朝の七時四十五分。
いつもの時間に玄関を出て、門を開ける。
するとまるではかったかの様なぴったりのタイミングで、隣の家の玄関扉が開きスーツ姿の大樹が現れた。
あーあ、朝からついてない。
大樹は直ぐに私の存在に気付き、避ける間もなくやたら機嫌の良さそうな笑顔で声をかけてくる。
「花乃、おはよう」
秋晴れの朝に相応しい、爽やかな笑顔。
会いたくない人物との朝一の遭遇で、私は憂鬱顔に小さな声という爽やかさゼロの返事をする。
「おはよう」
それから直ぐに開きかけていた門から出て、さっさと駅へ向かう。
これ以上、話しかけられたらたまらないし。
それなのに空気の読めない大樹は、「花乃待って!」なんて言いながら駆け寄って来て、当たり前の様に私の隣で立ち止まった。
「……何?」
素っ気無く言っても大樹には全く通じない。ニコリと笑って楽しそうに言う。
「一緒に行こう」
「なんで? 一人で行きなよ」
「行き先同じなんだからいいじゃん」
いいわけない。大樹は良くても私は嫌だし。
でも嫌味を言って通じない。言うだけ無駄だってのも分かってる。
冷たくしたって全然気付かないで、いつも、ヘラヘラニコニコなんだから。
昨日タルトを問答無用でつき返したことに、実は少し罪悪感をもっていたけれど、無駄な心配だったみたいだ。
大樹は何も気にしてないんだ。
黙って黙々と歩いていると、大樹が私の顔をひょいと覗きこむ様にして言った。
「花乃っていつもこの時間?」
突然の顔のアップに焦りながら私は大樹を睨み付けた。
「そうだけど……急にのぞきこまないでよ、びっくりするでしょ?」
「ごめん。でもそうしないと花乃に聞こえないかと思って。花乃と話してる時、たまに俺ひとりで話してるってことあるじゃん?」
私のキツイ口調なんて気にも留めず、大樹はヘラっとした顔で言う。
私は内心盛大な溜息を吐いた。
やっぱり大樹は能天気だ。
私があえて聞こえないふりをしてるって全く気づいてないなんて。
「それで花乃はいつもこの時間なの?」
大樹はもう一度同じ質問を繰り返した。
「そうだけど」
「へえ。じゃあ俺も明日からこの時間にしよ」
「なんで?!」
大樹はなぜか嬉しそうにしているけれど、私としては大迷惑!
だってこの時間にされたら毎朝会ってしまうじゃない。
「いつも車で通勤してたでしょ?」
それがなぜいきなり電車で通うの?
大樹はヤケに楽しそうに、ブラックのビジネスバッグをぶらぶらと振りながら歩いている。
まるで子供のような……もしかして、運転中にもこうやって落ち着き無くキョロキョロしたりして、車をぶつけて壊しちゃったとか?
それかうっかりスピード違反で免停になったとか?
疑いの目を向ける私に、大樹は相変わらずの甘い笑顔で言った。
「俺、幕張事業所から本社に転勤になったんだ。今日から花乃と同じ大手町勤務。都内は電車の方が便利だね」
「ええっ?!」
あまりのショックについ大きな声を出す。
だって勤務先の駅が一緒だって事は、電車もずうっと一緒って事じゃない!
自宅の最寄駅から大手町迄は乗り換えは一回だけど、朝のラッシュの時間だと電車に乗ってる時間だけで四十分位はかかる。
そんな長い間大樹と一緒なんて有りえない!
「ねえ、大手町だったらこの時間だとぎりぎりだよ? 会社に着くのは八時五十分位になるから、ちょっとでも電車が遅れると遅刻だよ。もう少し早い電車の方がいいんじゃない?」
毎朝そんなぎりぎりの時間の電車に乗っている自分については棚に上げて、大樹を諭す。
でも、大樹は明るい笑顔を浮かべて言った。
「花乃が心配してくれるなんて珍しいな。でも大丈夫。俺の会社9時15分始まりだから!」
「……え?」
何、それ? 何でそんな中途半端な時間の始まりなの?
