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ガキの頃、母親が再婚した。
母親は奔放で男癖が悪い女であったが、見た目だけは美しい人だった。そして、新しく父親になった男も母と似たタイプの人間だった。類は友を呼ぶとはまさに二人のことを指し示す言葉で、二人は家庭に対する愛情も子供を庇護する心さえも持ち合わせておらず、毎日のように酒とセックスに溺れていた。
父親は母の遺伝子を引き継いだ俺の顔を気に入ったようで、初めのうちは優しくしてくれた。パチンコ屋で貰った菓子を気まぐれにくれたことを覚えている。けれども両親たちは基本的に俺たちのことを放置していた。育児らしい育児もせずにテーブルに置かれた適当な小銭で食べ物を買う毎日。
同じ年頃の子供が両親と楽しそうに手を繋いで歩いてるのを見て、羨ましいと感じることも多々あった。
______だが、俺は寂しくなった。
________男には連れ子がいたのだ。
俺よりも二歳年上の深い朱色の髪をした男の子。
「今日からこの子が遥のお兄ちゃんよ。チカくん、遥のことをお願いね」と母に紹介してもらったときのことは今でもよく覚えている。何処となく自分の右目と似た色の瞳がじーっと俺のことを見つめていた。
俺はその日以来、どこへ行くにも兄の後ろをついて回るようになった。
基本的に無口なのか、兄は最低限の意思表示しか言葉を発さずに俺が後ろをついて回っても特に何も言わなかった。それでも自分よりも少し背の高い兄の背中はとても頼もしく感じた。
兄は学校や近所ではあまり評判が良くないらしく、俺が傍にいないときはいつも一人だった。いつも声をかけるのは俺で、手を繋ごうと手を伸ばすのも俺。一方通行のコミニケーションが日常的で、俺は兄も両親たちと同じように自分に関心がないのだと思い、少しだけ寂しくなった。
きっと兄は俺がある日突然いなくなっても戸惑うことも探すこともせずに、いつも通り一人きりの日常を過ごすのだろう。
そう考えると、胸がチクリと痛くなった。
けれども、俺は兄を焚石矢という男を見誤っていた。
ある日、俺が小学校から帰ってくる兄を公園で待っていたときに事件は起きた。数日前に兄に喧嘩で負けた兄の同級生たちが俺に絡んできたのだ。多勢に無勢で負けた時点でダサいというのに、奴らは俺が焚石矢の弟だと知ってわざと絡んできたのだ。弟を虐めて鬱憤を晴らそうとでも考えたのだろう。
俺は絡んできた奴らの一人に腹を殴られた。
痛みと衝撃で涙目になってその場に蹲ると、見張りをしていた男子生徒が髪を掴んで無理やり俺の顔を上に向けさせる。「気色悪い髪だな」とか「コイツ右と左で目の色違うぜ」と嘲るような言葉に頭がカッとなって、思わず涙が溢れた。
しかしその直後、俺の髪を掴んでいた奴が顔面からその場に倒れ込んだ。
俺がハッとして顔をあげると、そこには黒のランドセルを背負った兄が同級生の後頭部を地面にグリグリと蹴り倒して立っていた。
「コイツ、泣かせたのお前らか」
兄はハイライトのない瞳でじっと周囲の同級生たちを見下すと、踏みつけていた男子生徒の顔をより強く砂利の地面に擦り付ける。
男子生徒は衝撃で歯が折れてしまったのか、口から酷く出血をしており、痛みから気絶しているようだった。
すると、突然の登場と圧倒的な暴力を前に恐れを成したのか、周囲にいた兄の同級生たちは一目散に逃げ出した。
だが、兄は売られた喧嘩を決して見逃さない。
逃げ惑う同級生に後ろから飛び蹴りをしたり、首を掴んで窒息をさせたり、とにかく鬼神の如きスピードと腕力でその場を制圧した。
