テラーノベル
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ある日の放課後、私はふと教室の窓から外を見ていた。夕焼けに染まった校庭を、サッカー部の男子が笑いながら走り回っている。風が頬をかすめる。誰かが私の名前を呼んだような気がしたが、振り向かなかった。 ふと、胸の奥で、何かがぽきりと折れる音がした。
――もう、いいんじゃないか。
その声は驚くほど静かで、冷たくて、そして甘かった。私はペンを置き、無意識のうちにノートを閉じていた。
その日を境に、私は少しずつ消える準備を始めた。スマホの写真を整理し、SNSのアカウントを削除し、連絡先を消した。友達からのグループチャットも抜けた。バイトも「家の事情で」と言って辞めた。誰も本気で止めなかった。みんな「いい子」の私が、まさか何かを抱えているなんて思わないのだ。
家ではいつも通りの顔をして過ごした。母が夕飯を作っている音、父がテレビを見て笑う声。すべてが薄い膜に覆われたように遠くに感じる。私はその中にいても、もう自分の体がここにある気がしなかった。
夜、部屋の電気を消してベッドに横たわる。スマホの光はもうない。暗闇の中で、目を閉じる。瞼の裏に、知らない街の風景が浮かんでくる。海、山、カフェ、知らない人たちの笑顔。私の心はその景色の中で、かすかに息をしていた。
――行こう。
小さく呟く。声にならない声。
そのとき初めて、胸の奥が少しだけ軽くなった。
数日後の朝、私は最低限の荷物をリュックに詰めた。財布、身分証、着替え、日記帳。スマホは持たなかった。母には「学校の友達の家に泊まる」とだけ伝え、家を出た。駅へ向かう途中、空は薄く曇っていて、街の匂いがいつもより遠く感じた。
新幹線に乗り、知らない県の小さな駅で降りた。潮の匂いがした。海が近い街。観光パンフレットに載っていない裏道を歩く。見慣れないカフェ、古い旅館、誰かが干している洗濯物。私は「私」ではなく、ただの旅人になった気がした。
歩いていると、小さな子どもが転んで泣いていた。私は自然としゃがみこみ、ハンカチを差し出した。子どもの母親が慌てて駆け寄り「ありがとうございます」と何度も頭を下げた。私は笑って首を振り、名前も言わずに立ち去った。
そのとき、胸の奥にあった何かがほんの少しだけあたたかくなった。優しさはやっぱり私の中にあったのだ。ただ、誰の期待にも縛られない優しさとして。
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