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私はその街で、時間を自分のものにできることを初めて知った。朝は小さなベーカリーで焼きたてのパンを買い、海辺のベンチに腰掛けてかじる。潮の匂いが鼻をくすぐり、波の音が静かに耳に届く。普段の生活では、誰かの期待に応えるために慌ただしく過ぎ去る朝だったが、ここでは時間がゆっくりと流れた。

昼間は街の路地を歩いた。古い建物に挟まれた細い道、ほのかに漂う花の匂い。観光客の姿は少なく、私の足音だけが石畳に響く。小さなカフェに入ると、店主がにこやかに迎えてくれた。名前も名乗らず、ただ「一人です」とだけ告げる。窓際の席に座り、温かい紅茶を手にして外を眺める。遠くで子どもたちの声が響き、老人がベンチで猫に餌をやる。私はそれを静かに見守るだけで満たされていた。

ある日、古本屋の前で立ち止まった。店内に入ると、紙の匂いが混ざった木の香りが広がる。棚を手でなぞりながら、無造作に積まれた本をめくる。ページをめくるたびに、知らない誰かの思考に触れる感覚があった。作家の心の痕跡が、私の心をほんの少しだけ温める。小説の中の主人公が苦悩し、喜び、泣くのを見て、私も一緒に涙を流した。

昼下がり、海辺の遊歩道を歩く。靴を脱ぎ、砂の上を裸足で歩くと、冷たい砂の感触が足裏に伝わる。波が寄せては返し、時折小さな貝殻が足に触れる。風は柔らかく、髪を揺らす。私は思わず目を閉じ、深く息を吸った。ここでは誰も私を知らない。名前も、過去も、期待も――すべてが存在しない。私の身体だけが、ここにある。

ある夜、宿の小さな窓から海を見た。月明かりが水面に反射して銀色に揺れる。波の音と風の音だけが静かに響く。日記帳にペンを走らせた。

「私は今、自由だ。

誰の期待にも縛られず、誰のためでもない。

この時間は、私だけのもの。」

その言葉を書きながら、涙が頬を伝った。悲しい涙ではなく、長い間押し込めていた感情の解放だった。心の中に小さな光が差し込む。誰にも邪魔されない瞬間に、私は初めて自分の存在を肯定できた気がした。

次の日、朝焼けを見に少し遠くの岬まで歩いた。街灯の明かりが消えかけ、空はうっすらとオレンジ色に染まる。水平線の向こうから、日が昇るのを見た。光が海を照らすと、波がキラキラと輝いた。胸の奥がぎゅっとなるような感覚。こんな景色を、誰にも見せずに一人で見ている――それだけで、私は生きている実感を得た。

街の人々との些細な交流も、私に喜びをくれた。カフェで店主が「今日は特別に焼きたてのクロワッサンをどうぞ」と笑う。道端で迷子の犬を抱える女性に手を貸す。小さな子どもが私のリュックを引っ張り、「見て見て!」と拾った貝殻を見せてくれる。私は名前も名乗らず、笑顔だけを返す。誰かの記憶には残らない、けれど確かに存在する交流。

夜になると、海辺のベンチに座り、遠くの灯台の光を眺める。星はまだ薄く、月が海に反射している。私は日記に書き留める。

「私が自由でいられるのは、あと少しだけ。

でも、数日でもいい。私は確かにこの世界の中で息をしている。」

時間がゆっくりと流れる中、私は些細な瞬間に幸せを感じた。砂の冷たさ、海の匂い、知らない人の笑顔、温かい紅茶の味。すべてが、私の心に深く染み込む。

自由な時間の中で、私は自分の心の声に耳を傾けた。誰かに期待されるために生きる必要はない。過去の「いい子」という仮面も、学校や家族での役割も、もう必要ない。私はただ、「私」でいることができる。それがこんなにも心を満たすのか、と驚いた。

五日目の朝、私は最後に海辺の岬へ行くことを決めた。朝焼けの光の中で、自分の存在を静かに感じ、最後の数日間をかみしめるために。

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