俺の腹を殴ったやつに関しては、顔の原型がわからなくなるまで兄はガツガツとひたすらに拳を振り下ろしていた。
夕暮れの公園で動くのは、俺と兄の影二つ。あとの全員がピクリとも動かずに地面で横たわっていた。
兄は粛清を終えると、腰を抜かしてペタリと地面に座り込んでいる俺の元に真っ直ぐやってきた。そして、へたり込んだ俺の頭に手を置くと優しい手つきでポンポンっと頭を撫でてきた。
「遥、大丈夫だ。もう怖くない」
「…………に、い…ちゃん」
兄は返り血で濡れた手をスッと伸ばすと震える俺の身体を抱きしめていた。
俺の身体の震えは、慕う兄が助けに駆けつけてくれたことへの安堵だったのか、はたまた僅か数分でその場に血溜まりを築いた兄への恐怖だったのか、当時の俺には判断ができなかった。
だが、俺はこのとき初めて気がついた、
自分の存在が焚石矢という男の衝動の引き金に成り得るということ。そして、予想以上に自分は兄に愛されているということに。
その日を境に兄の態度は一変した。
今まで俺が兄の後ろをついて回っても振り向きさえしなかったというのに、その日以降兄はどこへ行くにも俺の腕を引いて歩くようになった。そして事あるごとに頭を撫でたり、抱き寄せたり、明らかにスキンシップが増えた。俺は兄が自分に興味を持ってくれたことが嬉しかった。甲斐甲斐しく俺の世話を焼いてくれる兄の姿が、テレビや絵本で見て憧れてきた「お兄ちゃん」像に重なり、側から見ても俺は兄によく懐いていたと思う。
しかし、疑問に思うこともあった。
兄は学校へ行く前や帰ってきた後、同じ布団で眠る前に俺にキスをするようになったのだ。抱き寄せたり頭を撫でたりするのは兄弟の戯れ合いとして理解できた。だが、俺たちの間で秘密裏に繰り返される唇を重ねるという行為の意味が俺にはよくわからなかった。
チュッと啄むような優しく軽いキス。
俺は兄に触れられるとなんだかふわふわした気持ちになって、自然と力が抜けていった。
それが兄と弟の正しい関係性ではないことは頭のどこかで理解できていた。
けれども、兄を慕う気持ちと、兄を拒絶することへの罪悪感や恐怖がせめぎ合い、俺は求められるまま兄との秘密の逢瀬を続けた。
しかし、兄との別れは唐突にやってきた。
小学生になった俺が学校から帰宅すると、リビングに血を吐いて倒れる父親の姿があった。顔は赤く腫れ、父親の近くには血液と胃液らしい黄色の液体が撒き散らされていた。
そして、そんな生きているか死んでいるかわからない状態の父親をゴミを見るかのような眼差しで見下ろしている兄の姿がそこにはあった。
俺は手にしていた手提げ袋を床にドサっと落として、頬についた返り血を拭う兄を呆然と見つめた。震える身体を抑えてその場に立ち尽くす俺を見て、兄はいつも通りの声色で「おかえり、遥」と微笑んだ。
後から話を聞いたところ、どうやら酒を飲みながら知人と電話をしていた父親が通話の中で「妻の連れ子は顔は可愛いからな、中学を卒業したら風俗に落として金を巻き上げればいいさ」といった内容を口にしていたらしい。その発言をたまたま耳にした兄が問答無用で通話中の父に殴りかかり、父が言葉を発しなくなるまで永遠にその顔を殴り続けたのだ。
父は後遺症こそは残るがどうにか一命を取り留めた。兄の狂気に次は自分が殺されるのではないかと危惧した母は俺と兄を置いて逃げるように家を出て行った。
そして、兄は今回の件に加えてこれまでの傷害行為の数々の実態を考慮して、知らない大人たちに観察施設と呼ばれる場所に連れて行かれた。
