ」
若井はそう言って、立ち上がってソファーの近くにあった元貴のスマホを持ってくる。そしてテーブルに置いた。
元貴は置かれたスマホを見つめたまま動かない。痺れを切らした若井が、元貴の隣の椅子を乱暴に引き、そのまま横向きに足を組んで座った。
「つってもさ、LINEなんだろ?ゆっくり考えれるじゃん」
電話ならまだしも、LINEなら返信を考える時間がある。しかし、そう伝えても表情が晴れない元貴。若井には、何が引っかかるのかが分からない。普通に休みますの一言で済む話なはず。いじめをしてきた佐藤という男は、今連絡すべき店長とは別の人間だし、何で悩んでいるのかが分からない。若井は、今すぐにでも理由を聞き出したかったが、ひとまず向こうから話し出すのを待つことにした。
元貴の目をじっと見つめていると、元貴は恐る恐る目を合わせるが、またパッと逸らしてしまう。このまま待っていては日が暮れる。
「貸して」
じれったくなった若井は、テーブルに置かれた元貴のスマホを掴み取り、パスワードを解除する。元貴は一瞬、驚いた顔をしたが、若井の行動を止めることはしなかった。
LINEを開くと、どれが店長か分からなかったが、すぐに昨日の山のような着信の跡が残っていることに気づき、店長とのトーク画面を開いた。昨日は連絡出来ずに申し訳ありません、今日も体調が悪く〜といった謝罪文を打ち、送信した。
バンッとスマホをテーブルに置き、元貴を見る。元貴はバツが悪そうに目を逸らした。
「送っといた。…お前さ、流石にこれくらいは出来た方がいいって」
少し小言を零して、お粥がある向かい側の自分の席に戻ろうとした。しかし、その時元貴が若井の服を引っ張った。不機嫌そうな、怒っているような、そんな表情。
「…別に、あれくらい出来るし」
「はぁ…?俺がやんなきゃ絶対送らなかっただろ」
「…心の準備してただけじゃん」
「はいはい、わかったって」
そう言って席に座り、お粥を食べ進める。視界の端の元貴が全く動かないことに気づいたが、機嫌が悪い時はそっとしておくことに越したことはないと思った若井は、気づかないフリをした。
「ごちそうさまでした」
食べ終わった若井は、席を立ちキッチンへ向かう。先ほどからほとんど手が動いていない元貴を気にしつつも、皿洗いに集中することにした。
少し経って椅子を引く音がしたので後ろを向くと、食べ残した皿を置いたままソファーに座っている元貴。若井はため息をつきながら、元貴の傍に行った。
「もう終わり?」
「…」
「あれくらいは食べろよ」
「…」
手話は見えているはずなのに、見えていないフリをする元貴。あの少ない量のお粥も食べないようじゃ、本当にこのままじゃ倒れると若井は頭を悩ました。
「…ばっかする」
「え?なに?ごめん、見てなかった」
よそ見をしていて、手話を見ていなかった。元貴の方に向き直す。
「…若井は、いつも俺の邪魔ばっかする」
一瞬なんの事だか分からなかった。さっきのLINEのことは、元貴が出来なかったから自分がやったまでで。若井にとっては、邪魔なんかしたつもりはなかった。だから、何でそんな不機嫌そうな顔をしているのか分からなかった。
「邪魔なんかしてない。元貴が、自分で自分の道を塞いでるだけだろ」
それよりお粥を食べろと、若井はテーブルの方を指さす。途端に泣きそうな顔になった元貴は勢いよく立ち上がり、テーブルにあるスマホを掴んで寝室に行ってしまった。バンッと強く閉められたドアの音を聞いて、若井は苦笑いをした。
昼食後、若井は溜まっていた大学の課題に取り掛かろうと、リビングのテーブルに友達からコピーさせてもらったレジュメとパソコンを置いた。友達には、今の状況も伝えていて、理解した上で若井を助けてくれている。今度焼肉かなんか奢らないとな、と思いながらパソコンを立ち上げた。
着々と課題を進めていると、寝室から元貴が戻ってきた。ソファーに座って、若井の様子を伺っている気配がしたが、悪いがここで話している余裕は無いため、若井は気にせず課題を進めた。
すると元貴はソファからゆっくりと立ち上がると、若井の視界に入る部屋の隅へ移動し、そこで膝を抱えて丸くなった。音もなく、ただじっと丸くなっている。
若井は手を止めた。その姿は、まるで捨てられた小動物のようで、若井の注意を強く引く。
(あー、そういうことかよ)
若井は心の中で毒づいた。元貴は、若井が自分以外のことに集中することを許さない。若井の愛情が自分だけに注がれていることを、沈黙という最も強力な方法で確認しようとしているのだ。
