テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
早朝4時。小さな共同のキッチンに、スンホはそっと立っていた。
支援施設の冷蔵庫に名前を書いて入れていた安いインスタントコーヒーを取り出し、紙コップにお湯を注ぐ。
湯気が上がるその匂いに、まだ慣れない異国の空気が混ざっている気がした。
「……일어나자(起きろ)」
自分に小さく言い聞かせる。
今日から本格的に、清掃のアルバイトが始まる。
まだ週3回だけの短時間勤務。
それでも、ここから何かを積み上げるしかない。
スンホはスマホの画面を開いた。
韓国にいる母親からの未読のメッセージが溜まっている。
既読にする勇気はまだない。
でも、いつか返事をするつもりだ。
紙コップを持ったまま、薄暗い窓の外を見ると、まだ真夜中に近い東京の街が静かに目を覚まし始めていた。
眠らない街のどこかで、まだ借金取りたちはスンホを探しているかもしれない。
でも、もう逃げない。
今日の時給は千円。
半日働いても、借金の数字はほとんど変わらない。
それでもいい。
「조금씩(少しずつ)」
小さくつぶやいて、空になった紙コップをゴミ箱に落とした。
玄関で薄いジャンパーを羽織り、靴を履く。
朝の空気はまだ肌寒い。
それが逆に、眠気を吹き飛ばしてくれた。
(ここで生きる……ここで、生き直す……)
スンホは小さく息を吐くと、まだ白い息を東京の空に溶かして、
小さなアパートのドアを開けた。
一歩ずつ、靴音が静かに歩道に溶けていった。
東京の新しい朝が、遠くで光を集めていた。
月末。
給料日だったはずの日、スンホの手元にはなぜか想定よりずっと少ない金額しか振り込まれていなかった。
欠勤した日も、遅れた日も、間違った日本語で注意を受けた日も――
それがきちんと引かれている。
そして、施設の利用料。
食費、交通費。
銀行のアプリを閉じても、通帳を見ても、数字は変わらない。
手元に残ったのは、数千円。
(……何も買えない)
施設の廊下の蛍光灯が、少し暗く感じる。
スンホはスマホを見つめる。
以前関わっていた男――
名前も顔も忘れたい、でも連絡先を消せないままのその番号が、履歴の下の方に沈んでいる。
指が、そこに触れそうになる。
(またやるのか?)
自分で問いかける。
でも、すぐに理性は答えない。
頭の中で、あの時の快楽がちらつく。
夜の光、金の匂い、人を騙していた頃の罪悪感よりも先に、
手元に「札束」があったこと。
――着信音が鳴る。
思わず飛び上がって、画面を見た。
“非通知”
何の用かわからない。でも、出てしまう。
「……はい」
数秒の沈黙のあと、低い男の声が聞こえた。
「まだ、必要か?」
スンホの喉が、ひとりでに鳴る。
喉の奥が乾いて、指先が震える。
(だめだ、出るな……)
自分の中の理性が小さくささやく。
でも、その声はあまりに遠かった。
「……会うだけ。会うだけなら……」
スンホは、誰にも聞こえないようにそう言った。
東京の夜が、また彼を引き戻そうとしていた。