兄は大人たちに連れていかれる直前まで、抱き寄せた俺の身体を離そうとしなかった。
そして、俺の頭を撫でながら「遥、俺の可愛い弟。誰にも渡さない…」と譫言のように呟いていた。
一人残された俺はその日以降、別の県の児童養護施設で過ごすこととなった。
兄がいない生活は寂しさを感じると共に俺に安堵をもたらした。
兄はもとより暴力的な人物ではあったが、俺という存在が引き金となって怪物になる。
兄は俺に敵意を向ける人間に容赦がなかった。
近所の意地悪な同級生や邪な目で俺を見ると大人たちを決して許さない。兄が俺のために人を殺したと言われても、それは正直現実味のある話だった。俺が傷つかないように自分の腕の中に閉じ込めてしまいたい、俺を傷つけるものを全て排除したい、そんな歪んだ愛情を俺は幼いながらも感じ取っていた。
そしてそれ以上に兄は俺が好意を寄せる相手を嫌悪していた。親切にしてくれた学校の先生や度々お菓子をくれた近所の優しいお兄さん、俺がそういった他人に心を許して近づく様を兄は嫉妬と殺意が入り混じった瞳で眺めていた。
俺が他人に笑顔を見せることが面白くなかったのだろう。俺の世界が広がるにつれて、兄からの束縛が強まるのを感じた。
ある日、俺が慕っていた教師が階段から落ちて大怪我をした。また別の日、優しくしてくれた近所のお兄さんが線路に落ちて入院した。大事には至らなかったが、お兄さんは後日痛々しい体を引きずって何かに怯えるように引っ越していった。
その話を聞いたとき、俺は身近な人の不幸にショックを受けて固まった。だが、隣にいた兄の顔をふと見てみると、兄は僅かに口角を上げて笑っていたのだ。
あのときの兄の不敵な笑みは今もなお俺の脳裏に鮮明に焼き付いている。
だからこそ、兄と離れることになったときは少し安心した。
俺は執着心に塗れた兄の眼差しから逃げ出したのだ。離れ離れになってから一度も連絡を取らなかった。手紙を書くことは許されていたのだが、便箋を前に鉛筆を握る手がうまく動かなかった。だが、その代わりに兄からは定期的に手紙が届いた。
手紙の内容は主に俺に会いたいという主旨のものばかりで最後には必ず「迎えに行く」と綴られていた。
大人たちは俺がどこの施設にいるか兄に伝えていなかったようで、俺が養護施設にいる間、兄が姿を見せることはなかったが、俺は兄がいつか保護観察施設を抜け出して俺の元にやってくるのではないかと怖くなった。
_____俺は兄のことは嫌いじゃない。
頭を撫でてくれる大きな掌も、俺をおぶって運んでくれた頼りになる背中も、「遥」と呼ぶ優しい声色もとても心地よいものだった。
けれども、それと同時に俺は兄のことが怖い。
俺以外のものを全て壊そうとする衝動が、制御できない独占欲が、俺の心の身体を縛り付ける。
だが、恐怖に屈するわけにはいかない。
今の俺には守りたいものが、戻りたい場所があるのだ。
棪堂との交戦の最中、久々に聞いた兄の名前に足が竦んだ。
_____兄がこの場にいる。
_____今屋上で梅宮と拳を交えている。
棪堂の話ぶりから察するに、兄はまだ俺の存在に気がついていない。俺が風鈴の制服に袖を通していることを知れば、激昂することは目に見えている。
そしたらまたあの日々の繰り返しだ。
大事なものは壊される。
俺が大切に思えば思うほど、兄は焚石矢という男は何の躊躇もなく俺の大事なものを壊していく。自分以外に心を許す存在を作るなと淡々とした怒りを露わにする。
