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第九十一話 新しい春
四月。
桜が満開になった街を、
湊はカメラを片手に歩いていた。
去年の春とは、少し違う気持ちだった。
写真を撮り始めた頃は、
目の前にある景色を
きれいに残すことばかり考えていた。
けれど今は、景色の中にいる人や、
その人たちが
過ごしている時間にも目が向くようになった。
同じ桜でも、誰と見るかによって意味は変わる。
誰かにとっては、新しい生活の始まり。
誰かにとっては、別れを思い出す季節。
そして誰かにとっては、
何年経っても忘れられない景色になる。
湊は、通りの向こうで
立ち止まっている親子に気づいた。
小さな子どもが、桜を見上げている。
隣にいる母親は、
子どもの目線に合わせて何かを話していた。
子どもが笑う。
母親も笑った。
湊は少し離れた場所から、その光景を写真に収めた。
撮ったあと、画面を確認する。
特別な構図ではない。
けれど、二人の表情には、
その瞬間にしかないものが写っていた。
「……こういう写真、もっと撮りたいな」
自然と口に出た言葉に、湊自身が少し驚いた。
以前なら、
写真の技術をもっと磨かなければと考えていた。
もちろん、今でも技術は必要だと思っている。
けれど、技術を身につけた先で、
自分は何を残したいのか。
その答えが、少しずつ見えてきていた。
スマートフォンが震えた。
紬からだった。
『桜、見た?』
『見た。今も撮ってたところ』
『私も今日、大学の近くで見たよ!』
続けて、写真が送られてきた。
大学の建物を背景に、満開の桜が広がっている。
その下では、何人かの学生が楽しそうに話していた。
『新入生の子たちがたくさんいて、去年の自分たちを思い出した』
湊は、そのメッセージを読んで笑った。
『もう一年経ったんだな』
『ね。早すぎる』
『今年はどんな一年になるんだろうな』
送信してから、湊は少し考えた。
去年の今頃は、
これから始まる生活に期待する気持ちと、
不安な気持ちが入り混じっていた。
何ができるのか。
自分の選んだ道は合っているのか。
そんなことを考える日もあった。
でも、答えがすぐに出なくても、
歩き続けることはできた。
『分からないけど、去年よりいろんなことに挑戦できたらいいな』
紬から返事が届いた。
『私も。もっといろんな人と関わりたい』
その言葉を見て、湊はカメラを持ち直した。
二人とも、去年とは少し違う場所に立っている。
同じ夢を追いかけているわけではない。
それでも、自分が大切にしたいものを
探していることは、どこか似ていた。
数日後。
湊のもとに、一通のメールが届いた。
以前参加した地域の撮影企画について、
担当者からの連絡だった。
撮影した写真をまとめた作品集を
制作することになり、
湊の写真も掲載候補に選ばれたという。
湊は、何度もその文章を読み返した。
大きな仕事ではない。
これだけで写真家になれるわけでもない。
それでも、自分が撮った写真を
誰かに届ける機会が、一つ増えた。
すぐに担当者へ返信した。
必要なデータを確認し、写真を選び直す。
どの写真を載せるのか。
どんな順番で並べるのか。
添える文章はどうするのか。
考えることは思っていた以上に多かった。
何枚もの写真を見比べているうちに、
湊は一つのことに気づいた。
自分が気に入っている写真と、
誰かに伝えたい写真は、必ずしも同じではない。
自分がうまく撮れたと思う一枚よりも、
少し不器用でも、
その人の気持ちが伝わる一枚を選びたい。
そう考えると、選ぶ基準が変わった。
最後に残ったのは、
イベントの終わりに撮った一枚だった。
参加者たちが片づけを終え、帰る前に集まっている。
笑っている人もいれば、
名残惜しそうに話している人もいる。
その表情は、
撮影のために作られたものではなかった。
一日を一緒に過ごしたからこそ生まれた、
自然な表情だった。
湊は、その写真を作品集に送ることに決めた。
添える文章は、短くした。
――同じ時間を過ごしたことが、
いつか誰かの大切な記憶になりますように。
文章を読み返したあと、湊は保存ボタンを押した。
送信が完了する。
画面に表示された完了通知を見て、