若井は無理に課題を進めようとしたが、数分後には限界に達した。元貴の放つ無言のプレッシャーが、若井の背中に重くのしかかってくる。
若井は、乱暴にペンを置き、立ち上がって元貴の元へ向かった。
若井が近づくと、元貴は視線だけを若井に向けた。その瞳は、若井が来ることを確信していたかのように、満足した光を帯びていた。
「元貴。そこで何してんの」
若井は怒りや苛立ちを一切見せず、ただ疲労と諦念に満ちた手話をした。すると満足気な様子が消え、酷く怯えた目をした。
元貴は、若井の問いに答える代わりに、若井のパジャマの裾を掴んだ。
「……俺の事、もう嫌になった?」
「嫌になるわけないだろ」
若井はそう即答したが、その声はひどく掠れていた。
「…ごめん、さっき…」
「だからいいって。いちいち気にしすぎなんだよお前」
元貴は若井の胸元に顔を埋めた。若井のTシャツが、じっとりと湿っていくのを感じる。
若井は、元貴の背中を抱きしめた。繊細なのかワガママなのかよく分からないやつだなと思いつつ、自分の心の中で、前から薄々気づいていた感情を今認めることにした。
それは、若井自身が元貴がそばにいることで、自分の存在意義を感じていること。寝室から戻ってきて過剰にホッとしている自分がいることに気づいたのだ。元貴が自分の元から去るのを、自分自身が一番怖がっている。
若井は、元貴の試し行動が自分自身の弱さを映し出していることに気づき、涙が滲むのを感じた。
課題に手を付けられないまま、部屋の隅で元貴を抱きしめ続ける。時計の針は、容赦なく進んでいった。
あれからどれくらいの時間が経ったのかわからなかった。部屋の光は、いつの間にかオレンジ色から深い青に変わり、夕闇が窓の外を覆い始めていた。
若井の首はこわばり、頭の奥がズキズキと痛む。腹も減っている。何よりも、このままでは本当に課題を一つも進められないという焦燥感が、若井の疲労をさらに深めていた。
元貴は、若井の胸元で微動だにしない。まるで、若井の体が動かないことを、自分の安心材料として利用しているかのように。
若井は、意を決して元貴の肩に手を置き、少しだけ距離を取った。
「…元貴。もう夕方。ご飯食べよ」
と、疲労でわずかにかすれた手話をした。
元貴は、ゆっくりと顔を上げた。若井の顔を見た瞬間、その表情が微かに曇る。
「……若井、顔色悪いよ」
「だろうな。お前がここに釘付けにしたからな。」
若井は、冗談めかす余裕もなく、正直に答えた。元貴は、その言葉を聞くと、一瞬だけ罪悪感のような表情を見せたが、すぐにその目を伏せてしまった。
「……俺、別に、若井に付き合えって言ってない」
若井は、その天邪鬼な返しに、全身の力が抜けるのを感じた。元貴は、若井の献身を認めると、自分の存在が若井に負担を与えていることを認めなければならなくなる。それを恐れて、彼は若井の行動を「自発的なもの」「自分には関係ない」と突き放すのだ。
若井は、もう反論する気力もなかった。
「…そうだな。全部、俺の勝手だよ」
若井はそう手話で返し、元貴の頭を軽くぽんぽんと叩いた。
「飯、作ってくる」
若井は気持ちを切り替えるように、勢いよく立ち上がり、キッチンへ向かった。一歩踏み出すたびに、体全体の関節が軋むようだった。
冷蔵庫を開けていると、背後から元貴が近づいてきた気配がした。振り返ると、元貴が目を合わせないまま若井の左手を握ってくる。
「わかった。離れない」
若井は、何も言わずに元貴の意図を汲み取り、口だけでそう返した。
若井は、元貴の手を握ったまま、片手だけで夕食の支度を始めた。疲労は限界だが、元貴が安堵しているのを感じると、若井の心は奇妙な静けさに満たされた。
夕食後、若井はもう一度元貴の裸足の足を確認し、傷薬を塗った。そして、二人は再び寝室へ行く。
ベッドに横になり、若井は元貴を抱きしめた。元貴は若井の胸にぴったりとくっついていた。
「明日は大学行く。流石に明日は行かないとやばい」
元貴は、返事をする代わりに、若井の首筋に顔を埋めた。若井の胸にしがみつく手の強さが、元貴の感情を表していた。
若井は、もう元貴を説得する力もなかった。
「…すぐ、帰ってくるから。」
その夜も、若井は目を閉じながら、元貴の呼吸一つ一つを確かめ続けた。元貴の眠りが深くなっても、若井の心は休まらない。どうか朝も元貴がちゃんといますように、そう祈りながら眠りについた。
コメント
5件
一気見させて頂きました!! 話の作りが天才すぎすね😻😻
すごい...✨️ 今まで見た作品の中で一番好きかもしれません...! もし、よかったらフォローよろしいでしょうか...? コメント失礼しました!🙇