だからこそ、本来ならばここで俺が逃げ出す方が風鈴のためになったのかもしれない。兄を遠ざけて、どこか見つからない場所に息を潜める方がみんなを守る選択になったのかもしれない。
_______だが、俺は逃げなかった。
今俺がここで逃げ出せば、兄と類似する力を持つ棪堂をこの先に通すことになる。椿たちが託してくれた想いや期待を無碍にすることになる。それだけはできない、そんな強い信念が俺を戦場に駆り立てた。
燃え尽きてもいい。
勝たなくていい。
倒れなければ、負けじゃない。
俺は刺したがえる覚悟で棪堂に立ち向かった。次に意識が戻ったとき、大切な仲間たちの笑う顔が目の前に広がることを祈って、俺は戦場に佇んでいた。
桜さんと棪堂哉真斗の一戦は両者相打ちという形で幕を閉じた。だが実際には棪堂が気絶したのを確認してから意識を手放した桜さんの勝ち、桜さんは負けなかった。自分よりも格上の相手だとしても、背負った覚悟を胸に最後まで戦い抜いた。
桜さんが棪堂に被さるように倒れたところで、俺と蘇枋さんは急いで桜さんの元に駆け寄った。
負った傷は深く、どれも致命的。今すぐに病院に運ぶべきだと結論付けた俺は慌てて救急車を呼ぼうとスマホを取り出したが、蘇枋さんが「救急車を待つよりタクシーで近くの病院に運んだ方が早そうだ」と焦る俺を落ち着かせてくれた。
蘇枋さんは「俺がタクシーを呼んでくる」と言い残して、走ってその場を後にした。
俺は気絶した桜さんの背負って、校庭の隅にある桜の樹まで移動した。
桜さんの心臓がトクトクと波打っていることを確認すると、同じ現場にいた柊さんと十亀さんも安堵した様子だった。
「一時はどうなるかと思ったが…桜のおかげで最難関の一つを突破することができたな…本当大した男だよ」
「さすがは桜だ。誰よりも真っ直ぐで強いや…」
「はい……俺…桜さんがどこかに行っちゃうんじゃないかと思って…本当に不安で…本当…良かったです……」
俺は桜さんが苦しくないように自分の膝の上に桜さんの頭を乗せて、白と黒の柔らかい髪を撫でる。
これで地上での戦いには終止符が打たれた。あとは大将戦となる屋上の戦いの行方だけ。杉下さんと柊さん、そして十亀さんは眠るように気絶している桜さんの容態を確認した後、顔を見合わせて頷き合った。
「………楡井、桜のことを頼めるか。俺たちは屋上に向かう」
「蘇枋の方もすぐに戻ってくるだろうから、タクシーで先に桜を病院に連れて行ってあげて」
「………………」
三人からの真っ直ぐな視線に応えるように俺は力強くその場で頷いた。
今俺にできることは戦い終えた桜さんが目を覚ましたときに笑顔になれる環境を整えること。
大丈夫、梅宮さんも絶対に負けない。
防風鈴として俺たちは街を守り切る。
俺は桜さんの手をぎゅっと握りしめた。
「はいっ!!桜さんのことは俺に任せてくださいッ」
◇◇◇◇◇
校舎の中へと駆けていく三人の背中を見送って数分後。
俺は自分のハンカチで桜さんの顔周りを止血し、蘇枋さんが戻ってくるのを桜の樹の下で待っていた。
屋上の戦況はどうなっているのだろうか。
それぞれの方角で戦闘していた風鈴の仲間たちの安否は大丈夫だろうか。
そんなことを考えながら、ただ祈るように桜さんの手を握る。
_______でも、きっと平気だ。
明日からはまた街の復旧作業をみんなで手伝って、帰りにはポトスで桜さんの大好きなオムライスを食べよう。とはいえ桜さんはきっと絶対安静を診断されるだろうから、桜さんが元気になったら、ことはさんにオムライスを作ってもらおう。