ようやく肩の力が抜けた。
「……よし」
小さく呟いた声は、誰もいない部屋に消えた。
その週末、湊と紬は久しぶりに会った。
待ち合わせ場所に現れた紬は、
湊を見るなり手を振った。
「久しぶり!」
「この前、電話したばっかりだけどな」
「電話と直接会うのは違うでしょ」
「それはそう」
二人は笑いながら歩き始めた。
近況を話しているうちに、湊は作品集の話をした。
「写真、選ばれたの?」
紬は嬉しそうに聞き返した。
「まだ掲載が決まったわけじゃないけど、候補には入れてもらえた」
「すごいじゃん!」
「いや、まだどうなるか分からないし」
「でも、前に進んでるってことじゃん」
その言葉に、
湊は返事をしようとして、少しだけ黙った。
前に進んでいる。
自分では、まだ足りないところばかり見ていた。
もっと上手に撮れるようになりたい。
もっと多くの人に写真を見てもらいたい。
もっと、自分の伝えたいことを
表現できるようになりたい。
だから、今の自分がどこまで進んでいるのか、
あまり考えていなかった。
「……そうかもな」
湊は、少し照れくさそうに笑った。
「紬は?」
「私は、大学で新しい交流企画の準備を始めたところ」
「どんな企画?」
「日本人学生と留学生が、一緒に何かを作れる機会を増やしたいなって。まだ具体的な内容は決まってないけど」
紬は前を向いたまま話した。
「ただ話すだけでも楽しいけど、何か一緒に取り組むと、相手のことをもっと知れる気がするんだよね」
「うん」
「言葉が違っても、好きなものが違っても、一緒にできることはあると思うから」
湊は、紬の横顔を見た。
その考え方は、紬らしいと思った。
誰かと誰かの間にある距離を、少しでも縮めたい。
そのために、自分にできることを探している。
湊が写真で残そうとしているものと、
どこかつながっている気がした。
「その企画、写真撮らせてよ」
湊が言うと、紬は目を丸くした。
「え、いいの?」
「まだ企画も決まってないんだろ?」
「そうだけど!」
「決まったら教えて。撮影できそうなら協力する」
紬は、嬉しそうに頷いた。
「うん。絶対連絡する」
その返事を聞いて、湊も笑った。
二人の夢が、
まったく同じ形になることはないかもしれない。
けれど、それぞれの道を進む中で、
力を貸し合える瞬間はある。
そのことが、今は素直に嬉しかった。
帰り道、桜並木の前で二人は足を止めた。
花びらが風に揺れ、ゆっくりと舞い落ちていく。
湊はカメラを取り出した。
「撮る?」
紬が聞く。
「うん。今の景色、残しておきたい」
湊は桜にカメラを向けたあと、
少しだけ構図を変えた。
画面の端に、並んで歩く人たちの姿が入る。
桜だけではなく、その下を歩く人たちも。
この春を過ごしている人たちも。
全部が一つの景色だった。
シャッターを切る。
その音を聞いて、紬が画面を覗き込んだ。
「いい写真」
「そう?」
「うん。なんか、春が始まったって感じがする」
湊はもう一度、写真を見た。
そして、タイトルをつけた。
「それぞれの春」
一年前には、想像もしていなかった今がある。
来年、二人がどこで何をしているのかは分からない。
それでも、今この瞬間を残しておけば、
いつか振り返ったときに思い出せる。
この春、自分たちが何を考え、
どこへ向かおうとしていたのかを。
📷 Photo.091「それぞれの春」
撮影日:4月6日
桜は、いつか散ってしまう。
けれど、散ったからといって、
春がなかったことにはならない。
湊はカメラをしまい、隣を歩く紬を見た。
夢の形は違っても、
二人はそれぞれの場所で歩き続けている。
そして、その先にはまだ、
撮ったことのない景色が待っている。
今はまだ、その景色がどんなものなのか分からない。
だからこそ、
これから出会う一つひとつの瞬間を、
大切にしていきたいと思った。
――次回、第九十二話「まだ知らない景色」へ続く。
コメント
1件
第91話、読み終わりました。湊くんが「技術より、そこにいる人の気持ちを残したい」って自然と思えるようになったところ、じんわりきました。最後の「夢の形は違っても、力を貸し合える瞬間がある」っていう距離感が、二人らしくてとてもいいなと思います。次の「まだ知らない景色」も気になります。