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第九十二話 まだ知らない景色
四月の半ば。
湊は、机の上に広げた写真を見比べていた。
先日、作品集の掲載候補として
送った写真について、担当者から返事が届いていた。
結果は、まだ決まっていない。
ただ、写真に添えた文章について、
もう少し詳しく聞きたいという連絡があった。
湊はメールを読み返し、ノートを開いた。
自分が何を伝えたかったのか。
どうして、あの一枚を選んだのか。
文章にしようとすると、
思っていた以上に難しかった。
写真を撮っているときには、
自然に感じていたことだった。
イベントの終わりに集まった人たち。
別れを惜しむように話す人。
最後まで笑顔で手を振っていた人。
その光景を見たとき、
湊は「この時間が終わっても、今日出会った人たちの間には何かが残るのかもしれない」と思った。
けれど、
それをどう言葉にすればいいのか分からない。
「……うーん」
ペンを置く。
上手な言葉を探そうとするほど、
自分が最初に感じたことから離れていく気がした。
湊は一度、ノートを閉じた。
そしてカメラを手に取る。
気分転換に外へ出ることにした。
駅前は、いつもと変わらない風景だった。
改札を抜ける人。
誰かを待っている人。
急ぎ足で横断歩道を渡る人。
湊はしばらく歩きながら、何を撮ろうか考えていた。
すると、少し先で、
一人の男性が落とし物を拾っているのが見えた。
落としたことに気づかず
歩いていく人に、男性が声をかける。
相手は振り返り、何度も頭を下げた。
ほんの数秒の出来事だった。
湊は、その様子を見ていた。
何か特別なことが起きたわけではない。
ニュースになるような出来事でもない。
けれど、知らない人同士の間にも、
こうして小さなやり取りが生まれている。
湊はカメラを構えかけて、やめた。
今の場面は、写真に残さなくてもいいと思った。
その代わり、頭の中に残しておくことにした。
写真にできるものが、
すべて写真にするべきものとは限らない。
そう気づいたとき、少しだけ気持ちが軽くなった。
自分は、何でもかんでも
写真に残したいわけではない。
残したいと思った瞬間を、
どうすれば一枚の写真として届けられるのか。
そこを考えたいのだ。
帰宅すると、湊は再びノートを開いた。
今度は、難しい言葉を探さなかった。
自分が感じたことを、そのまま書き始めた。
――同じ場所にいても、
私たちはそれぞれ違う時間を過ごしている。
――けれど、何気ない出来事が、
知らない誰かとの距離を少しだけ縮めることがある。
――私は、そんな瞬間を写真に残したい。
書き終えてから、湊はゆっくり読み返した。
まだ完璧ではない。
それでも、さっきまでより
自分の気持ちに近い文章になっていた。
湊は、その文章を担当者へ送った。
同じ頃、
紬も大学で新しい企画について話し合っていた。
今回の話し合いでは、
国際交流に参加したことのない学生にも
興味を持ってもらうために、
どんな工夫ができるかを考えていた。
「最初から交流会って言われると、ちょっと緊張する人もいるんじゃないかな」
紬が言うと、向かいに座っていた学生が頷いた。
「確かに。英語が話せないと参加しにくいって思う人もいそう」
「だから、言葉を使うことだけが目的じゃない企画にしたいんだよね」
紬は、ノートにいくつか案を書き出した。
好きな音楽を紹介する。
出身地のおすすめの場所を紹介する。
写真を見せながら、自分の日常について話す。
特別な知識がなくても、
誰かに伝えたいものがあれば参加できる。
「写真を使うの、いいかもしれないね」
別の学生が言った。
「言葉だけじゃ説明しにくいことも、写真があったら伝わりやすそう」
その言葉に、紬の手が止まった。
湊の顔が浮かんだ。
以前、湊が見せてくれた写真。
何気ない街の風景なのに、
そこにいる人たちの暮らしまで
感じられる一枚だった。
写真は、ただ景色を見せるだけのものではない。
撮った人が何に目を向けたのか。
何を大切だと思ったのか。
そういうものまで、伝わることがある。
「……うん。それ、もう少し考えてみたい」
紬はノートに大きく書いた。
「写真から始まる交流」
まだ企画の形は決まっていない。
実現できるかどうかも、これからの話だった。
それでも、少しずつ方向が見えてきた気がした。
話し合いが終わったあと、
紬は湊にメッセージを送った。
『今日、企画の話し合いしてきた!』
『どうだった?』
『写真を使った交流ができないかなって考えてるところ』
少しして、湊から返事が来た。
『それ、面白そう』
『でしょ? まだ全然決まってないけどね』
『決まったら聞かせて』
紬は画面を見ながら笑った。
湊に話すと、
自分の考えをもう一度整理できることがある。
すぐに答えを出してくれるからではない。
自分の考えを、自分の言葉で伝えようとするからだ。
それは、以前よりも
自分の意見を持てるようになったことにも
つながっている気がした。
数日後。
湊のもとに、作品集の担当者から再び連絡が届いた。
送った写真と文章について、
もう一度話をしたいという内容だった。
湊は、メールを読み終えてから深く息を吸った。
まだ掲載が決まったわけではない。
これから、どんな話になるのかも分からない。
それでも、自分の写真について
誰かと話せることが嬉しかった。
カメラを始めた頃は、撮った写真を誰かに見せるだけでも緊張していた。
今は、どうすれば自分の伝えたいことが
届くのかを考えている。
少しずつではあるけれど、確かに変わってきていた。
湊は窓の外を見た。
桜の季節は、もう終わりに近づいている。
代わりに、街の木々は鮮やかな緑を増やしていた。
同じ道。
同じ窓から見える景色。
それなのに、季節が変わるだけで、
こんなにも違って見える。
湊はカメラを手に取り、
窓から見える街を一枚撮った。
タイトルは、まだつけなかった。
今はただ、この景色を残しておきたかった。
📷 Photo.092「まだ知らない景色」
撮影日:4月17日
知らない景色は、遠くにあるとは限らない。
いつも通っている道にも、
何度も見てきた場所にも、
まだ気づいていないものがある。
それを見つけられるかどうかは、
自分がどこに目を向けるかで変わるのかもしれない。
湊はカメラを机に置いた。
紬は、誰かと誰かが出会うきっかけを探している。
自分は、
そこで生まれる瞬間を残したいと思っている。
二人の道が、少しずつ形になり始めていた。
けれど、その先にはまだ、
今の二人には想像できない
出会いや選択が待っている。
それを知るのは、もう少し先のことだった。
――次回、第九十三話「伝えたい気持ち」へ続く。
コメント
1件
こんにちは、リオンです。 第92話、拝読しました。湊が「写し取れるからといって、すべてを写真にする必要はない」と気づく場面、とても印象的でした。カメラを構えてやめる、その判断の奥に彼の表現者としての成長を感じます。紬も写真を「交流のきっかけ」にするアイデアを考えていて、ふたりの道が並行しながらもどこかで響き合っているのが心地よかったです。「知らない景色は遠くにあるとは限らない」――この言葉、すごく好きです。次回も楽しみにしています。