蘇枋さんも杉下さんも柊さんも椿さんたちも、防風鈴のメンバー全員で押しかけたら、またことはさんは怒るだろうけど、きっと街を守り抜いた俺たちの意地に免じて呆れ笑いを浮かべながら料理を振る舞ってくれるはずだ。
俺はそんな楽しい未来の出来事を想像して、膝の上で眠る桜さんをそっと撫でた。
その直後、昇降口から人影が出てくるのが見えて俺はバッと顔を上げた。
柊さんたちが桜さんを案じて戻ってきたのか、それとも梅宮さんが喧嘩を終えて降りてきたのか。
そんな希望を胸に俺はこちらに歩いて向かってくる人影を凝視した。
そこにいたのは、深緑の制服を纏った人物ではなかった。
柊さんでも梅宮さんでもない。
屋上から一番先に降りてきたのは、紅色の長髪を風に靡かせた男。
それは特徴からして今回の抗争を仕掛けた張本人、元風鈴生の焚石矢本人だった。
その姿を認識した直後、俺の頭は真っ白に染まった。
____________何故。
どうして梅宮さんではなく、あの男が先に屋上から降りてくるのだ。
平然と歩いている様からして奴が重傷を負っているようには見えない。
つまりはあの梅宮さんが負けたのか。
心臓がドクドクと大きな音をたてて波打つ。
焚石矢が梅宮さんを打ち負かしたという事実に絶望している最中、俺はとあることに気が付いた。
そう、焚石矢の進行方向が校門ではなかったのだ。
梅宮さんという獲物を倒した奴にとって、もうこの場に自身の興味を引く存在はいない。退屈な風鈴は奴にとって無価値で、干渉するに値しない。故に焚石矢は戦闘が終われば、他の生徒には目もくれずそのまま風鈴を後にするはずだ。
_______それが俺の予想だった。
しかし、焚石矢は明確な意志を持ってこちらに向かってきていた。学校の出口となる校門ではなく、俺と桜さんが身を寄せる桜の樹のもとに一歩そしてまた一歩と近づいてくる。
俺は咄嗟に庇うようにして眠る桜さんの身体を抱き寄せる。
そして、焚石矢は俺たちの前に到達するとピタリと足を止めて、桜さんのことを指差した。
「…………それは俺のモノだ。今すぐに渡せ」
「はっ……な、何を言って……」
「遥は俺のだ。ずっと探してた、俺の遥」
「………ずっと、探していた?」
この男は何を言っているのだろうか。
桜さんを探していた、つまりは二人には何らかの面識があるのか。それにこの男から感じる禍々しい圧は一体何なんだ。
琥珀色の瞳には眠る桜さんの姿しか映されていない。
俺は本能的に焚石矢に殴りかかった。
側から見れば蟻が象に挑むくらい無謀で滑稽な姿だっただろう。だが、今ここで俺が立ち向かわなければ、桜さんがどこか遠くに連れて行かれてしまう。そんな思いが過り、気が付いたときには拳を振り上げていた。
焚石矢は俺の攻撃を最も簡単に躱すと、無防備になった俺の溝打ちに鋭い蹴りを食らわせる。感じたことのない強烈な痛みと、込み上げる吐き気から俺は口から胃酸を溢し、その場に倒れ込んだ。
地面に這いずり、薄れゆく意識を辛うじて前方に向けると、そこには桜さんの身体を抱き上げた焚石矢の姿があった。
「………遥、俺の遥。やっと会えたな」
そう囁いた焚石は桜さんの頬に擦り寄ると、くるりと身体の向きを変えて校門へと歩い出す。
連れて行かれてしまう。
敬愛する人が、どこか遠くに行ってしまう。
俺は激痛を抑えながら、震える手で遠ざかる焚石の背中に手を伸ばした。
「………まて、さ、くらさん…いかないで…」
しかし悲痛な言葉が桜さんに届くことはなく、次第に視界が歪み、俺はその場で意識を手放した。
◇◇◇◇◇
気を失った遥の身体を抱き寄せて俺は足速に歩く。
