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#王子
あの嵐のような夜───
呪いという名の濁流がすべてを呑み込み、そして浄化していった夜から、数ヶ月の月日が流れた。
かつて屋敷を重苦しく覆っていた
獣の体臭や血の匂いを含んだ禍々しい空気は、今では嘘のように晴れ渡っている。
激しい暴走で吹き飛んだ屋根も、職人たちの手によって丁寧に修復され
新築のような清々しい木の香りを漂わせていた。
庭園に目を向ければ、あの日
妖力によって狂い咲いていた季節外れの桜は姿を消し
代わりに本物の初夏の若葉が、陽光を透かして瑞々しい緑を芽吹かせている。
池の面に跳ねる水の音さえも、どこか穏やかな調べに聞こえた。
「……緒美。また、そんなところで働いているのか。少し目を離すとこれだ」
廊下の隅々まで丁寧に磨き上げていた私の背中に
聞き慣れた、けれど以前よりずっと柔らかく
深みのある響きを含んだ声がかけられた。
振り返ると、そこには紺青の着物をさらりと着流した刹那様が立っていた。
威圧の象徴だった額の漆黒の角は、もうどこにもない。
夜の底のように昏かった緋色の瞳は
陽だまりに溶ける蜂蜜か、穏やかな夕焼けのような茶褐色へと落ち着いている。
今の彼は、異界の支配者でも、飢えた捕食者でもない。
どこからどう見ても、一人の高貴な人間の若旦那そのものの姿をしていた。
「あ、刹那様。お帰りなさいませ…すみません、どうしてもじっとしているのは性分に合わなくて」
「それに、この家を隅々まで綺麗に保つのが、今の私の何よりの幸せなんです」
私が雑巾を手に微笑むと、彼は困ったように
けれど愛おしそうに眉を下げ、私の手からそれをひょいと取り上げた。
「お前はもう、この屋敷の『奉公人』でもなければ、競り落とされた『所有物』でもない。俺の唯一の妻だろう。……少しは、俺に甘えるということを覚えろ」
「そう言われても…」
「俺を寂しがらせて楽しいのか?」
「そ、そういうわけでは…!」
茶化すような、けれど本気の熱を帯びた言葉と共に、彼は私の指先をそっと包み込んだ。
かつて、鋭い爪を剥き出しにして私の喉笛を狙ったその手。
今、私の肌を慈しむように撫でる指先は
驚くほど繊細で、触れられるだけで胸の奥がじんわりと温かくなる。
私たちは連れ立って、日当たりの良い縁側に腰を下ろした。
壁一枚隔てた遊郭「朧月夜」の喧騒は、相変わらず遠くで祭りの残響のように聞こえてくるけれど
私たちの周りだけは、まるで透明な幕で切り取られたかのように、穏やかで優しい時間が流れている。
「……刹那様。あの、懐中時計はどうなりましたか?」
ふと思い出して尋ねると、彼は少しだけ懐かしそうな目をしながら
着物の合わせからあの金細工の時計を取り出した。
表面を覆っていたガラスは粉々に砕け散り、盤面は剥き出しのままだ。
黄金の針は、あの日突き抜けた「零」の地点でピタリと止まり、二度と動く気配はない。
かつては彼の理性を繋ぎ止めるための、命懸けの「楔」だった呪具。
それが今では、陽光を反射するだけの
ただの精巧な細工物として彼の大きな手に収まっている。
「これはもう、動くことはない。……俺の中の空虚な飢餓は、お前という、この世で最も甘美な愛で完全に満たされてしまったからな」
刹那様は愛おしそうに、動かない時計の文字盤をなぞり
それから吸い寄せられるように私の肩に頭を預けてきた。
かつての「最強の鬼」としての誇りも
孤独な王としての虚勢も脱ぎ捨てた、無防備で、少年のような姿。
「だがな、緒美。時折、ふとした瞬間に怖くなることがある。……あの日、お前が俺を拒まず、あの覚悟の口づけをくれなかったら」
「…っ」
「俺が呪いに完膚なきまでに負けて、お前を、この腕の中で喰らい尽くしてしまっていたらと。そう考えると、未だに背筋が凍る思いがするのだ」
「……大丈夫ですよ。刹那様、私はここにいます。こうして、貴方様のすぐ隣に。これからも、ずっと」
私は彼の手を、自分の両手で包み込み、指を絡めた。
呪いが解けると共に、彼の中にあった絶大な妖力は大部分が失われた。
今の彼は、人間に比べれば少しだけ長生きで
少しだけ力が強いだけの、不完全な存在だ。
けれど、その喪失と引き換えに、彼は熱い涙を流す心を知り
共に囲む食卓を美味しいと感じ
そして、誰かを心から愛するという「当たり前の、けれど何物にも代えがたい奇跡」を手に入れたのだ。
「緒美。お前が俺にくれたのは、ただの命じゃない。……共に目覚め、共に眠る、この穏やかな『時間』そのものだ」
刹那様がゆっくりと顔を上げ、私の瞳を射抜くようにじっと見つめる。
その茶褐色の瞳の中に映るのは、もう恐怖に震える獲物ではない。
深い愛情と情熱を捧げ、共に生きていく最愛の伴侶の姿。
「私も感謝してるんですよ…居場所と愛をくれたあなたに」
彼は吸い込まれそうな距離まで顔を近づけ、あの日
絶望と血の味が混じり合った場所と同じところに、今度は羽が触れるような
慈しみに満ちた優しい口づけを落とした。
懐の中の時計は、もう二度と時を刻まない。
けれど、重なり合った二人の胸の奥では、同じ速さで、同じ熱を持って
真っさらな未来へ続く鼓動が力強く、確かに鳴り響いている。
朧月夜の夜空を仰げば、そこにはもう、不吉な予兆を告げる赤色はない。
ただ、静かに瞬く無数の星々が
永久に続く二人の幸せな夜を祝福するように
いつまでも、いつまでも輝き続けていた。