晴れ渡った夜が月に白く照らし出され、更に一段と冷え込む頃、ユカリは眠気に意識をぼんやりしながら、しかし眠れずにいた。飼う者の蜂に刺された痛みは大王国の医者によってかなり引いたが、今度は熱を持った痒みに襲われていた。ごわついた毛布の感触と重みを苛立ちと共に投げ捨ててなお安らかな眠りがやってくることはなかった。最早秋とは思えない冷たい空気が熱を帯びた肌を優しく撫でさすり、心地よさに包まれるが、それでも睡魔はユカリを遠巻きに眺めている。この寒さの中で眠る訳にもいかないのだが。
ユカリは我慢ならず起き上がり、寝台を降りる。かといってすることはないので体のあちこちに巻いた包帯を撫でる。痒みと痛みが蜂の羽音を思い起こさせる。杖から噴き出した風では蜂から身を守り切れなかった。宙に浮ける程の力はあるが、魔術によって統率された蜂の攻勢には力及ばなかったのだ。魔導書による変身と魔導書なしの変身では大人と赤ん坊ほどの差があり、形だけ真似た代物に過ぎないのだ、とユカリは既に思い知らされている。
それでも魔導書の魔法を実現できるという希望に至る最初の一歩を踏み出したのは間違いない。使い魔たちを魔導書から解放することだってできるはずだ、と今では信じていた。
さすがに冷えてきて、仕方なくもう一度毛布をかぶろうとしたその時、魔導書の気配に全身の肌が粟立つ。沢山の魔導書が、つまり使い魔たちがこの大王国の仮初の要塞に近づいて来ている。偵察を捕まえた時点で予期していたことではあった。
「みんな起きて! 大量の使い魔たちがやってくる!」
ユカリは仲間たちも大王国の戦士たちも分け隔てなく呼び起こし、痒みよりも主張の強い気配のやってくる方向が南であることを伝えつつ、魔法少女に変身し、外へと急ぐ。
城壁にたどり着き、胸壁の向こうに広がる真っ暗な世界を眺める。風の音、波の音とは違う息づくような気配を感じる。
「見える?」とすぐ後にやってきたベルニージュが言った。
「見えない。でも気配は感じる。数は分からないけど一塊になって真っすぐこっちに向かって、あ! いや、二手に分かれた」
「伝えてくる」ベルニージュが少し離れると、大王国の戦士らしき声が伝令のように大声を張り上げながら離れていくのが聞こえた。
「ベル! さらに二手に、あ! また! 広がっていく!」
「なんでこんな時に伝える者はいないの!?」とベルニージュが愚痴を零しながら言ったり来たりする。
伝える者は救済機構の拠点を襲撃した際に奪われたのだ。後方故に油断した結果だ。連携すべき状況で伝える者以上の使い魔はいないが故に、襲撃を受けた救済機構は真っ先に捜索し、奪い取ったのだ。
「エニ派か狩猟団かと思うんだけど。狙いは私じゃないのかな。なんで分かれるんだろう? 私の位置を探れる使い魔がいないのかな?」
「窺う者はここにいる。占う者、観る者は逃げてなければ機構側。探る者がたぶんエニ派だね。機構にせよエニ派にせよ、場所は割れてると思った方が良い。混乱攪乱が狙いかも」
ベルニージュが方々に火を投げかける。それは攻撃ではなく照明だ。城のどこかにいる爆ぜる者も察したらしく、同じような、しかし少し派手な魔術で城の外が明るく照らし出される。
そして確かに暗がりに異形の者たちがいた。ユカリがそれを見たと同時に戦士たちが矢を射かけ、魔法を放つ。同時に要塞の方からも悲鳴が聞こえる。
「あるいは誘い出そうとしているのかも」ベルニージュがそう言ってユカリの腕をつかんだ。「ワタシのそばを離れちゃ駄目だよ」
「分かったよ。扇状に広がった……、けど止まった。ベルの言う通りかも」
「そういえばかわる者は深奥にも潜れるんだよね?」とベルニージュが珍しく不安げに尋ねる。
「大丈夫だよ。魔導書の気配は深奥の方向からも感知できるからね」
ユカリがそう言い終わるや否や、ベルニージュの内から紅蓮の炎が噴き出し、その細身は燃え尽きたかのように消え失せた。
否、消え失せたのは自分自身だとユカリはすぐに気づく。ベルニージュとは対照的に大王国の要塞は存在感を増し、夜は太陽が生まれる前の原初の闇の如く濃く暗くなっていた。深奥に引きずり込まれたのだ。そう気づくと同時に、ユカリの肩を掴む手にも気づき、振り払う。
「なるほど。気配をつかめない訳です」ユカリは悔しそうに呟く。「使い魔ではないかわる者派がいたとはね。アンソルーペさん」
「そそそういうわけではありませんが、ま、まあ、協力関係だとおも思っていたただければ。そそそれにしてもよよく分かりましたね。わたた私だって」
変身前後を混ぜ合わせたようなユカリの魂の姿と比べても、アンソルーペは元の姿とは似ても似つかない別人だった。中性的な面立ちで、身長も高い。面影は髪の栗色と瞳の緑くらいなものだ。
「分かります。それに、二人いる」
「へえ、わか分かりますか」アンソルーペは少し視線をずらして微笑む。「とのことですが。魂の操作はおとお得意だったのでは?」「うるせえ」
その時、急接近する魔導書の気配に気づき、慌てて飛び退く。が、深奥を飛来した矢は避けた距離も予め計算していたかのようにユカリの肩をかすめた。鏃は魔法少女の衣装を破ると同時に小さな人の形に変身し、その肌に封印を貼った。かわる者だ。
器用な真似に感心しつつ、ユカリはすぐさま封印を剥がす、ことができた。魂であり、肉体でもあるユカリを乗っ取るつもりではなかったということだ。しかしかわる者の思惑は、その刹那で十分成し遂げられた。
それもかわる者の魔法なのか、はたまた使い魔に共通する力なのか。一瞬の間に知らない記憶がユカリの頭に流れ込んできた。あるいは呼び起こされた。
前世の記憶だ。実感は未だに曖昧なのに、そう確信できる。
魔法の無い異世界に生まれた不思議な少女のこと。少女が力を込め、不思議になったノートのこと。それらが鮮明に浮かび上がる。
「やっぱりあなただったんだ」とかわる者が言う。「やっぱりあなたじゃなかったんだ」とも言う。「一つ前の世界の記憶。その時感じた魔法少女ゆかりの魂は確かにここにある」
「転生のことも知ってるの?」とユカリは問いかける。「ねえ、教えて。私は何者なの? どっちなの?」
「どっちも、なんだよ」かわる者は悲しげに呟いた。「魂は確かに二つあって、でも一つになっている。だけど、完全な融合ではない。癒着とでも言うべきか」
想像できていなかったその状態は、想像していた状態よりもましなのか、そうでないのか、それすら分からない。転生してきたユカリの魂が、ラミスカの魂を塗り潰してしまったのかもしれない、という、想像していた恐怖はまだつかず離れずそばにいた。
そしてユカリはかわる者の封印を投げ捨てる。と、同時に浅い方向へと強い力で引っ張り込まれた。
真っ暗で冷たくて複雑な夜に戻って来て、ユカリはベルニージュに抱きかかえられていた。痒みと痛みが戻って来て溜息が出る。
「大丈夫?」ベルニージュは気遣わしげに問いかける。「ユカリ? 怪我はない?」
「うん。怪我はない」
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