大樹の出社時間を変える手段を一つ失った私は、がっかりと肩を落とす。
対照的に大樹は「花乃、ぼんやりしてたら遅れるよ!」なんて上機嫌に言って極上の笑顔を私に向けた。
いくら素っ気無くしても嫌ですって空気を醸し出しても、へこたれない大樹は私の隣から動かず、ラッシュの通勤電車に一緒に乗り込んだ。
私達の駅はまだましなんだけど、次はターミナル駅のなので一気に人が増えて乗車率百パーセントを超える。
人の波に押され、あっと言う間に開いていたドアとは反対側のドアの方へと押しやられた。
毎朝の事だけど、やっぱり苦しい。
次の駅になったら、また人が増えるからもっと辛くなるんだよね。
ああ……本当にこれだけは何年経っても苦手だな。
憂鬱な気持ちになっていたんだけど、しばらくするといつもより快適な自分の状況に気がついた。
いつもこれでもかてくらいドアに押し付けられるって言うのに、今日感じる圧力は大した事ない。
なんで?
なんとか首を動かして確認すると、私の後ろには大樹がいて……彼がドアに腕をついて耐えてくれているから圧力が少ないんだと気がついた。
もちろん全く圧がないわけじゃないけれど、いつもより全然少ない。
大樹と一緒に通勤なんて最悪って思ったけど、これは結構助かるかも。
私はすっかりリラックスして、窓の外の風景に目を向けた。
それから三十分程して、大手町の駅に到着した。
オフィス街だけあって降りる人が沢山居る。
私もその波に乗りホームに降りようとしたその時、閉まりかけのドアから慌てて降りて来た人にドンと勢いよく身体を突き飛ばされてしまった。
「あっ!」
油断していたから耐えられない。
そのまま転んでしまうかと思ったけど、がしっと腰に回された腕が私の身体を支えてくれた。
その力強い腕はバランスを崩した私を軽々と引き上げる。
「す、すみません」
助けてくれた誰かにお礼を言うと、聞きなれた声が耳に飛び込んで来た。
「花乃、大丈夫?」
「え?……大樹?」
よく見ると、私の腰に腕を回しているのは大樹だった。
もう転ばないようにと思っているのか、大樹は更に私をぐいっと自分の方へ引き寄せたから、凄く密着した状態になってしまった。
「うわっ!」
慌てて大樹の腕の中から抜け出そうとする。
でもその腕は想像よりずっと力が強くて、私が暴れてもビクともしない。
「花乃、落ち着いて、また転ぶよ」
大樹は眉をひそめて言う。
確かに転びそうにはなったけど、支えてくれて助かったけど……でも、大樹にだけは落ち着けなんて言われたくなかった。
大樹の会社と私の会社は、非常に近い位置に有った。
大手商社の大樹の会社は歴史有る重厚な雰囲気の自社ビルで、私の会社はその二軒隣に建つ比較的新しい複合ビルの十五階と十六階のフロアを借りている。
そんな距離だから、大手町から会社までもが一緒に歩くことになる。
私は会社の人達に見られたら嫌だなと思ってるのに、大樹は他人の目なんて全く気にしてないようで、ニコニコと私に話しかけて来る。
「ねえ花乃、会社も近いし、昼飯一緒に食べようよ。待ち合わせしてさ」
ウキウキとしたその様子は、まるで女の子の様。
私は女子力ゼロってくらいの愛想の無さでピシャリと言った。
「遠慮します」
ランチまで大樹と一緒になんて、全力で回避するわ。
「なんで? いいじゃん。美味しい店とか教えてよ」
「大樹の会社は社食あるでしょ?」
メディアの撮影を受けるくらい豪華でメニューにも凝った食堂が。
テレビで見て、ちょっと羨ましいって思ったんだよね。
「遠慮するなよ。社食のことなんて気にしなくていいし」
「……」
あなた社交辞令しらないんですか?って聞いてしまいたい。
ああ、かなりストレスのたまる会話。
「花乃聞いてる?」
「……聞こえてます」
「やっぱり昼より夜のがいいかな? この辺って夜になると……」
大樹の会社のエントランスに着く迄、苦痛の時間は続いた。
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