探していた失くしモノが数年越しに帰ってきたことへの歓喜に心が満ち足りていく。
屋上での梅宮との交戦の最中、チラリと校庭に目を向けると、そこには長年探し求めていた弟の姿が見えた。
保護観察施設の人間を脅してようやく遥が暮らす他県の養護施設を調べたというのに、俺が辿り着いたときには遥は既にそこにいなかった。
足取りも掴めず、苛立ちと鬱憤に飲まれる毎日。
昔から退屈でモノクロな日常が唯一色味を帯びるのは、絶対的な力を奮って誰かを屈服させるとき、そして最愛の弟をこの手で抱きしめるときだけだった。
遥さえいれば、あとはどうなろうと構わない。
絶対にどんな手を使ってでも遥を俺の手元に連れ戻す。そうしたドス黒い感情が常に俺の奥底に眠ってきた。
_______そして好機が巡ってきた。
因縁の梅宮との交戦の舞台で、遥が風鈴に属していることを知った。もう少し祭りを楽しみたい気持ちもあったが、棪堂と拳を交える遥の姿を見て俺の気持ちは変わった。今すぐにこの闘いを終え、弟を迎えに行ってやるべきだと考えた。
それからは如何に最短で梅宮を喰らうかに脳をシフトチェンジさせた。倒れる梅宮を後にその場から立ち去ろうとすると、ぞろぞろと三下共が屋上に上がってきた。絶望的状況に発狂した奴らがそれぞれ殴りかかってきたが、そんな底辺の奴らに構っている暇はなかった。問答無用で雑魚を薙ぎ倒し、校庭で倒れる弟の元に駆け寄った。
顔に痛々しい傷があるものの、久々に見た弟の姿はあまりにも愛おしく美しかった。
俺は腕の中で眠る最愛の弟の額に軽いキスを落とした。
やっと自分の手元に弟が帰ってきた。
ようやく迎えに行くことができた。
今日からまた二人で暮らすことができる。
遥に触れることが、遥を食らうことができる。
「遥、待たせてごめんな。これからはずっと一緒だからな…」
焚石はフッと口角を上げてその場で笑った。
恋焦がれていた弟の身体を抱き寄せて、静かに微笑む焚石はこの瞬間、この街の誰よりも幸福な男であった。
桜遥
両親の再婚によって焚石と義兄弟となり、幼少期を過ごした。兄のことをよく慕い懐いていたが、兄が自身に向ける狂気的な愛情が怖くなり、引き離されて以降自分から連絡を取ることはしなかった。
連れ去られたあとは焚石に手当てをされた状態で半日後に目を覚ますが、そこに風鈴の仲間の姿はなく絶望する。自分に優しくしてくれる兄から逃げたことに罪悪感を持っているため、焚石を強く拒むことができない。
幼少期はキス程度の戯れ合いだけであったが、再会してからは性的な関係も迫られ、困惑している。
焚石矢
両親の再婚をきっかけにできた義弟の遥に強い執着を持つお兄ちゃん。遥に危害を加えるもの、遥に好意を向けるもの、遥が大切に想うものがとにかく憎い。遥には自分以外の世界はいらないと考えいるため、連れ戻した後も基本的に自宅で監禁状態。
恋愛や肉欲といった感情も弟相手にのみ発生するため、喧嘩で滾った熱を弟の身体で発散することもしばしば。
スーパーヤンデレサイコパスお兄ちゃん。
棪堂哉真斗
今回出番なし。
桜に惚れ込んでお持ち帰りしたかったが、相打ち覚悟の頭突きでKOされたため、持ち帰れなかったことを嘆いていた。闇医者で治療した数日後、フラフラした足取りで焚石と暮らす隠れ家に帰宅すると、そこで自分の崇める神(焚石)と戦場で惚れた天使(桜)がにゃんにゃんしているシーンに遭遇。あまりの神聖な光景に鼻血を垂らしてガン見していた。
焚石には悪いと思っているが、常に桜を味見しようと狙っている生粋の変態。